ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 41 4/30/2001

 


久しぶりにワシントンDCからニューヨークに戻ってきて、ホッと一息ついているところです。間もなく7時ですが、夏のニューヨークは日が長いので、あと1時間は太陽が沈みません。

不在中に貯まった郵便物を整理し、雑誌などに目を通して、今、ご飯が炊けるのを待ちながら、ワインを飲みつつコンピュータに向かってます。ものすごくお腹が空いているのに、手頃なおつまみがないので、「とろろ昆布」食べてます。ヘルシー。というか、変ですね、ちょっと。

この週末は土日ともに快晴でした。日本はゴールデンウィークですね。ニューヨークにも、大勢の日本人観光客が訪れていることでしょう。特に五番街周辺は、毎年、この時期になるとPDNY(Police Department of New York:警察)による特別体制が敷かれます。もちろん、日本人観光客をスリなどから守るためです。たいそうなことです。

私とA男は、土曜日、DCから西へ2時間ほど車を走らせたところにある、シェナンドー国立公園へ行き、標高500〜1000メートルほどの南北に横たわる山脈を、尾根伝いにドライブしました。浅い緑の新緑がまばゆいほどに輝いていて、すばらしい景色です。ここは秋の紅葉が美しいことで有名なのですが、初夏もまたいいものです。

ピクニックグラウンドでお弁当を食べたあと、2時間半ほど山道をトレッキングしました。せせらぎで喉を潤したり、小さな滝のそばで休憩したり、見知らぬ草花をカメラに収めたり……。シカのカップルにも遭遇しました。向こうもこちらに気が付いて、しばらく互いに息を殺して見つめ合いました。さすがにセントラルパークとは違う、スケールの大きな自然が広がっています。

アメリカ合衆国の広大な国土には、ヨセミテやグランドキャニオン、イエローストーンなど有名な場所以外にも、いくつものナショナルパーク(国立公園)があります。窮屈なニューヨークで生活をしていると、うっかりと忘れてしまうのですが、郊外へ車を走らせると、この国が「大陸」であると言うことを実感させられます。

ところで、小泉さんが首相に決まって、番記者による「首相の今日のことば」が楽しみになりました。ニューヨークでは、毎日1時間ほど日本語放送が見られて、ニュースも時々、映像で触れられるけれど、ここ10日間、DCではそれができず、情報源はインターネットのみ。生の言葉を忠実に再現した会話以外に、彼の「人となり」を感じ得る機会がありませんでした。

森さんのときのように、不愉快な出来事があって、メディアとの軋轢が生じるのは仕方ないかとも思うけれど、やはり思っていることを「言葉」にしなければ、なにも通じません。特に、離れていればいるほどそれを痛感します。たとえそれが「髪を切ってさっぱりした」の一言でも、表情までも想像できて、やはり無言よりはずっといいものです。

「Business Week」という週刊ビジネス誌の表紙に、小泉さんの顔写真が大きく掲載され、記事にも取り上げてられていました。支持率も80パーセントに近いようで、一概に楽観視はできないだろうけれど、淀んだ空気が活性化されていくようで、いいですね。

さて、忘れないように、ホームページのお知らせも。ようやく、「モンゴル旅日記」をすべてアップロードしました。そもそも、旅の途中に書いていたノートをほとんど忠実に再現した自費出版の冊子だったのを、やはりほとんどそのままの形でホームページに掲載しています。

構成がこなれていないところや、読みづらい文章、感情が思い切り先走っているところなど、時間を経て読み返すと、恥ずかしい箇所も多々あるのですが、それはそれで新鮮な力があるような気がするので、あえて手を加えず転載しています。ご興味のある方は、どうぞご覧ください。

 

●本場中国のおいしいお茶が味わえる「茶藝館」がオープン

日曜日は午後からDCのジョージタウンへ出かけた。イギリスの街角を思わせる、古い建物が軒を連ねるストリートをウインドーショッピングしながら歩いていると、ティーハウス(茶藝館)が新規開店しているの発見。中国茶や日本茶、紅茶などを、お茶菓子と共に味わえる店だ。早速、中へ入り、ティータイムを過ごすことにする。

アメリカでは久しくオリエンタルブームで、ヘルシーな飲料としてお茶は注目されている。スターバックスでは数年前からティーメニューを取り入れているし、マンハッタンやDCでも、ティー専門店も見かける。

さて、このティーハウスは、香港出身のオーナーが経営しているらしく、店内のインテリアは伝統的な中国のスタイル。天井が高く、広めの窓から太陽光が柔らかく降り注ぎ、落ち着いた雰囲気が漂っている。しっかりとした紫檀製の広めのテーブルには、小さな火鉢と上品な茶器が用意されている。

一画には靴を脱いで床に座れる「板張りの間」もある。すでにアメリカ人の先客が、靴を脱ぎ散らかして、座っていた。私たちもその隣のテーブルに、座布団を敷いて座る。私は数あるメニューの中から、大好きな台湾製の「凍頂烏龍茶」を選んだ。

ちなみに、緑茶、烏龍茶、紅茶は、茶葉の違いではなく、発酵度の違いにより分別される。緑茶は無発酵茶、烏龍茶は半発酵茶、紅茶は全発酵茶。中国茶にも「龍井(ロンセイ)」という緑茶がある。

本場の烏龍茶は、琥珀色で非常にかぐわしい薫りがして、実においしいものだ。煮たピーナッツや茶卵、饅頭などの中国菓子を食べながら、お茶を楽しむ。テーブルの火鉢には、しゅんしゅんと沸いたお湯がかけられていて、お喋りしながらお茶の葉が薄くなるまで、何杯でも飲み続けることができる。

「紅茶の国」出身のA男も、おいしい烏龍茶は初めてのようで、そのユニークな作法を楽しんでいた。ウエイトレスの女性が教えてくれた通り、小さな急須にお湯を注ぎ、90秒ほどお茶を蒸らして、まず、薫りを楽しむための細長い湯飲み(香杯)に一旦注ぐ。更にそれをお猪口のような湯飲みに注いで飲むのだ。香杯は鼻に近づけて、残り香を楽しむ。

いいお茶は「持久力」があるので、簡単には薄くならない。出涸らしの茶葉を丁寧に広げると、きれいな葉っぱそのものの形に復活する。いいお茶、と言っても、一人5、6ドル程度で、おいしい烏龍茶が味わえる。この店では最高級の「白毫」と呼ばれるお茶でも12ドルだった。

台湾にはこのようにお茶を楽しめる茶藝館がたくさんあって、人々の社交場にもなっている。私はこの茶藝館が大好きだったので、ジョージタウンにできてとてもうれしい。これからは、ジョージタウンへ来たら、コーヒーを飲むのではなく、ここでお茶を飲もうと思う。

 

●気持ちの悪い「新生」日本語について、不満炸裂

日頃、気になっていて、書こう書こうと思いつつ、先延ばしになっていたことがある。生まれては消えていく、泡のような日本語のことだ。普段は、不特定多数の人々の目に触れる以上、寛大で善人的な文章に終始してしまいがちだが、今回はうるさい奴だと思われるのを承知で、本音をぶつけてみたい。

なぜ、多くの日本人はそんなにたやすくも、「業界用語」や「流行語」に飛びつき、抵抗なく使うのか。日本にいたころは、いち早く使う人たちに出会うたび、背中がむずかゆくなる思いをしていた。しかしながら、やがては免疫がついてさほどの抵抗感を覚えなくなり、うっかり自分が使うことも少なくなかった。

しかし、ニューヨークに暮らし始めてからというもの、免疫力が落ち込み、たまにその言葉を聞くだけで、「うわっ」と拒絶反応を起こすことがある。

 

いくつか、思いつくまま、脈絡がなくて恐縮だが、例をあげてみたい。

たしかあれは6、7年前のこと。印刷所の担当者が

「『サクッ』と飯、食いに行きましょう」

と言ったとき、本当に、背中がゾワッとしたことを、今でも忘れられない。

「仕事を『サクサク』仕上げる」というのも、いやな感じ。もちろん、「サクサクとした歯ごたえのリンゴ」というような、正しい使用については問題ない。

『癒し』もしくは『癒し系』も、鬱陶しい言葉。

料理関係で使われる「カボチャやジャガイモをコックリと煮る」の『コックリ』も気持ち悪い。

話し言葉ではないが、雑誌などの見出しなのでよくみられる「旬をいただく」とか、文中の「**を添えて、おいしくいただく」とかいう表現もいやだ。一見、礼儀正しい文章のふりをしているが、そもそも「いただく」は謙譲語だから、客観的で平易な文章の中に盛り込むのは間違いである。「食べる」「食す」「味わう」などとするべきだ。もちろん主観的な文章の中で「昨日の夕食はおいしくいただきました」というのは、問題ない。

「自分にごほうび」というセンテンスも、気恥ずかしい。

相づちを打つときに「そう、そう」と言わずに、「そ、そ、そ」って、言うのはなぜだ? 「そ」が2、3個ならまだしも、延々と続ける人もいるから、途中で耳を覆いたくなる。

「わたし的には」「ぼく的には」っていうのも、すでに古いんだろうが、苦手。

これも、もはや廃っているかもしれないが、「イケてる」っていうのも勘弁だ。雑誌などでもよく見かけるが、読んでるだけで恥ずかしくなる。

「話題の**で今流行の○○をゲット」の「ゲット」もいい加減にやめて。

「トクする」「ゴネる」「メゲる」「コケる」など、動詞が無闇にカタカナ表記されているのも、納得がいかない。

最近、インターネットを通じて、「婦人公論」「コスモポリタン」「日経ウーマン」の三誌を定期購読し始めたが、婦人公論以外は、やはり今時の日本語が氾濫していて、読んでいる途中でげんなりすることがある。

比較的正統な文章の記事が多いだろうと予測して購入したのだが、「丁々発止」がカタカナで「チョーチョーハッシ」と書かれていたのには、非常に驚いた。カタカナで記す理由がわからない。リズムか。

最近は読んでいないからわからないが、週刊誌などを読むと、いちいち揚げ足をとってしまうに違いない。すでに古語となっているだろう「リベンジ」「カリスマ」なども、気持ち悪かった。

読売新聞の衛星版で、テレビが見られないのをわかっていて、しかし番組覧はしっかり読む。それと、雑誌などの広告欄。それに目を通すだけでも、日本の動きが見えてくるからだ。

ついでに言ってしまえば、ワイドショーは、毎日、各局そろいもそろって同じ内容なのには、驚きを通り越して笑ってしまう。きっと、同じ映像が何度も何度も流れているのだろう。恐ろしいことだ。

話がそれるが、ついでに書けば、なぜ「貧乏くさいこと」をテーマにしたドキュメンタリー番組が多いのか。浮浪者とか、倒産した会社とか、酒乱の男とか、自殺しか選択肢がないとテレビカメラの前で公言する母親とか……。

しかも、そのような番組のナレーションはいずれも紋切り型。通常、ドキュメンタリーは、極力、ナレーションを抑えて、見る者に考える余地を与えるべきだと思うのだが、ありきたりのコメントを、「押しつけがましく」「感情的に」連発する。すごくどんよりとした気持ちにさせられそうな人ばかりを取り上げている。

涙を誘おうとしている魂胆が見え見えで、「こんなもんで、泣いてたまるか」とがんばってしまう。

こちらの衛星放送でも、一時期そういうドキュメンタリーが毎週火曜日放送されていて、数少ない日本語放送だからと2、3回見たが、気分が滅入ってげんなりして、貧乏がうつりそうでやめた。

あのような番組がはやる理由がよくわからない。あと、子だくさん番組も、相変わらず多いのはなぜだ? たとえば、家族で野球チームを作りたいとか、オーケストラを編成したいとかいう前向きな夢があって、そのためにお父さんはガンガン稼いで、子供たちにもきちんと学校に行かせて、それなりの方針のもとに「大家族は楽しいぞ」という結論があるのなら、わかる。

でも、たいていが、とめどなく出産して、貧乏で、子供をろくに学校にも行かせず、狭い家で大勢がひしめき合って戦いのような状況で生活しているレポートではなかろうか。これは、美談なのか? 1、2回しか見たことがないので、よくわからないが、大半がそういうものだと思う。やはりこういう番組も、取材者の存在感やナレーションが鬱陶しい。

話がそれてしまったので、言葉のことに戻す。

言葉の頭に「逆」をつけるのもおかしい。第一、どういう意味かわからない言葉もある。「逆ギレ」「逆タマ(玉の輿)」などなど。

そもそも、「キレる」という言葉を浸透させたことが、大きな間違いだ。尋常ではない精神状態をカジュアルに表現するべきではない。それをメディアが発し、世間がすんなりと受け入れ、浸透したところから、「キレる」という行動そのものが、言葉と共に一般化したように思う。

多分「堪忍袋の緒が切れる」からきているのだろうが、それよりもさらに深刻で、もっと病的な行動ですら「キレる」と表現されているのが危険だ。

もっとややこしく、たとえば「突発性前後不覚症候群」とでも名付けていれば、たいそうな病気に思えて、簡単にはその状況に陥らないはずだ。

「あいつ、超ムカツク! オレ、完全にキレた!」は素早く言えるが、

「あいつ、超ムカツク! オレ、完全に突発性前後不覚症候群になった!」は妙にまどろっこしいから、みんな宣言するのが面倒臭くなって、そういう状況に陥るのを思いとどまるのではないか。……そんなことは、ないか。

あと、インターネットの世界ならではの言葉も苦手だ。「カキコ」とか「レス」とか「メル友」とか、私には間違っても使えない。乱発する「(笑)」や頻発する顔文字もダメ。あと、一人でボケとつっこみを延々と繰り返している文章も辛い。

学生ならまだしも、いい歳した大人が、いまだに語尾をあげて「〜みたいな?」「〜する?」なんて言うのを聞くと、著しくげんなりする。何が言いたいのか、全然わからん。たまに自分もつられて語尾が上がったりすると、思い切り恥ずかしくなる。

いい大人が「彼」のことを「彼氏が〜」とねばっこく呼んだり、「エッチする」とかを平気で口にするのも寒い。

まだまだ、いっぱい「いやな言葉」があったはずだが、今思い出した分だけを連ねてみた。これに関しては、異論反論ある方は多いだろう。でも、少数派として、使っている本人の前で「やめてくれ」と言えない反動で、今、ここに書き記した限りである。ちなみに、いやなことがあって、腹いせに不満を並べているわけではない。常日頃から思っていて、書く機会を逸していただけのことである。

少し、せいせいした。今日のところは、高飛車な態度を許してほしい。

 

●和製英語の功罪。せっかくなら正しい単語を輸入すべきだ

言葉の話のついでに、もう一本、気になっていたことを書いてしまう。

「セクハラ」「リモコン」「パソコン」「エアコン」「リストラ」「インフレ」「マスコミ」「アパート」「デパート」「ホッチキス」「クラクション」「(自動車の)ハンドル」「タオルケット」「テレビ」「コンセント(電源)」……。

上げればきりがない。英語のふりをした日本語の数々である。上記の言葉は、アメリカではどれ一つ、通用しない。

日本語とは非常に柔軟性のある言語だから、「カタカナ」を用いて、外来語を容易に受け入れることができる。それによって、日本語にしにくいことばをそのまま取り込んで自国のものにできるのは、考え方によってはいいことだと思う。

しかし、和製英語がすべて英語として通用するのであればいいのだが、通用しない日本独特の「和製英語」が多いのは問題だと思う。なぜなら、真剣に英語を話さなければならなくなったとき、思いがけず足かせとなることが多いからだ。

冒頭の言葉も、正しくは「セクシャルハラスメント」「リモートコントロール」「パーソナルコンピュータ(もしくはPC)」「リストラクチャー」「インフレーション」「マスメディア」「アパートメント(ビルディング)」「デパートメント(ストア)」「ステイプラー」「ホーン」「ステアリング・ウィール」「(コットン)ブランケット」「ティーヴィー(もしくはテレヴィジョン)」「アウトレット」となる。

例えば、これから生涯、英語をしゃべる機会がないという人には、和製英語での認識でも日本人同士で意志疎通が図れれば、問題はないだろう。正しく使うことの意義は、実際に英語を使うときになってその必要性を痛感するものだ。

せっかく、英語らしき単語が耳慣れているにも関わらず、それが本場で使い物にならないのは、もったいない話である。たとえそれが正しい発音でなくても、「セクシュアル・ハラースメントゥ」と巻き舌で何度か繰り返せば、相手は何を言っているかそのうち理解してくれる。でも、「セクハラ」を百回繰り返しても、相手は何のことやらわからない。

確かに新聞や雑誌など、限られた紙面を有効に使うため、言葉を簡略化するのは致し方ない事実かもしれない。しかし、話し言葉まで簡略化する必要はないと思う。正しい単語を覚えていれば、文法が間違っていようが、発音がおかしかろうが、なんとか会話が成り立つのである。

どうせ覚えるんだったら、英会話として通用する単語を覚えた方がいい。マスメディアに関わる人たちには、すでに誕生している和製英語は仕方ないにしても、これ以上、不思議な単語を作らないでほしいと思う。

以下、和製英語のサイトを検索してみたら、あれこれと例が挙げられていたので、参考までにいくつか掲載してみたい。

オートバイ→モーターサイクル、モーターバイク

トレーナー→スウェットシャツ

チャック、ファスナー→ジッパー

ジーパン→ジーンズ

ワンピース→ドレス

パンティストッキング→パンティホース

ノースリーブ→スリーブレス

リンス→コンディショナー

ホットケーキ→パンケーキ

アイスティー→アイスドティー

モーニングコール→ウェイクアップコール

フリーダイヤル→トールフリー

インターホン→インターカム

ガソリンスタンド→ガスステーション

ナンバープレート→ライセンスプレート

マイカー→オウンド・カー

フロントガラス→ウインドシールド

(電子)レンジ→マイクロウエーブ

ガスコンロ→レンジ、ストーブ

ミキサー(ジュース用)→ブレンダー

なんだか、英語の勉強用メールマガジンになってしまいそうなので、このへんでやめておく。


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