UNFORGETTABLE VISIONS
UPLOADED: JANUARY, 2004

Vol. 1 - 30


1. FIGUERAS, SPAIN, 1994

幼児期、書棚にあった世界美術全集を開いた。
サルバドール・ダリの絵が、とても不思議でおもしろかった。
大人になっても気になるサルバドール・ダリ。
だから、スペインの、彼の故郷まで行ってみた。

これは、もう外観からしてそそられる、サルバドール・ダリ・ミュージアム。


2. LEIPZEG, GERMANY, 1994

東欧の寂れた街のたたずまいに引かれていた。

どこまでも沈鬱に浸らせてくれる重苦しさが、よかった。

早朝は快晴だったのに、ホテルを出た途端、空に厚い雲が立ちこめはじめ、
博物館に着いたころには、大雨になった。開館までの30分、博物館の入り口で雨宿り。

雲はものすごい勢いで通り過ぎ、また青空が見えてきた。
朝日に照らされて、街がキラキラとしていた。


3. ASSISI, ITALY, 1994

サン・フランチェスコが、教えを説いた、アッシジ。
ここに立ち寄る予定はなかったのに、列車で出会った、やはりひとり旅の日本人女性に勧められて来た。
彼女、MAYUMIさんに出会えたことを、未だ深く感謝する。

アッシジには、特別な風が吹いていた。
街の至る所から響いてくる鐘の音を聞いているだけで、
ウンブリアの大地を見渡しているだけで、
むやみやたらと心が浄化されて、独りでいることがどれだけ寂しいかを、とことんまで、味わった。


4. KEELUNG, TAIWAN, 1993

台北から基隆へ向かう列車の、吊革。

1988年、初めて台湾を訪れたとき、たいへんな懐かしさに襲われた。特に西門町を歩いていると。
今はすっかり変わってしまったけれど、当時、そこには日本統治時代の市場が残っていた。
裸電球がぶら下がっていたその市場は、わたしが幼かったころの汐見マーケットによく似ていた。
市場の事務室には、市場の創設者である日本人の写真が飾られていた。
台湾に行ってから、日本と他のアジアの国々との歴史について、関心を持つようになったのだった。


5. BUDAPEST, HUNGARY, 1994

旅の間、大切なのは、カフェ。ブダペストで見つけた、19世紀の面影を残すカフェ。ここに数回通った。
1階は、このレストラン。2階はレストランを見下ろすよう吹き抜けとなった、回廊のカフェ。
最初の日、ピアノのそばのテーブルに席を取り、コーヒーを飲んだ。
ピアノ弾きの老紳士が、「リクエストはありますか?」と尋ねてくれた。
何をリクエストしたか、どうしても思い出せないけれど、老紳士のやさしい雰囲気は、思い出せる。

このカフェレストランは、NEW YORK、という名前だった。


6. SAN GIMIGNANO, ITALY, 1995

かつて人々は、富や権力を誇示するために、高い塔を建てた。次々に、建てた。
息を切らしてのぼった、一番高い塔。ブドウ畑やオリーブ畑を抱いたトスカーナの大地が眼下に広がる。

14-15世紀の全盛時代、この小さなサンジミニャーノの街には、70本を超える塔が林立していた。
今では、そのうちの14本が残っている。

ワールド・トレードセンターが消えた日、わたしは、この城塞の街のことを思い出していた。


7. TAIPEI, TAIWAN, 1993

台湾には、中国本土の料理に加え、台湾独自の料理がある。
ともかく、食文化が、この上なく豊かだ。

二度目の訪問時は、母と妹を誘った。「選りすぐりの店」を巡り、食べて、遊んだ。
雑踏の中で、ひときわ目立つ屋台。魅惑的な黄金色に、わたしたちは思わず足を止めた。
ホクホクと、甘い、それは積み重ねられた、サツマイモの飴焼き。ああ、台湾。今すぐにも行きたい。


8. PRAHA, CZECH REPUBLIC, 1994

中学のとき、スメタナの「我が祖国」を聴いて以来、プラハは特別な場所になった。
プラハ。その響きの、なんと美しいことか。プラハの駅を降り立ったときの胸の高鳴りを思い出す。
スメタナ・ホールでドヴォルザークのシンフォニーを聴き、エステート劇場で現代バレエを観、
クレメンティヌム鏡の間でモーツァルトとドヴォルザークの弦楽四重奏を聴いた。

そして、忘れ難きは、カレル橋から滔々とゆくヴルタヴァ(モルダウ)川を見下ろすひととき。
やむことなく高らかに、脳裏に流れ続けた「我が祖国」第二楽章「ヴルタヴァ(モルダウ)」の旋律!


9. NEW YORK, U.S.A., 2000

アッパーウエストサイド。住み慣れた街。
天気のいい週末は、よくセントラルパークへ散歩に出かけた。
その足で、コロンバス・アベニューや、アムステルダム・アベニュー沿いを歩いた。
ブランチを食べに行ったり。ただ、ウインドーショッピングをしたり。
道行く人を眺めたり。眺められたり。
何年たっても、「ああ、わたしはここに暮らせているんだ。自分の力で」と確認しては、満たされた。


10. COMILLAS, SPAIN, 1994

ビスケー湾を望む、北スペインの、静かな村。

この村でのことは、幻。

アントニオ・ガウディの建築物と、彼のブロンズ像が、ここにはあった。

一面に、ひまわりの花が埋め込まれた、建物だった。


11. FREIBURG, GERMANY, 1994

バーデン・バーデンというドイツの「温泉地」から、列車で約50分走った先にあるフライブルク。
列車のコンパートメントに居合わせた初老のビジネスマンと言葉を交わす。
「ずっと旅をしています」と言ったら、「パパとママが心配しているでしょう?」と言われた。

古い石畳の間に、まるでチョコレートみたいなコールタールを流し込んで、補強工事をしている人たち。
その様子がとても楽しくて、しばらく眺めていた。


12. KYOTO, JAPAN, 1994

それがどんな食べ物であれ、店頭で職人さんが作っている様子を眺めるのは、本当に楽しい。
毎日毎日の積み重ねによって、熟練された独特の手の動き。効率のよい作業の段取り。
眺めているうちに、思い入れが加わって、よりいっそう、それがおいしそうに見えてくる。

月刊誌「旅」の取材で、京都を訪れたときに立ち寄った望月本舗。
できたての、アツアツを、頬張る瞬間の幸せ。


13. AYERS ROCK, AUSTRALIA, 1994

オーストラリアの先住民アボリジニが、聖なる山として仰ぐエアーズロック。世界最大級の一枚岩。
朝、麓まで出かけたら、この岩に上る人々が稜線に連なっていて、まるで蟻の行列のようだった。
アボリジニの人々は、これを聖なる山と崇めていたのだから、上ったりは決してしなかった。

雑誌の取材で出かけた。新婚旅行に好適な場所を紹介する特集。当時のわたしには縁遠かった企画。
ロマンティックな情景の中、年輩のフォトグラファーと過ごした、ほろ苦い夕暮れ。
29歳の秋。シャンパーングラスの中に閉じこめられた世界。


14. KOTA BELUT, BORNEO, MALAYSIA, 1991

海外ドライブ特集を毎月のように編集していたころ。
年間の企画を立て、それが通れば、自分の行きたかったところを取材できた。
マレーシアのボルネオ島はそんな場所の一つだった。
小学校6年生の社会科の時間。なぜかわたしはボルネオ島の担当となり、研究発表をした。
それ以来、ボルネオ島のことが、少し気になっていた。
からゆきさんで知られるサンダカンや、ウミガメの産卵で知られるセリンガン島にも行った。
吊り橋を渡っているのはわたしで、写真を撮ったのはフォトグラファーだった。


15. VENEZIA, ITALY, 1994

「ヴェネツィアだけは、男と行くべきよ!」
年上の、旅慣れた友人は、そう、力説した。
けれどわたしは、ひとりだった。

地図を閉じ、しばし目を閉じ、それから歩き出す。思うままゆき、わざと道に迷ってみようとした。
でも、決して、迷いきれないことは、自分でもわかっていた。
わたしはそういう性格だったし、いまでも多分、そうなのだ。


16. PARIS, FRANCE, 1994

パリは、ヨーロッパの旅をするときの、起点だった。
ここから列車に乗ったり、レンタカーを借りたりした。

このときは、パリのアパルトマンに住む友人の家に、しばらく泊まらせてもらった。
彼女は、よくエディット・ピアフを聴いていた。今も、多分パリにいるだろう。

マルシェで買ってきたアボガドに、醤油をかけて、二人で食べた。
「お刺身みたいで、おいしいね!」
笑い合いながら、食べた。


17. BROADWAY, COTSWOLDS, U.K., 1995

イギリスのワージングという海辺の町で、語学留学をした。雑誌の仕事も引き受けて来ていた。
週末を利用して、カメラを片手に、コッツウォルズ地方を旅する。The heart of England。
なだらかな緑の野を走り抜けると、はちみつ色をした石造りの家並み。小さな村々。
16世紀に設立された「Hotel Lygon Arms」は、ブロードウェイという名の村にあった。
上品なアンティークでまとめられた調度品、天井の高い優雅なダイニング。
花が好きな母が、きっと喜びそうな場所だ。
いつか一緒に行きたいと思いながら、歳月が過ぎてゆく。


18. UBUD, BALI, INDONESIA, 1992
(バリ島、ウブドの、楽園のような宿に滞在していたときの、絵日記より)

オーナーのMr. A.J. Maesと、雨を眺めながら、テラスで話をした。
オランダ人のこのおじさんは、バリを一目で好きになり、ここに住むことを決めたという。
「500年か600年前、僕はここに住んでいたような気がするんだ。そのとき僕は、木だったかもしれない」
「わたしは、自分が以前、なんだったか、わからないのです」
「そうだなあ。君はたくましそうだから、サムライだったんじゃないかな?」
「……」


19. WARTHING, U.K., 1995

こうして、窓から覗き見るわたしのために、
誰かが、引っ越しのとき残していった、一枚の絵。


20. BEIJING, CHINA, 1992

モンゴル旅行を終えて、北京経由で日本へ帰る途中。
空港近くの食堂に、何度か通った。とてもおいしい水餃子を出す、家族経営の店。
店を手伝う、右端の末娘と仲良くなったわたしは、何度も筆談で言葉を交わした。
「明日は別のホテルに移る」と言ったら、「うちに泊まりにおいでよ」とさそってくれた。

彼女の自転車の荷台にのって、彼女の家族の自転車隊に連なって、団地まで走る夕暮れどき。
わたしは、なんて温かい人たちと、出会ってきただろう。


21. STOW ON THE WOLD, COTSWOLDS, U.K., 1995

デボンシャークリーム、というものが、こんなにも、おいしかっただなんて。
小さくちぎったスコーンに、たっぷりのデボンシャークリームと、イチゴジャムをつけて。
ひとくち。ふたくち。

なんて幸せな、味なんだろう。

熱い紅茶を飲みながら、ゆっくり、ゆっくりと、食べた。


22. NEW YORK, U.S.A. 1999

マンハッタンが、いちばん美しいのは、朝焼けの時刻と、夕焼けの時刻。

ダコタ・ハウスのあたりを歩きながら、

「ここに住むには、いったいどうすればいいんだろう」

と、本気で考えたこともあった。


23. PARIS, FRANCE, 1999

パリに来るときにはいつも、このオルセー美術館に来てしまう。

それは多分、この美術館が、そもそもは駅だったからだ。

ヨーロッパの、大きな駅は、ともかく、理屈抜きに、とてもいいのだ。


24. ASSISI, ITALY, 1994
(旅の日記より抜粋)

迷路のように入り組んだ小路や階段は、時間の経過と共に表情を変える。
「この道は初めて通る」と思っていたら、もう、何度も通過したところだったり……。
人がいるのといないのとでも、全く雰囲気が変わる。

玄関の脇に「PAX(平和)」と記されたタイルがはめこまれた家々。
赤やピンク、黄色い花を咲かせた鉢植えが、石色の町並みにくっきりと浮かび上がる。


25. KYOTO, JAPAN, 1994

「食」の取材をしていたわけではないのに、

どうしてだか、食べ物の写真がとても多い。

行儀よく並んだ、たっぷりの八つ橋もまた、魅惑的で。


26. CADAQUES, SPAIN, 1994

カダケスという漁村には、サルバドール・ダリが住んでいた家がある。そこを訪れたかった。
たしか中学生のころ、ドキュメンタリー番組で、彼がこの家で創作活動をしてる様子を見た。
あるシーンで、彼はアルミホイルをビリリとちぎり、それを指先で捏ねるように触り、
あっと言う間に、精巧な、人の顔を作り上げた。ものすごく驚いた。ほんとうに、あっと言う間だった。

青空が広がる。太陽が照りつける。坂道を上る。息を切らせて上った丘の上。
ああ。ダリの絵に出てくる風景と、同じ風景が、目の前に広がっている。


27. MURANO, VENEZIA, ITALY, 1994

ヴェネツィアから、連絡船に乗って、ムラーノ島へ行く。

ガラスの島。

無数のガラス工場や、ガラス工房が、島のそこここにある。

長いひとり旅の間は、しばしば、鳩とランチを分け合った。


28. PARIS, FRANCE, 1994

3月。まだ春早く、肌寒いパリ。
至る所で、黄色いラッパスイセンが揺れていた。

決まり事のように、グラニュー糖とグランマニエをまぶしたクレープを食べながら、
目的もなく、ただ街を歩いた。


29. TAIPEI, TAIWAN, 1988

社会人になって初めての海外は、台湾だった。23歳のときのこと。
「旅のガイドムック」を作るための取材旅行は、想像を絶する辛さだった。
朝から晩まで取材取材。深夜に資料整理と翌日の準備。3週間の間、毎日数時間しか眠れずに、
それは生まれて初めて体験した「社会人生活の厳しさ」だった。
それでも台湾には、いい思い出ばかりが残っている。

早朝の中正紀念堂。編集者は、ときにモデルとなり、
人々に紛れて、見よう見まねで、太極拳をしたり、こうして刀を振り回したりして。

あのころは、本当に、毎日が無我夢中だった。


30. KYOTO, JAPAN, 1994

吉 

願望叶ふ 

待ち人来る

その言葉を、心の寄る辺にしたいほどだった。

しかし、いくら待っても、待ち人は来なかった。

その2年後。まさかインド人が来ようとは。


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