ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 55-1 10/21/2001

 


たいへんご無沙汰しておりました。前回発行してから、1カ月近くもたってしまいました。今日は10月20日土曜日。我が母の誕生日であり、私たちがニューヨークでの結婚披露パーティーを予定していた日でもあります。

書きたいことがたくさんあったのですが、9月11日以来、一時期、滞っていた仕事をこなすのと、muse new yorkの最終号を制作するのと、そして色々な知人友人と会い、話をすることで、精一杯の毎日でした。

この4週間の出来事と心の移り変わりは、「誰かに伝えるため」ではなく、「自分自身のため記録」として、綴っておきたいと思っています。何だか途方もなく長くなりそうですが、久しぶりのことですし、お時間のある方はお付き合いください。

 

●9月29日(土):アロマセラピーマッサージと結婚式

24日から28日にかけての週、DCでずっと原稿を書いていた。事件以来、どうしても文章を書くことに集中できなかったのだが、ようやく気持ちも落ち着いてきたのだ。muse new york最終号を早く仕上げようと、とにかく書く。メインの仕事の方もかなりはかどった。張りつめていた気分をほぐそうと、週末はA男とヴァージニア州にある温泉地に1泊ででかけることにしていた。

日本の露天風呂みたいな風情は決して期待できないが、アメリカの温泉地は大抵、山間にあって自然がきれいだし、ドライブにもいい場所が多い。ゆったりとバスタブで温泉水に浸かるだけでも、多分、心身ともにほぐれるに違いない。考えただけでうっとりしまう。

温泉旅行の前日(金曜)になってA男が会社から慌てて電話をかけてきた。

「ミホ、ごめん、忘れてた。明日、秘書の結婚式に呼ばれてたんだった! ミホも招待されてるからね!」

もう!! スパでマッサージしてもらって、温泉に浸かって、そのあとバスローブのままでよく冷えた白ワインでも飲んで極楽……という図をイメージしてたのに! もう、思い切り腹が立って、これでもか、というほど文句を言って電話を切った。

A男は反省したらしく、結婚式は午後4時からだからと、その前に近くのホテルのスパに予約を入れておいてくれた。DC郊外のホテルだから、どうせ田舎っぽいモーテルみたいなところに違いないと全然期待していなかった。

そして翌朝。今ひとつ冴えない気分で家を出る。自宅から車で10分ほども走ると、緑いっぱいの自然の中に、近代的なビルがいくつも立った街が現れた。マクレーンという街だ。

週末のせいか、町中はひどくガランとしているが、かなり有名なビジネスタウンらしく、カンファレンスなどもしょっちゅう行われるらしい。A男が連れていってくれたホテルは、安モーテルではなく、なんとリッツ・カールトンだった。

「うわー、こんなところにこんなゴージャズなホテルが! うれしいかも!!」と内心、大喜びだったが、A男の手前、やや不機嫌な様子を崩すものしゃくで、「悪くないんじゃない?」などと言いつつ、ホテルに入る。

マッサージを予約していれば、プールやジャクジー、サウナも使えるし、何時間いても構わないシステム。ミストサウナで身体をほぐしたり、プールで軽く泳いだ後、アロマセラピーのマッサージを受けた。あの日以来の疲れが、少し、落ちた気がした。

スパのあとは、近くにあるショッピングモールへ。ここがまた、すごい。いくつかのモールがあるのだが、その一つがティファニーやらヴィトンやら、高級ブランドがいっぱいのモールなのだ。

その後、秘書の結婚式で同席したA男のボスいわく、「あのモール、日本人がいっぱい来るんだよ」とのこと。いやはや。いったい、どういう人たちが来るのか。駐在員家族だろうか。それともDCへの観光客が、ツアーバスなんかで来るのかな。驚いた。

モールで結婚祝いを買い、小さな教会へ向かう。結婚式の後、近くの「公民館」っぽい場所で披露宴。「郊外に住む平均的アメリカ人の結婚式の様子」だった。ワインを飲みつつ、ビュッフェの料理を食べつつ、テーブルに座って食事。A男の会社関連の人たちが固まって座った。パキスタン人の同僚夫妻だけが欠席していた。

皆、違う話題を話していても、ついついテロ関連の話に行き着いてしまう。

 

●9月30日(日):グランド・フォールズと言う名の国立公園へドライブ

朝、おむすびを作り、車で20分ほどのところにある国立公園に出かけた。DCに横たわるポトマック川の上流の、大きな滝になっている場所にある国立公園だ。川でカヤックをしている人たちや、断崖でロッククライミングをしている人たちもいる。ピクニックフィールドでは、バーベキューの煙と共に、いい香りが漂ってくる。

ボール遊びをする親子、犬を連れて散歩するカップル……平和な初秋の光景。滝を見下ろす岩場でおむすびを食べる。心地よい風に当たりながら、まぶしい青空を見つめながら、「わたしゃ、これから、どうすりゃいいんだ」と、止めどなく思う。

こんなところに身を置いていると、あの日に起こったことが、まるで幻のように思える。自分にとって、どんな意味がある出来事だったのか、よくわからなくなる。

事件の直後、R子と「ハウスシチューのコマーシャルみたいな生活、したくなるよね」と言う話題で盛り上がったことを思い出した。都会的な暮らしを離れ、広大な自然の中で自給自足の生活をする。昼間は畑を耕し、子供や犬たちと戯れ、夕食は野菜たっぷりのシチューを作って「あなた、ご飯ですよ〜」なんて外へ向かって叫び、夜は暖炉の前で温かい紅茶でも飲みながら本を読む……。

「ま、そんな生活、私たちには続かないわね」で会話は終わったけれど。

ミラン・クンデラ著の「存在の耐えられない軽さ」を思い出した。以前、ジュリエット・ビノシュのことを書いたときにも記したが、この作品は彼女が主演で映画化されている。映画もすごくいいけれど、本がすばらしい。

あの二人の結末は、このうえない幸せだったのかもしれない、とも思う。

 

●10月1日(月):別居を始めた友人の憂鬱。アートセラピストの友人の苦しみ

ニューヨークに戻ってきた。目まぐるしい一週間になりそうだ。

友人T子と夕食。彼女は10年来過ごしてきた夫と、数カ月前から別居している。結婚直後から夫婦仲がうまくいってなく、精神的に抑圧されて来たのが、ようやく自分らしく生きられるとスタートを切った途端にこの事件。以前は郊外に夫婦で住んでいたのが、今はマンハッタンに一人住まい。

夫とやり直す気はないが、一人で暮らすのが怖いという。これから一人での生活を始めようと思った矢先、世界が変わってしまった。かなりノイローゼ気味になっていて、ニュースを追う様子も尋常ではない。彼女はガスマスクも購入した。ちなみに彼女は30代後半。

「ようやく、本当にこれから自分の人生が新しく始まると思ったのに、もう、計画もなにもかも滅茶苦茶」

「日本の母親が心配してるけど、日本に帰るつもりはない」

「日本にいた頃、わたしは、自分がずっと自分らしくいられなかった。アメリカが大好きだったのに」

「アメリカに幻滅したけど、でも日本に帰るのも、絶対にいや」

「日本で一生暮らすくらいなら、アメリカで死んだ方がまし」

感情が激しく揺れ動いていて、とめどなくしゃべり続ける彼女。心に大きな痛みを負ってしまったようで、痛々しい。

ちなみに、あの事件以来、離婚率が減って結婚するカップルが増えているという噂をよく聞く。それに犬やらネコやらのペットが売れているという話も。

世界的には平和ではないけれど、家庭的には平和的解決が成されはじめているということだろうか? 世の趨勢とは、おかしなものだ。

帰宅後、アートセラピストの友人Nさんと電話で話す。事件以来彼女と話すのは初めてのこと。心理学を専攻し、セラピスト(カウンセラー)として仕事をしている彼女。彼女いわく、私たち共通の友人で、やはり心理学を専攻している女性も、あの事件でひどく精神的ダメージを受けている。

「こんな時こそ、メンタルヘルスの仕事をする者として、わたしは誰かを救うために動かなければならなかったはずなのに、自分自身がひどい衝撃を受けていて、しばらく、どうすることもできなかった」

それでも、何かをしようと、彼女は行動を起こした。ユニオンスクエアで、人々に平和を願う絵を描いてもらい、それを持って、ワシントンDCで行われた反戦デモに参加したのだ。そのいきさつを記した彼女のエッセイを投稿エッセイのコーナーに掲載しているので、ぜひお読みいただきたい。

 

●10月2日(火):自分に尋ねながら眠り、目覚めた朝に。苦しい知らせと決意。

Nさんとの電話を切り、いつものようにキャンドルに灯をともし、ベッドでリラックス用のオイルマッサージを足の裏や首などに塗る。そしてしばしのメディテーション。そのあと、我が家の「八百万(やおよろず)の神コーナー」に向かって手を合わせる。

カップボードの上には、聖母マリアの絵や天使、インドのガネーシャ、チンギスハーンの母の像、イタリア・アッシジのサン・フランチェスコの額、ポルトガルの幸運の鶏、博多櫛田神社の開運厄除お札、小さな陶製の招き猫、金閣寺舎利殿お札、ピラミッド型のパワーストーンなど、なんだかんだが一堂に会しているのである。

苦しいときだけ、神頼みをしている。

周囲の雑音が激しすぎて、自分の内なる声が聞こえてこない。だから、心を穏やかにして、自分の声に耳を澄ませたいのだ。これがなかなか難しい。

最近、ようやく悪夢から開放され始めたのだが、開放されたら開放されたで、てんで訳のわからない夢を見る。竹ノ内豊と相思相愛になって「ああ、どうしよう、A男を裏切ってしまう」などと真剣に悩んでいる夢とか。そんな夢を見たあとの、目覚めの気分は、苦いものである。

「なんだあ。夢だったのかあ」という残念感。

わたしは、昔から、時々この手の夢を見るのだ。現実にはありえそうにない相手と恋に落ちる夢。普段は気にもとめてない有名人の場合が多いのだが、その夢を見た後は、彼がすごく身近に感じられて、テレビで見たりしてもかなりしばらくの間ドキドキが持続する。

そんなことはどうでもいい。

その朝、友人から電話があった。私たち共通の友人の、それは病の知らせだった。

「Sさんがね、癌なんだって……」

「えーっ?!」

思わず電話口で叫んだ。ジャーナリストのSさんとは、合う頻度は少ないものの、話がとてもよく合う大切な友人である。さっぱりとした性格で、努力家で、性格も優しく、本当にいい人だ。

アメリカ人の夫と二人暮らし。年齢は私と同じ36歳。あの事件の前後、とても忙しくしていたのが、10日ほど前、お腹の具合が悪いと言って病院に行ったら、子宮癌の疑いがあると言われ、その後、セカンドオピニオンをと他の病院に行ったら大腸癌だといわれ、昨日手術をしたのだという。他臓器への転移もみられた。

電話をくれた友人は、彼女と同じ職場に勤めていたのだが、つい最近まで元気だったから、全然想像もしなかったことで信じられない様子。

電話を切った後、電話でアガリクスをオーダーした。翌朝の配達便で。アガリクスが体内の免疫力を高めて、キモセラピー(抗ガン剤)の副作用を軽減することは、父だけでなく、友人知人の経験から明らかなので、買わずにはいられなかった。

癌が助かる病だと言うことは、父の経験からわかっている。とはいえ、自分と同じ歳の身近な女性が、こんな折にこんなことになるとは、なんともたまらなく、朝から考えが頭を駆けめぐり、またしても仕事に集中できない。

思えば私は3年以上、健康診断をしていない。早速、人間ドックの予約を入れる。

夕方、早めに仕事を切り上げ、アッパーウエストサイドを散歩する。ショーウインドーを眺めていても、心ここにあらず。リンカーンセンターの噴水のあたりに腰かけて、夕映えに染まるビルを眺める。

何となく、外にいたくて、ハドソンホテルのキャンドルライトが美しいバーで、赤ワインを飲む。

「はーーっ……」

今日はため息ばかりだ。

5年後、10年後のことなどわからない。わからないということが、ここ数週間の間でひどく現実的なことになってきた。こんな時勢に、自らを省みずに日々を送ることが、私にはどうしてもできない。世界が今までと違ってしまった以上、それに相応した、せめて心持ちで日々を過ごさなければ、いや過ごさずにはいられないのだ。

空きっ腹にアルコールが回って、ちょっと思考が淀んでいたが、不意にひとつの、確固たる決意が浮かび上がった。

「目先の幸せを考えよう。今は、目先の幸せのために、努力をしよう。……まずはニューヨークの家を引き払い、DCに拠点を移そう」

A男に何度も懇願されて、そのたびに大喧嘩になっても、私はニューヨークを離れないと主張してきた。結婚しても当面は、二重生活を続けるつもりでいた。でも、その主張が、なんだか、そんなに重大なことに思えなくなったのだ。

結局、私は、自分が避けたかったはずの状況、つまり、「何らかの要素に囚われ始めていた」のかもしれない。「自立した女性でい続けたい」「ニューヨークが好きだから、私はアメリカに住んでいるのだ」「ニューヨークを離れたくない」といったことに。

確かにその気持ちがあったからこそ、英語もろくにしゃべれないまま、誰一人として頼る人のいないこの街に来て、会社を起こし、自分の力でこうやって生活できるに至ったのだ。それは、我ながらたいしたものだと思う。でも、だからといって現状に拘っていては、別の可能性を遮断することにもなるかもしれない。

拘りなのか意地なのか、勇気なのか逃避なのか、わからないけれど、そんなことどうでもいい。他人がなんと言おうと、私は自分の決意を信じる。これは前へ進む一歩だと信じる。

よし。引っ越そう。そう決めた途端、次々にアイデアが浮かんでくる。住むならジョージタウン。欧州風のタウンハウスがいいか、それともアパートメントがいいだろうか。いずれにしても公園の近くにしよう。犬を飼うのもいい。飼うなら柴犬か?名前はA男が子供の頃、歴代の飼犬に付けていた名前、「スヌーピー」になるだろう。スヌーピーという名の柴犬も妙なもんだ……。

DCに二人で住むとなると、今よりずっと広くて安い家に住める。毎週どちらかが行き来していた相当な交通費も浮くし、すべて2セットあった家財道具も一本化できる。光熱費、電話代、ハウスキーパー代……。

そう考え始めると、いままで無駄なお金と時間をかけすぎていたことに思い当たる。もちろん結婚したのは数カ月前だから、それはそれで然るべき状況だったのだが、結婚前から同じような生活を何年も続けていたから、境目がはっきりしないのだ。

もちろんミューズ・パブリッシングは存続するし、クライアントの大半はニューヨークなのだから、マンハッタンへは頻繁に来るつもりだ。

たとえば1カ月に10日間、ホテル住まいをしても、今の二重生活よりも安い。

今まで考えたくなかったから考えなかったが、一度考え始めると、それはそれで楽しそうである。気分によって異なるエリアのホテルに泊まればいい。予算があるときは豪華なホテルに、逼迫しているときには安めのホテルに。

違った目でニューヨークを見られるかもしれないし、時間が限られていれば今よりずっと大切に、街と関わっていけるような気がする。

一度「これ」と決めたら迷いのない自分の性格に、我ながらほれぼれする。ここしばらくの脳裏に漂っていた薄霧が、すっと晴れたような気がした。

友の病の知らせは、私の背中を押してくれた。

 

●10月3日(水):教育の大切さ。Kさんをインタビュー。その後、友を訪ねて

最終号のmuse new york のテーマは教育である。巻頭のインタビューを、Kさんにお願いした。彼女はフランス人の夫との間に2人の子供を持つフォトジャーナリスト。以前書いたかと思うが、私と同じ梅光女学院大学の卒業生だということもあり、ただならぬ親近感を持たせていただいている。

あの日以来、子供たちの傷ついた様子を見、将来に関してさまざま思いをはせた挙げ句、「教育」というものが、いかに大切かを身を以て感じたと、非常にわかりやすく語ってくれた。

編集の最中にあの事件が起こり、なんだか方向性がばらついていたのが、画竜点睛を得た感じである。

muse new yorkの発行を終え、しばらくしたら、すべてのバックナンバーをホームページに掲載する予定なので、そのときにはぜひ、目を通していただきたい。

夕方、アガリクスを持ってSさんの病院へ。彼女が麻酔で寝ていることはわかっていたので、付き添いの友達にメッセージだけを残した。日本の病院に比べると、明るい病院は「病気が治りそう」な雰囲気に満ちている。

でも、医療費の高いこと、このうえない。アメリカの医療制度は本当に問題がある。お金持ちの、きちんと保険に入っている人でなければ、とてもまかなえないような医療費なのだ。ちょっとした手術でも数百万する。

彼女が入っていた保険では、今回の手術はカバーされないのだという。彼女たち夫婦は、自分たちの学費のローンを、最近ようやく払い終えたばかりだと聞いている。もう、たまらない気持ちだ。

(幸いにも手術後の経過は良好で、結局この1週間後に彼女は退院した。今後、抗ガン剤投与を始めるらしい。順調に治ってくれることを祈るばかりだ)

 

●10月4日(木):エジプト人に嫁ぎ、イスラム教に改宗した知人からの手紙

ブルックリンに住む知人から手紙が届いた。日本人である彼女は結婚を機に夫の宗教であるイスラム教に改宗、二人の子供がいる。あの事件以来、イスラム教徒たちは差別や迫害を受け始めている。ブッシュがいくら「一般のイスラム教徒とテロリストたちは無関係だ」と訴えたところで、あまり効果はないようだ。

差別の対象が、黒人やヒスパニックから、アラブ人へと移行しているという話も聞く。

彼女からの手紙はかなり過激な論調だったので、すべてを掲載することはできないが、彼女自身が何らかの媒体に紹介して欲しいと望んでいるので、投稿エッセイのコーナーに掲載する予定。これも近々アップロードするので、ご覧いただければと思う。

 

●10月5日(金):子供の様子に母も混乱する。あの日の映像が残した傷跡

仕事の打ち合わせで、R子とランチ。ミッドタウンの初花という寿司屋で、ちょっと豪華な寿司ランチ。R子は精神的に疲れているようで、あまり元気がなかった。

あの日、R子は、一日中テレビを追っていた。彼女と一緒に過ごしていた2歳の息子もまた、同じように画面を眺めていた。

数日後、外出中、ビルを見た息子は「ひこーき! ひこーき!」と言うようになった。

さらに今週に入ってから毎日のように、今度は「ひこーき! ドーン! キャー!」という言葉を、一日に何度も何度も20回近く、繰り返すようになったという。

「ひこーきは、ドーンじゃないでしょ」

何度言い聞かせても同じ台詞を繰り返す息子に、彼女自身が滅入ってしまっているようだ。

そんな映像を見せたのはまずかったよ、と言うのは簡単だが、あの日、イーストヴィレッジという現場に近い場所に住んでいながら、テレビを見ないでいることなどできなかったはずだし、子供をそばにおいておきたかった気持ちもよくわかる。

マンハッタンが大好きで、夫が静かなところに住みたがっていたのを、彼女の好きなダウンタウンを好んで暮らしていたらしいが、今、郊外への引っ越しを考えているらしい。気持ちが落ち着かないというのだ。

彼女のような人が、マンハッタンにはたくさんいる。郊外へ引っ越さないまでも、ロウアーマンハッタンからの引っ越しを余儀なくされている人たちも多いわけで、彼らはアップタウンの物件を見に来るから、うちのビルも、このところ頻繁に部屋を見に来る人たちに出会う。間取り図を手に持っているからすぐにわかるのだ。

そんなわたしも、この街を出る。

一度決めたことだが、ときおり、胸を締め付けられるような寂しさに襲われる。でも、その寂しさを、無理矢理にでも、かき消す。

 

●10月6日(土):人々の僕を見る目が、なんだか違うんだよ。グランド・ゼロへ

あの日以来、初めてA男がマンハッタンに来た。金曜の夜に到着した彼と、近所のイタリアンで遅い夕食を取る。彼がいると、一人の時には張りつめていた気持ちが、すこしばかり緩む。

ニューヨークはエネルギッシュな人たちが多い。自分自身の夢を切り開こうと訪れる人、仕事に情熱を注ぐ人……。けれど、多くの「強かったはずの人たち」が、弱くなっている。それが、色々な人たちの話から、自分の経験から、さまざまな角度から感じられる。

翌日、A男が髪を切りたいと言うので、いきつけの日本人が経営するヘアサロンへ行く。土曜日、彼と一緒にこのサロンへは何度も来たことがあるのだが、これほど閑散としているのは初めてだった。

いつもなら、郊外に住む駐在員夫人が週末やって来るから、ひどく賑やかなのに、今日はガランとしている。暇をもてあましていたネイル担当の女性に声をかけられ、彼の散髪を待つ間、マニキュアを塗ってもらうことにした。

あれから、マニキュアを塗るのは初めてのことだ。そんなこと、考えつきもしなかった。ネイル担当の彼女は、コリアタウンにあるネイルアートのスクールに通っているのだという。ついつい話題はあの日のことになってしまう。

さっぱりと髪を整えたA男と、美しい爪になった私は、五番街を歩く。A男がぽつりと言う。

「ねえ、ミホ。なんだか僕、人からじろじろ見られている気がするんだけど。人々の僕を見る目が、なんだか違うんだよ」

そういう人の視線には人一倍鈍感な癖に、何言ってるのよ! と思いつつ、

「ねえ、ちょっと今少し、悲劇のヒーローぶってるでしょ。ホントにそう感じてるわけ?」

と言うと、「ちょっと意識しすぎたかも」と、笑っている。彼の発言の背景には、彼の知人のこんな話があった。シリコンバレーのカンファレンスで、彼の友人であるインド人を、アラブ人と誤解したアメリカ人が、自己紹介のときに握手するのを避けたというのだ。

この手の話はあれ以来よく聞く。褐色の肌の、濃い顔をしている人種は、警察官にじろじろ見られる、人が笑顔を返さない、などなど。もちろん、もっと具体的な差別を受けている人たちも大勢いるのだ。

現に私だって、飛行機にアラブ系の人が乗っていたら、必要以上に見てしまうかもしれない。いや、見るに違いない。ああ、なんて世の中なんだ。

ショーウインドーを眺めながら歩く。いつもなら、バナナ・リパブリックや、ブルックス・ブラザーズや、ケニス・コールの前を通るたび、「ミホ、ちょっと入ろう」といって、シャツなどを買いたがる彼もまた、今日は物欲が沸き起こらない様子で、二人とも店内に入らない。それにしても、星条旗、星条旗、星条旗……。

お腹が空いたので、コリアタウンへ行き、豆腐料理がおいしいレストランでランチを取った後、同じくコリアタウンで行きつけの眼鏡屋で私はコンタクトレンズを、彼は新しいめがねを買う。32丁目(5番街とブロードウェイの間)にある「フレンチ・オプティカル」という店。ちなみにここははおすすめの店だ。とても感じのいい姉弟が経営する店で、品質が高い上に他の店よりも安い。おまけ(コンタクトレンズの保存液など)もたくさんくれる。

その後、更に五番街を南下する。フラットアイアンビルを過ぎたあたりで「あのあたりがワールドトレードセンターのあった場所だよ」と、A男に教える。A男は信じがたいほど方向音痴かつ土地勘がなので、念のため、教えたのだ。

「ねえ、グランド・ゼロに行ってみる?」

そういう彼に、「私は絶対にいやだ」とその時は言った。だいたい、ユニオンスクエアのシアターで、映画を観る予定だったじゃないの。

そしてしばらく歩き、ユニオンスクエアで人々の寄せ書きなどを見、しばらくして、もう一度、A男が言う。

「グランド・ゼロに行くのと、映画を観るの、どっちがいい?」

なんだか、その時、「見ておいたほうがいい」という気持ちが突然沸き起こった。「行こう」といってA男の手を引き、地下鉄に乗る。

地下鉄はキャナル・ストリートを最後に、ロウアー・マンハッタンの駅を通過してブルックリンに入るようになっていた。キャナル・ストリートからは歩くしかないようだ。

チャイナタウンの中央を東西に横たわるキャナル・ストリートから、ブロードウェイを南に歩く。ブルックリンブリッジへ向かう車両以外は規制されているから、交通量が驚くほど少ない。開いている店も少なく、歩いているのは、グランド・ゼロを見に行く「観光客」の姿だけ。

夕方のせいもあり、あたりの空気は重く暗く、街が死んだように静まりかえっている。

南下するほどに焦げ臭い匂いが漂ってくる。最初から来るつもりであればマスクを持ってきたのだが、そうではなかったから私は持っていた大判のハンカチで鼻と口を覆う。A男は、通り沿いにあったマクドナルドに入り、ナプキンを取ってきて代用する。

現場から1ブロック離れた南北に走るブロードウェイから、東西に走るストリート越しに現場を見る。

最初のストリートからは瓦礫の山が、次のストリートからは、焼けこげたビルの低階が、次のストリートからは、ぐにゃりと曲がったビルの残骸や壁面が……。

もう、勝手に涙がどんどん流れてきて、どうしようもできない。今、この目で、自分の目で眺めているのに、なんだか現実のこととは、思えないのだ。その残骸ですらも、工事のためにライトアップされた様子が、まるで映画の撮影現場のような雰囲気を漂わせているのだ。

でも、これは現実。これは現実。

時折、観光客の撮るカメラのフラッシュが光る。

背後から日本人の若い男たちの声が聞こえてきた。

「わぁ〜、これ、やばいっしょ! うわあ、やばいっしょ!」

そのカジュアルな声に、思わず彼らを張り倒したくなった。

ニューヨーカーの多くは、多分、ここへ足を運ぶ気にはならないだろう。私は自分が見ておきたかったと言うよりも、A男に見ておいてほしかった。彼も相当のショックを受けているようで、「これは地獄だ。地獄だ」とつぶやいていた。

髪の毛にも衣服にも、焦げ臭い匂いが染みつく。5000人もの人たちが、ここに埋まっているのかと思うと、たまらない気持ちになる。

近所のデリで塩を買う。そして、現場から数ブロック離れたところで、自分とA男に塩をふりかける。そんなことでもしなければ、両肩が重く、気持ちが鉛のように沈み、どうしようもできなかったのだ。

「なんで塩なんかまくの? また、ミホは変なことをする」とA男はぶつぶつ言っているが「塩は浄化する力があるの! これは万国共通の行いなの! 黙ってなさい!」などと、訳の分からないことを断言し、塩を撒きまくる。

ソーホーまで歩き、なぜかわからないが二人で靴屋にはいり、おそろいでティンバーランドのウォーキングシューズを買い、その場で新しい靴に履き替えた。

イーストヴィレッジにあるロシアン・バー「プラウダ」へ。地下にある雰囲気のいい店で、ソファーの具合もライトの具合もほどよくて落ち着く。メニューにはウォッカがずらりとリストアップされていて、なにがなんやらわからなかったが、ウォッカベースのマティーニ(オリーブ入り)をオーダー。メニューにはキャビアやイクラもあった。

ほどよく酔いが回わり、沈んだ気持ちが少し回復したところで、新しくできた日本料理店「えびす」へ行く。ウォッカで酔っているうえに、日本酒を飲んでしまい、かなり頭がぼんやりしたものの、おいしい料理を食べて、比較的元気に帰宅した。


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