ちょっと長過ぎるかと思っていたのに、本当に、瞬く間に過ぎてしまった10日間。今回は、ミュージカルやコンサートなどのエンターテインメントには出かけなかったけれど、その分、友人らと一緒に過ごせて違う楽しみがあった。

夫はわたし以上に、学生時代の友人やニューヨーク時代の同僚と再会し、よい刺激になったようだ。

さて、最後の夜はどこで過ごそうか。料理そのものは、特筆すべきではないのだけれど、「お気に入りの場所」ということで、HUDSON HOTELを選んだ。

かつて住んでいたアパートメントビルディングの数ブロック先にあるこのホテル。このホテルができたときは、本当にうれしかった。「ミューズパブリッシング第二のオフィス」と勝手に称して、ここのダイニングでしばしばランチミーティングを行ったものだ。

雰囲気のいいバー、ビルの谷間のパティオもまた、お気に入りの場所だった。

2001年9月11日。同時多発テロが起こった日、わたしは、当時夫が住んでいたワシントンDCにいた。数日後にひとりマンハッタンに戻り、友の病の知らせを受け、呆然とした心持ちで街を歩いた。

家に戻る気も起こらず、このホテルのバーにたどり着き、ぐるぐると思いを巡らせた果てに、マンハッタンを離れ、ワシントンDCで夫と一緒に暮らそうと、決意したのだった。

ライブラリー・バーの暖炉のそばのソファーに身を沈め、おいしい赤ワインを味わいながら、ゆらゆらと炎を眺めながら、あの5年前の自分の心境に、思いを馳せる。

どう前向きに考えても、わたしの仕事、キャリアにとっては、「失うこと」の方が多いように思えた。しかし、それ以外の選択は、見当たらなかった。仕方なく選んだかに思えたDC行きだったが、それはそれで、わたしにとって必要な歳月であったと、過ぎてしまった今になると、よくわかる。

そもそも、「キャリアの構築」って、何なのだ?

しばらく、バーで過ごしたあと、ダイニングルームへ。窓辺のテーブルで、見なれた風景を眺めながら、山盛りのアメリカンフライ(大ぶりのフライドポテト)や、骨付きのラムシャンクや、シーフードのリゾッとを分け合いながら、「思ったよりも、おいしいね!」と、味わいながら、この十日間を反芻しながら、更けてゆく夜。

ワインを飲み干し、食後のコーヒーを飲みながら、ノートに閃きを綴る。人生は、物語のようだと、しみじみと思う。得たり、失ったり、喜んだり、悲しんだりを繰り返しながら。

 

どんなときにも、自分の人生は、あたかも他者からの働きにみえるときでさえ、実は自分で行方を選びとりながら、生きているのだ。責任を負いながら、ゆこうではないか。自分の選択を正しかったとするために、努力を惜しまずいこうではないか。つまづきを誰のせいにすることもなく、潔く、生きて行こうではないか。

故に人生は物語で、自己のみが、語り部となれしを。

そんな思いを、とうとうと、夫に語る。すると夫は、微笑みながら、言う。

「ミホ。ミホが熱を込めて話をするときは……、本当に、鼻の穴がふくらむね!」

こ、この男は……。

これは果たして、語学の壁か。あるいは、個性の壁か。わたしたちが、互いを分かりあえる日は、来るんだろうか。来ようが来まいが、ええい、もうどうだっていい気がする。

ともかくは、この街でまた、いい時間を過ごすことができた。すてきな休暇を過ごすことができた。離れたからこそ、たまに訪れるからこそ、そのよさばかりを楽しむことができるのかもしれない。

何に於ても、知り尽くせばいい、というものでは、ないのかもしれない。街にせよ、人にせよ。

と、強引に結論付ける、すてきな(はずの)夜。

BACK