坂田マルハン美穂のDC&NY通信

Vol. 119 7/22/2004 


日本の、特に東京の暑さは相当のようですね。昨日、ニューデリーの義母から届いたメールには "It is v-e-r-y hot & sticky......."とありましたが、東京の夏もニューデリーの夏に、勝るとも劣らないのではないでしょうか。

先日、東京に一時帰国していた友人が、DCをして「避暑地に来たみたい」と言ったのを聞き、それまでは「DCはニューヨークに比べると蒸し暑い」だの「ここはさすがに南部だ」などと文句を言っていたことを反省しました。

わたしは1988年から1996年までの8年間、東京に住んでいましたが、今年、うわさに聞くほどに暑かった記憶がありません。年々、蒸し暑くなっているのでしょうか。暑い地域にお住まいの皆様、どうぞご自愛ください。

さて、わたしたち夫婦は先週末、ホームステッドというリゾートで過ごしました。今回は、そのときのことをレポートしたいと思います。

 

●由緒あるリゾート「ホームステッド」でインド風味の優雅な週末

【ホームステッドの概要】

ワシントンDCを出て、ヴァージニア州北端を横断する「ルート66」をひたすら西に走ると、やがて、ヴァージニア州とウエスト・ヴァージア州の境目を成すように、ほぼ南北に横たわるアパラチアン山脈に行き当たる。

アパラチアン山脈の北東側には、風光明媚なスカイドライブで知られるシェナンドア国立公園が、その南西側にはアゲラニー山脈が横たわる。「ホームステッド(The Homestead)」は、そのアゲラニー山脈の中ほどの、ジョージ・ワシントン・ナショナル・フォレストの高原地帯に位置している。

ホームステッドの名はこれまでにもよく耳にしていたし、『muse DC』に旅行情報として少し紹介したこともあるが、実は訪れたのは今回が初めてだった。このリゾートがことにわたしの記憶に留められていたのは、ほかでもない、この地名が「ヴァージニア州ホットスプリングス」、つまり「温泉」という名前だったからだ。

地図を見ると、「Hot Springs」に並んで「Warm Springs」という町もある。温泉好きのわたしに、それらは何とも魅惑的な地名である。ぜひとも一度は訪れたいと思っていた。

ホームステッドは1766年に創業し、以来、少しずつ現在に至る一大リゾートの体裁を整えていった。赤茶色の煉瓦と白い窓枠が優美な建築物は、州及び連邦政府より歴史的建造物としての認定を受けている。

このリゾートでは、名門コースでのゴルフをはじめ、スキー、射撃、サイクリング、テニス、乗馬、トレッキング、釣りなどのさまざまなアクティビティが楽しめるほか、建物内には、レストランやバーはもちろん、ワイン蔵にスパや温泉プール、ボウリング場、映画館、図書館など、多彩な施設がある。

また、いくつものカンファレンスルームを備えており、国内外からの訪問者が後をたたない。古くから「森の優雅な社交場」として、人々に親しまれてきたリゾートである。

 

【ホームステッド行きの理由】

今回、ホームステッドへ行ったのは、インド人CEO組織の米国東海岸グループが年に一度開催している懇親会のイベントに、夫婦ともども招かれたことによる。この組織については、以前のメールマガジンでも紹介したので、今回は詳細の説明を割愛する。

-------------

*85号 イギリス大使館のパーティーに行った。

http://www.museny.com/essay%26diary/mag85.htm

*105号 インド人CEO主催のインド式ビジネスパーティー

http://www.museny.com/essay%26diary/mag105.htm

-------------

プログラムによると、まず、初日はディナーパーティー、翌日は朝食後のセミナー(これは会員、つまりA男のみの参加)、ランチパーティー、午後は自由、そしてディナー及びバーでのダンスパーティー、となっている。

便宜上、セミナーが1回設けられているものの、食事以外はほとんど自由時間である。わずか2泊3日だから、あまりのんびりもしていられないだろうけれど、できる限りゆったりとした時間を過ごしたいものだと思う。

さて、金曜日の午後1時半、わたしたちはスーツケースとお気に入りのCDを車に積み込んで出発した。青空が広がる爽やかな天気で、まさにドライブ日和だ。

ルート66はいつものように込み合っていて、しばらくはノロノロ運転だったが、やがて20マイルほども走ると、車はすいすいと滑り出した。時折、緑いっぱいの風景のなかに、コスモスや、淡い彩りの野の花畑が現れる。とても心地よいドライブルートだ。

やがて、シェナンドア渓谷を突き抜けると、あたりの緑はよりいっそう深くなる。時に、果てしなく続くトウモロコシ畑を両側に眺める。牧草地帯、牛やウマの群が車窓をすり抜けていく。

やがて5時間のドライブののち、ホームステッドのサインが現れた。直後、細い山道を抜けた向こうに突然視界が開け、夕陽を浴びてきらめく、威風堂々たるホテルの建築物が目に飛び込んできた。

「Wow! Amazing!!  (わあ! すごい!!)」

渋滞で予定より1時間遅れたうえ、すっかりお腹が減って疲れ切っていたのだが、その外観を目にして、わたしたちはすっかり気分がよくなった。

【サリーを着たがる女】

サリーを着たがる女。それはわたしのことである。わずか2泊3日、それも皆で集まる食事は3回だけにも関わらず、わたしはサリーを4着も持参していた。まるで国際的なパーティーに参加する女優並みの気合いの入れようである。

4月にインドを旅行した際、わたしは街に出て、サリーショップを彷徨した。そして、その色柄、素材、模様の多彩さに、改めて、深く魅了された。こんなに無数の、豊かな布地がある国は、インドをおいてほかにあるだろうか、いやない、とも思った。

街角の物乞いも、工事現場の作業員も、銀行員も、ウエイトレスも、有閑マダムも、品質の差異はあれ、多くの女性らがサリーを着ている。

近年、ワンピースとパンツ、スカーフを組み合わせた「サルワール・カミーズ(パンジャビ・ドレス)」と呼ばれるカジュアルな民族衣装や、西洋のファッションを身につける人々が増えているとはいえ、たとえば日本の「着物」に比べれば、サリーは遥かに日常的な民族衣装である。

約1.2×5.5mもある贅沢なほど豊かな生地を、しかし、ただ身体に巻き付けるだけで、美しい衣装に仕上げられることの見事さ。ブラウスをあつらえ、ペチコートをはく必要があるものの、シンプルに布の味わいを表現する衣装であるには違いない。

7着ものサリーを購入したものの、4月以来、一度も着用のチャンスがなかった。従って今回のインド関係イベントは、願ってもいないチャンスだった。

サリーを着たがってはいるものの、わたしはこれまで自分でサリーを着たことがない。サリーショップでもらったイラスト付き説明書は持っている。それに、着付けてもらったときのことをかすかに覚えているから、なんとかなるだろうと思った。ただ着崩れ防止のため、安全ピンを用意しておいた。

さて、初日のディナーである。二日目のディナーは「フォーマル」とあったので、初日は少し「カジュアル系」のサリーを着ることにする。それが果たして「カジュアル系」なのか否かの判断は、あくまでもわたしの主観であり、当のインド人の目にはどう映るのか、実はさっぱりわからない。

そのサリーは、光沢の少ないレモン色のシルクに、赤い糸での刺繍が施された、非常に軽やかで優しげな印象である。パーティー開始の30分前に、わたしは着用を開始した。さほど難しくはないだろうと思っていたが、これが結構、難しい。

長い布の一端をペチコートのウエストに挟み、ぐるりと一周、腰に巻き付けた後、ウエストの前あたりに、幅13センチほどのプリーツを7〜9本作る。それを束ねて安全ピンでとめ、ペチコートのウエストにグイッと挟み込み、残りをさらに身体に一周させ、布の残りを胸の方にたくし上げ、肩に載せ、背中に向けてストンと落とす。このストンと落とした広い部分に、サリーの「ハイライト」とも言うべく、刺繍や模様が施されているのである。

肩のあたりで布を折り曲げず、だらりと布を被せるようにする着方もあるが、わたしは肩の上にプリーツを作ってきれいにまとめたかったので、懸命に整えようとするのだが、なかなかうまくいかない。

額に汗をにじませつつ、「このプリーツは着用する前に折り曲げて安全ピンで留めておくべきだ」と気づき、やり直し。そんなこんなで、なんとか要領をつかみ、かなり時間がかかったものの、どうにか、うまく着用することができた。

ちなみにインドでは、サリーの種類もさまざまだが、その着方もさまざまだ。「ハイライト」部分を後に垂らすのではなく、前に持ってくる着方もある。

ブラウスのデザインも、胸のあき具合、ウエストまでの丈の長さ、袖の長など、さまざまである。大きなお腹をぶり〜んと出している人がいれば、ほんの少しを上品にセクシーに見せている人もいる。同じサリーで、ここまで印象が違うか、というほどである。

また、プリーツを几帳面に折り曲げている人もいれば、全体にぐしゃぐしゃと身体に巻き付け、見るからに着崩れている人もいる。わたしは、ホテルの従業員などや、航空会社の地上係員に見られる、ピシッとした、しかし動きやすそうな着方が好みなので、それに倣った。

そして、A男とともに、いよいよ、ディナー会場へ。

すでに満席に近かったその会場に足を踏み入れ、周囲を見回して、一瞬、目が点になる。総勢約60名、うち約半数の女性のうち、サリーを着ている人が、サリーを着ている人が、誰もいない! どどどどういうこと?!

かつて同じ面々でのパーティーに参加したときは、大半がサリー着用者だったのに!「サリー禁止令」が敷かれているとでもいうの? 

というわけで、わたしが会場に入るなり、人々の視線がヒュンッと集まる。そもそもから、インド人多数の中、東洋人は目に付く上に、サリー着用である。ひときわ目立つことこの上ない。しかし、ここで怯んではならぬ。

いかにも、「わたくしは幼少のみぎりよりサリーを着用して参りましたのよ」というムードで、間違ってもハロウィーンの仮装のような「とってつけた感」がないよう、振る舞うことにした。

幸い、周囲の人々は、「あなたのサリーは美しい」「うまく着付けてますね」と、お世辞もあろうが感心してくれたため、少々、気が楽になった。

サリーは飲んでも食べてもお腹が楽なのがいい。苦しくなったらペチコートの紐を調節するだけでOK。食べ過ぎる危険性は高いものの、見た目よりは遥かに着心地のいい衣服といえよう。

そして翌日のディナー。わたしは、たとえたった一人の着用者になろうとも、今夜もまた、サリーを着るのである。

そもそも、ランチタイムにすら着ようと、用意してきたのだから。ちなみにランチ用に準備していたサリーは、いかにも「晴れた午後の芝生の庭」にぴったりな、薄いピンクのオーガンジー・シルクに金糸の繊細な刺繍が施されているサリーである。

残念ながら、ランチタイムは時間も短く、悪天候のため室内ランチとなり、そんなに気合いを入れている場合でもないとわかったため、着用を断念した。

さて、この日のディナーは「フォーマル」である。従って、昨日よりは少しゴージャスな雰囲気のサリーを着ることにする。

それは、厚みと光沢があり、非常に滑らかな、えんじとゴールドの生地で、全体に花模様が折り込まれている。ブラウスはえんじ色、巻き付けるサリーは主にゴールドが表に出るが、肩から垂らす「ハイライト」部分はえんじ色が主体の美しい刺繍である。

この日は、前日の特訓の成果があり、約10分ほどでうまく着付けることができた。

ホームステッド内には、いくつものパーティー会場があり、夕暮れどきになるとタキシードやドレスを美しく着飾った人々がラウンジを行き交う。

人種及び老若男女を問わず、すれ違う人々はわたしのサリーを見て、「まあ、美しい!」「なんてゴージャスなの!」「すばらしい!」と褒めてくれる。もんのすごく気分がいい。

本当に、西欧のシンプルなドレスが地味に思えるくらい、サリーには強烈な「布の力」があるように思う。

さて、この日、サリー着用者はわたしを除き、わずか2名であった。共にかなり肥満体型の年輩のご婦人で、お腹も背中もぶりんぶりんに露出している。プリーツを折るどころか、着崩れ全開である。

すっかり図に乗っているわたしとしては、「着付け直して差し上げましょうか?」と言いたくなるくらいだ。まったく余計なお世話である。

今夜も前夜同様、立食ではなく、大きな円卓に着座してのコース料理である。白ワインともに、サラダ、スモークサーモンなどの前菜を食したあと、わたしは3つあるアントレ(主菜)の中からプライム・リブ(ローストビーフのような料理)を選んだ。

インド人の集いに牛肉のメニューがあるのも珍しい。無論、それを食べている人は、周囲にわたしたち以外、誰もいなかったが。

柔らかな牛肉、それに添えられたマッシュドポテト、ブロッコリー・ラブ(ラピーニ)のソテーなどを、隣に座ったティーンエージャーの女の子とおしゃべりしつつ、おいしく平らげる。

デザートのバターピーカン・アイスクリームもおいしくて、満足なひとときである。

さて、この夕食の間、数人の人々が、わざわざわたしの席までやって来てサリーのことを褒めてくれた。

「みんなが君のサリーを褒めたと思うけどね。褒めないヤツがいたら、俺がパンチをくらわしてやるから」

と、よたよたしたおじいさんからも褒められた。

「僕は妻にサリーを着て欲しいんだが、面倒くさがるんだよ」

という若い男性らもいる。

若いときに渡米して以来、20年近く、ほとんどサリーを着ていないという女性は、

「わたし、サリーの着方が下手なのよ。あなたに教えて欲しいくらいだわ」とまで言う。

聞けば多くの女性は、たっぷりとサリーを持っているようだ。けれど、それらは「クローゼットの肥やし」で、米国では、インド人の結婚式に参列するときなどを除き、ほとんど着る機会がないらしい。

今回のイベントは、今までと異なり、アメリカナイズされた女性らがたまたま集合した様子である。彼女らにとってのサリーは、日本人にとっての着物と似たようなものかもしれない。

米国での生活が長くなるにつけ、自国の文化を意識的に大切に守ろうする人がいる一方で、いかに「アメリカナイズされた生活をするか」ということに主眼を置く人がいる。

その夜は、そのままダンスフロアのあるバーに行き、みんなで賑やかに踊った。サリーは踊りまくれるのもいい。安全ピンのおかげで着崩れすることなく、踊るマハラジャ状態である。往年のヒットソング「YMCA」が流れた時には、大きく両手をかかげて、Y!M!C!A!と、ポーズまでとってしまう始末である。

気分よく部屋に戻り、サリーを畳みながら、しかしわたしは日本の着物のことを考えていた。

わたしは、自分で日本の着物を着ることができない。妹が成人式のときに着た振り袖のお下がりを持っているが(わたしは成人式に着物を着なかったので)、それを着たこともない。せいぜい浴衣だけだ。

確かにわたしはサリーが好きだし、サリーを着てほめられたのは、とてもうれしかったけれど、でも、理想を言えば、日本の着物を美しく着こなして褒められたほうが、多分ずっとうれしいような気がする。

第一、サリーはわたし単独だと着ていて違和感がある。いつもA男とセットでなければバランスがとれないのもしゃくに触る。

とはいえ、日本の着物は総じて高い上に、着付けが難しくて、しかも窮屈だ。やっぱりわたしは、当分は、これからも「サリーを着たがる女」で居続けるのだろう。

 

【雨が降れども……贅沢な午後】

2泊3日といえば、ゆっくりとできるのは中1日のみである。初日、わたしは夕食のあと11時ごろ部屋に引きあげたが、A男は午前2時ごろまでバーで知り合いと語り合っていた様子。

とはいえ、翌日は午前中、唯一のセミナーがあるので早起きをして、朝食に出かける。ダイニングルームは相当に広く、ブッフェのコーナーはたいへんな人だかりである。このホテルはともかく規模が大きく、「目的地」にたどりつくのに一苦労。建物が古いせいかエレベータも少なく、遅く、移動にかなりの時間がかかる。

「そう焦らずに、ゆっくり滞在をお楽しみなさい」とでも、言われているかのようだ。しかし、レストランにたどり着くまで、部屋から軽く5分はかかるのはあまりに遠いと思う。

朝食はたっぷりのフルーツやヨーグルトのほか、スクランブルエッグにハッシュドポテト、ソーセージ、ベーコン、ハム(ポーク)、コーンビーフポテト、オートミール、フレンチトースト、マフィンなどなど。いかにもアメリカンなメニューがずらりと並ぶ。

その場で焼いてくれるオムレツやパンケーキもあり、長蛇の列ができている。わたしはフルーツと、あとはシンプルなパンとスクランブルエッグなどを食する。

午前中、食事を終えた後、ホテルの周辺を散策する。広大な敷地は一面に芝生がしきつめられ、刈られたばかりの草のいい香りが漂っている。その向こうには、緑深き山並み。まるで羊の群のような、白いアジサイが一面に花開き、そのモコモコとした様子が愛らしい。

ゴルフコースに出かける人、テニスコートでボールを追う人、屋外のプールサイドで読書する人、サイクリングに出かける人……。みなそれぞれに、高原のリゾートを満喫している様子だ。

スパの建物の前には、花々や彫像が美しいガーデンがあり、一画にフットバスがある。カフェで買ったピナコラーダを飲みながら、しばし足浴のひととき。緑の中にそびえたつ、壮麗な、そのホテルの建築物を眺めながら、ぼんやりと。

やがてセミナーを終えたA男と合流して、ランチに出かける。他のインド人メンバーらは、12もの滝が見られるという約3時間のトレッキングに出かけるという。わたしたちは午後、マッサージの予約を入れていたので、それには参加せず、のんびりとホテルで過ごすことにする。

二人でホテルの周辺を散策しているうちにも雨が降り出す。

「トレッキングに行かなくてよかったね」

「雨の中、滝を見るのもなんだよね」

「お腹が冷えてトイレが近くなりそうだよね」(失礼)

などといいながら、ホテルに戻り、小さなボウリング場へ行く。ここで1ゲームし、それから温水プール(90%がミネラルウォーターらしい)で泳ぎ、おまちかねのスパへ。

予約の時間よりも早めに訪れ、ミストサウナに入り、ほかほかに身体をほぐしたあと、ラウンジでくつろぎ、マッサージまでのひとときを過ごす。やがて個室に通され、実に心地のよいマッサージを施してもらった。

マッサージのあともサウナに入り、湯量がたっぷりの熱いシャワーを浴び、ラウンジでリラックスする。身も心も緊張感のない、この解き放たれた時間というのは、本当にいいものだと思う。「物」を買うこともさることながら、こういう「時間」を買えることは、とても幸せなことと思う。

すっかり気分がよくなったあとは、ブティックが並ぶショッピングアーケードをゆっくりと巡りつつ、部屋に戻った。もう何日か、こんな風に過ごしたい……と思えるような、気持ちのいい一日だった。

 

【出会った人々のことなど】

ホームステッドに滞在中、色々な人々と会話をする機会があった。中でも印象に残ってる人たちのことを書こうと思う。

 

■アイルランド系アメリカ人女性(&インド人男性)

彼女は多分、わたしと同世代の女性だと思う。笑顔がとてもチャーミングで若々しい女性。三人目の子供を妊娠中だとか。

A男がセミナーに出かけた後、わたしが一人で朝食を食べているとき、彼女はわたしのテーブルにやってきて、一緒に食事を始めたのだった。

彼女は、米国生まれのインド人である夫と高校時代に出会って、ずいぶん若いうちに結婚したようだ(1988年と言っていた)。結婚に際しては、母親からずいぶん反対されたらしい。

「結婚式は、午前がクリスチャン式、午後がヒンドゥー式でやることに決めたのだけど、母が午後の式に参加しないと言い張ってね。わたしのサリー姿を見たくないって言うのよ。でも、父方の祖母がうまく説得してくれて、なんとか出席してもらえたの」

そんな母も3年前に、肝臓を患って他界したという。

「母は、長いこと病気を抱えていたけれど、まさか死んでしまうとは思ってもいなくて。母は病気と、うまく付き合っていく努力をしてたから。亡くなる2週間前まで、わたしと一緒にランチに出かけたりしてたのよ。それに、わたしたちが生まれ育った築40年の家を、改築している最中だったし……」

わたしが、自分の父の死について話すと、彼女は眉間にしわを寄せ、心をこめてわたしの心中を察する言葉を投げかけてくれた。

わたしたちは、残った家族が前向きに進んでいくことの大切さを、朝から目頭を熱くしながら語り合った。

「わたしの父の場合、偶然にも、家を改築中だったから、新しい家には母の思い出が残っていなくて、そのことが父やわたしたちにとって、とてもよかった気がする。多分これは、神様からのプレゼントだったと思うの

「母を亡くしたことは、確かにひどく悲しいことだったけれど、でもわたしたちは、母の病気をいつも心配する、という状況からも同時に解放されたわけで……。この安心感を得られたことは、ありがたい気がした

「わたしの母は、アイルランド出身なのだけど、アイルランドのお葬式はユニークなのよ。葬儀のときには、『悲しげに泣く人』が数人、雇われるの。その人たちは、ともかく、とっても悲しそうに泣くのよ。すると、まわりもつられて泣き始めるわけ。会場はもう、みんなの泣き声でいっぱいになるのね。でも、その葬儀が終わったら、あとはパーティーなの。

「葬儀って、普段は会わない親戚たちが集まる限られた機会でしょ? だから、みんなで集まって楽しく、賑やかに、亡くなった人を送り出そうってことなのね。ものすごくメリハリがあって、ちょっと驚くけど、でも、とてもいい葬送の仕方だと思ったわ

「二人目の子供を産んだ後、わたしは仕事をやめたの。最近は、夫の仕事も安定しているし、近くに住んでいる夫の両親もわたしの父親も元気だし、今の自分は幸せだな……と思ってる」

彼女は二日目の夜、お腹も目立つ妊娠5カ月だというのに、10センチ以上はありそうなピンヒールを履いてパーティーに登場した。三人目ともなると、ピンヒールも怖くないのね。しかも、ダンスパーティーでは、そのピンヒールで踊りまくっていた。見ていてちょっと、ハラハラした。

高校時代に出会った二人は、さすがに踊りの息もぴったり合っていた。まだ若いにも関わらず、すでに「踊り続ける二人」(By『街の灯』)の域に達していた。

 

■インド人女性(&インド人男性)

彼女もまた、初日の夜、わたしの隣に座っていた、50歳前後のインド人女性。ニューデリー出身の彼女は、インドで結婚した後、夫とともに渡米。夫はピッツバーグでIT関係の会社を起業した。

ピッツバーグにはインド人が多く、インドのヒンドゥー寺院もいくつかあることで知られている。

彼らには、米国で生まれた3人の娘があり、今回は末っ子の12歳の女の子だけが同行していた。上の二人は大学の寮に入っているという。

渡米後、一財産を築いた彼らは、数年前、ニューデリーにも家を買い、米国とインドの二重生活を送っているという。娘はインドのアメリカンスクールに通っているとか。

「インドとアメリカを行き来していると、物価が違いすぎて混乱するわよ。買い物に出かけても、値段がわからないのよ。野菜ひとつ買うにも相場がわからないから、困ったものだわ」

「インドに帰ってよかったことのひとつは、父を亡くして一人の母と、しょっちゅう会えること。離れて暮らしていると、どうしても気になっていたから……」

「娘はアメリカ生まれだし、あれこれと戸惑うこともあるけれど、結構楽しんでいるみたいよ」

1年のうちに3回ほどもインドと米国を行き来している彼女ら。子供3人を巻き込んでの二重生活は、なかなかに大変そうな気がするが、彼女はあっけらかんとしていて、いかにもたくましい。夫婦揃って、「なんとでもしてみせる!」といった、力強いオーラが漂っている。

ポジティブで身軽な雰囲気が漂う二人の姿に、「わたしたちも、こうありたいものだ」と思わされた。

 

■中国人女性(&インド人男性)

初日の夜、近くに座ったカップル。インド人の夫はベン・キングズレーを思わせる坊主頭にシャープな風ぼうの、しかし気さくな学者で、出身はニューデリー。妻は上海近郊の都市から大学進学のために渡米した。二人はメリーランドの大学で出会い、結婚したという。

聞けば、彼らが結婚したのは2001年7月17日。わたしたちはその翌日の7月18日。二組して、この滞在中に結婚3周年を迎え、これはかなりの奇遇である。

二人には双子の女の子がいて、中国人のナニー(ベビーシッター)も旅行に同伴していた。

彼らとはなぜか行動が似通っており、ホテルのガーデンで、ボーリング場で、帰りに寄った温泉地で、と、あちこちで顔を合わせた。妻の方とは、スパのミストサウナ内でも会い、まさに裸の付き合い状態である。

蒸気がもうもうと立ち篭めるサウナ内で、息をきらしながら、互いの仕事のことなどについて語り合った。

ちなみに、インド人女性はサウナ内でもぴったりと身体にバスタオルを巻き付けていたが、米国人、中国人、及び日本人は、わたしの見る限りにおいては、開放的であった。

彼らとは、また改めてお会いしたいと、夫婦して思える、どこか我々と共通点のある二人だった。

 

■アメリカ生まれのティーンエージャー(&インド人両親)

二日目の夜、わたしの隣には、ティーンエージャーの女の子が座っていた。開口一番、「サリー、とてもきれいですね! それにそのジュエリーも、とってもすてき!」と褒めてくれる。

このバングルとネックレスは、義母の形見なの。とても気に入ってるから、バングルはいつも身につけているのよ、とわたしは説明する。

「わたしの母はインドで生まれたのだけど、若いときにこっちに来たから、全然、サリーも着ないし、インドのジュエリーもつけないんです。わたしはお母さんに、サリーを着てよって勧めるんだけど、面倒臭がるの

「母はインド料理もあまり作ることができないのよ。でも、うちは父がインド料理を上手に作ってくれるの。おもしろいでしょ?

「わたし、インドには1回しか行ったことがないんです。6歳のときにね。それ以外に海外に行ったのは、この間、家族で出かけたジャマイカだけなの。もっといろんな国に行って、パスポートにスタンプをいっぱい押してもらいたい!

「わたし、この次インドに行くときは、サリーの生地を買うつもりなの。サリーの生地は、本当にきれいでしょ? この間、親戚のお姉さんの結婚式に出席したんだけどね。彼女のウエディングドレス、本当に素敵だった。サリー用の布で、西洋風のウエディングドレスを仕立てていたの。もう、すごくきれいでね。わたしも結婚するときは、絶対、あんな風にしようと思ってるのよ!」

一見、おとなしそうに見える彼女だが、とても快活に楽しそうに話す。米国とインドの、二つの文化のバランスが、とてもうまく取れているように、そしてのびのびと育ってきたように見える。

現在はメリーランドに住んでいるが、できればジョージタウン大学のメディカルスクールに進みたいと思っていること、医学を目指すようになった理由などを、具体的に説明してくれる。

現在、所属しているガールスカウトのこと、ピアノのレッスンのこと、イタリアのベネツィアに憧れていて、ぜひ旅行に行きたいと思っていることなど……あれこれと自分のことを屈託なく話してくれるところがかわいい。

日本語にも興味があるようで、最後の自分の名前を日本語で書いて欲しいといって紙とペンを差し出した。

彼女に限らず、米国の子供たちの多くは、大人との会話がとても自然で上手だと思う。子供のころから、自分の考えをはっきりと口にする習慣が付いているのだろう、物怖じせず、はっきりとした話し方をする。

ティーンエージャーと話し込む機会がほとんどないわたしには、将来の希望に満ちあふれた、エネルギーがいっぱいの彼女と話をしたことが、他の誰との会話よりも、実は一番、楽しかった。

 

【温泉に浸かったあと、帰路に就く】

そして最終日の朝。雲間に青空が見え隠れしている。今日は晴れそうだ。

ゆっくりと、他の夫婦らと語り合いながら朝食をすませたわたしたちは、再びホテルの庭を散歩して、チェックアウトをした。

ホテルから5マイル離れたところにあるWarm Springという村に、ジェファソン・プールと呼ばれる古い温泉プールがあるというので、そこに寄ることにした。

ジェファソンとは、米国建国の父であり、第三代大統領でもあるトーマス・ジェファソンのことだ。彼が好んで入浴していたというバスハウス(男性用)が、1761年、ここに作られた。その後、女性用のバスハウスも造られ、以来、ここは「湯治場」として土地の人に親しまれてきたようだ。

温泉のそのものは、その10年前の1751年、植民らによって発見されており、まだ23歳だった若かりしころのジョージ・ワシントンも、何度かこの温泉に浸かったという。

さて、それはどんな温泉なのだろうか、期待して出かけたところ、せせらぎのほとりに、まるでモンゴルのゲルを大きくしたような、木造の白い建物が二つ並んでいるのが見えた。建物の中は大きくて深い円形の浴槽になっていて、底は石がゴロゴロとしている。つまり、自然のままの、まるで池のような湯舟である。

その円形の浴槽を取り囲むようにして並ぶ更衣室で服を着替え、浮き輪のようなものにつかまって、プカプカと浮かびながらの入浴する。底が深いので足が届かない。

「1時間浸かると効果がでます」と受付の女性は言ったけれど、わたしはわずか10分程度で退散。まず、ぬるま湯にプカプカと浮かんでいるだけで、わたしは「酔う」のだ。まるで船酔い状態である。

それに加え、あまりにも古びた、まるで200年ものあいだ、ほとんど改装していないといった風の建物に、「なんてオンボロなんだ!」と思うばかりで、風情の欠片をも感じることができず、どうにもリラックスできなかった。

やっぱり温泉は日本に限る。

との思いを新たにし、服を着替えて外のベンチでA男を待つ。A男は30分ほど、温泉浴を楽しんだ様子。

緑豊かな山並みを眺めながら、ここに、日本の岩風呂のような露天風呂でもあったら、どんなに気持ちがいいことだろうと、返す返すも無念であった。

緑の中を、DCを目指して車を走らせる。A男は助手席でスヤスヤと気持ちよさそうに眠っている。何だかとても平和な午後だ。

一人静かに運転をしていると、色々なことが脳裏を駆け巡る。

ここ数カ月のうちに、自分の周囲に起こったことが、遠い場所での出来事に思える。日本にいたときの自分が、自分でないような気もする。

そうして、もう二度と聞くことのない友人の声や父の声が、その台詞とともに鮮明に、驚くほど鮮明に、蘇ってくる。色々な記憶が湧き水のようにあふれだす。

そういう感情に翻弄されながら、わたしは、自分たちのこれからのことを思った。

わたしたちは、「インド行き」という目標を前に、今、大きな波に揺られている。これまでは、わたしとA男はそれぞれ別の船に乗り、付かず離れず、同じ方向を目指してきた。

けれど最近、わたしは彼の船に乗り移った。同じ船に乗り、一緒に波を乗り切ろうと思うのだ。互いの役割分担を見極めて、わたしは方向音痴の彼のために、地図を見る。彼は舵を切る。そんな風にして、目的地へ向かおうと思った。

目的地についたら、わたしはまた、自分の船に戻ればいい。

わたしは今、自分たちの手の中にある自由と平和が、このうえなく大切なことに思える。だから今は、それを守る努力をしようと思う。

帰路は渋滞に巻き込まれることもなく、4時間弱で家に到着した。とてもいい週末だった。

※ホームステッドでの写真を一部、ここに掲載しています。お立ち寄り下さい。

http://www.museny.com/2004/katasumi0704.htm

※ホームステッドのホームページはこちらです。

http://www.thehomestead.com/

(7/22/2004) Copyright: Miho Sakata Malhan

 


Back