坂田マルハン美穂のDC&NYライフ・エッセイ

Vol. 96 5/23/2003

 


米国では明日から月曜まで三連休。月曜日は戦没者を悼む「メモリアル・デー」なのです。DC周辺は、水曜から連日曇天・雨天で、この連休もあまりいい天気は期待できそうにありません。

昨日、『muse DC』Vol.3の入稿が終わり、来週にはニューヨークの印刷所から仕上がりが届く予定です。今回は「ジョージタウン特集」。ジョージタウンはアメリカ合衆国が誕生する前、つまり植民地時代からある町で、かつてはタバコの積出港として栄えていました。

ジョージタウン大学という、米国で最初に創設されたカトリック系の大学があり、学生街としても賑やかなところです。

我が家からジョージタウンまでは徒歩で約15〜20分なので、語学学校の帰り道、デジタルカメラを片手に取材をしました。新しくできたホテルでお茶を飲んだり、運河のそばを散策したり、美しい庭園を巡ったり、JFKがジャクリーンと住んでいた家を眺めたり、ショップやレストランを訪ねたりと、取材なのだか遊んでいるのかわからない状況でした。

そのお陰で材料がたいそう集まり、今度は編集・執筆など制作に四苦八苦。歴史が濃い分、わずかな文字数を書き上げるのにも資料を読み込むのに時間がかかり、なんだか濃密な作業でした。

最終的に、勢い余って、8ページまるごとジョージタウン特集で、情報もびっしり。あんまり詰め込むと読みにくいからほどほどにしたつもりですが、取材しているうちに、町に対する思い入れも強くなって、絞り込むのが辛いくらいでした。

来週、仕上がってくるのが楽しみです。

ところで語学学校の集中コースはやめて、週に2回のカンバセーションクラスに切り替えました。授業のクオリティはいまひとつですが、クラスで出会う人たちの話がユニークで、やっぱりここでも、「事実は小説より奇なり」を実感しています。

今日はブラジル人のクラスメートのことも書こうと思ったのですが、インド・ネタでボリュームたっぷりになったので、また次回、書きます。

 

●人生の詳細が予言されている。インドの「アガスティアの葉」

アガスティアの葉、というインドの予言書の話を聞いたことがあるだろうか。わたしは、数年前、遠藤周作の対談集『「深い河」をさぐる』という文庫本を通して知った。それには、遠藤氏と青山圭秀氏(理学・医学博士)の対談が収録されていて、そこに青山氏の体験として出てきた。

数千年前、南インドで「アガスティア」という予言者が無数の人々の人生を予言し、それを書き残した。その情報は、細長いヤシの葉に古代の言葉で書き写されている。予言は何章にも及び、その人の過去、現在、未来を詳細に語っているほか、前世、来世などにも言及しているという。

葉は、そこを訪れる予定である人の分だけがあり、もちろん日本人のものもある。青山氏はインド人の友人を通してアガスティアの葉の存在を知り、その村を訪ね、自分の葉に遭遇した。そして自分の人生の情報すべてを、その葉のなかに見いだした。

わたしは知らなかったが、彼はその経験を「アガスティアの葉」という書物に表して94年に発行していたらしく、また日本のメディアでも取り上げられていたらしい。

そんな葉が存在することを不思議に思うと同時に、感嘆した。わたしは不思議な出来事をたいてい肯定するので、「そういうこともあるのだな」と解釈しながら読み進めた。

その直後、A男の家族(姉夫婦と父親)が遊びに来たとき、その葉のことを思い出して彼らに尋ねてみたが、誰も知っておらず、非科学的なことをほとんど信じない(信じたがらない)A男は、「美穂がまた、変なことを言ってる」くらいにしか受け止めていなかった。

そもそもA男は、サイババのことを「いかさま師」だと呼び、ガンジス川の沐浴の話をすれば、「あの川は汚くてばい菌がいっぱいだよ」となど顔をしかめ、ヒンズー教徒なのに牛肉が好きで焼き肉が好物だから、日本人が想像したがるインド人像からは少々かけ離れている。

つまり、彼には少しもエキセントリックなところ、つまり奇異なところがない。だから、わたしが「インドってちょっと不可思議な国」という先入観で話をするのを、結構いやがる傾向がある。彼は心のどこかで、それは「非科学的で文明的ではない」、ひいては「見下されている」と感じるのかもしれない。

それはさておき、わたしもしばらく、アガスティアの葉のことは忘れていた。

数週間前のことだ。A男の知り合いのインド人の若い夫婦が我が家へ遊びに来た。A男と妻の方が、知り合いだった。

ニューデリーに住んでいるA男の父親と、その妻の両親が知り合いで、A男もニューデリーに帰省したとき、彼女の一家に会ったことがある。彼女は米国在住のインド人男性と先頃見合い結婚をし、最近、ヴァージニア州に引っ越してきた。

彼女の夫は偶然にも、A男の勤めている町(レストン)に勤務が決まり、彼らは偶然にもA男が以前住んでいた町(ボルストン)の同じアパートメントビルディングに住み始めた。

彼らは約束の時間より1時間以上も遅れて、我が家のドアを叩いた。「インド時間」でやって来たのは、若くてファッショナブルなカップルだった。

一見して「若いのに、なんだか落ち着いた雰囲気の二人」という印象を強く受けた。

彼らは見合い結婚をしたらしいが、その過程を聞いているだけで、わたしとA男がかなり「気軽に」結婚できたことを不思議に思った。

インドは今でも多くの人々が見合い結婚をする。「異なる地域」「異なる身分」「年上の女性」の人と結婚するだけでも問題がある場合が多く、ましてや「他の国・年上の女性」となると、結婚を許さない家庭の方が、圧倒的に多い。

彼らの場合、現在インドで「流行」している「新聞広告」によって互いの両親が「息子・娘の伴侶探し」に熱血した様子。夫の方はアメリカ在住の将来性あるビジネスマンとあって、売り手市場。さまざまな「求婚者」が問い合わせるから、さまざまな条件を元に、まず両親が「ふるい」にかける。

しかし、女性の方は出身が「地方」のせいもあるのか、彼女自身、容姿端麗でチャーミング、しかも仕事を持っていてさばけているのだが、どうしても「選んでもらう」立場にあるらしい。結局、彼女は両親の勧めるがままに、数年のうちに100人以上の男性に会ったという。

一方、彼の方は、彼の両親と弟が「ふるい」にかけた結果の3人に会い、現在の妻が最高の相手だと判断、アメリカの息子に連絡し、「この女性にコンタクトを取れ」と指令を出したという。

その「ふるい」の基準は、その女性の「人となり」もさることながら、まずは「占星術」的な相性診断から入るのだという。詳しいことはわからないので、軽く触れるに留めるが、ともかく互いの相性をインドの占星術のもとに割り出し、そこでいい相性だと判断された段階で初めて「面会」に進むといった具合。

彼自身は、そういう「占いによる運命」は一切信じていなかったが、結婚とは「家族のこと」で自分ひとりで決められることではないと最初から認識していたので、特に逆らうつもりはなかった。

とはいうものの、会ったことのない女性に、いきなりどういう風に連絡を取ればいいのか戸惑った。弟に探りの電話を入れると「あの女性は最高だ。兄さんにぴったりだと思うよ。兄さんがいやなら、僕が結婚してもいい」とまで言う。

ちなみに弟は弟なりに、彼女に対して「試験」をした。家にある4WDの鍵を渡し、「運転できるか?」と尋ねたという。すると彼女は躊躇なく車に乗り込み、運転できた。それで弟は、(この女性なら、アメリカでも兄と一緒に、しかし自立してやっていける)と判断したらしい。

なんだかよくわからん基準だが、まあ、ともかく、弟なりに判断したわけだ。

二人は最初、電子メールで、なんとなくやりとりをはじめ、そのうち電話をするようになり、最終的に彼がインドに帰省した際に初めて会い、そしてそのまま結婚となった。

「モンスーン・ウェディング」という映画とほぼ同様の流れである。

端から見る限りにおいても、仲睦まじい二人はとても相性のいい、すてきなカップルに見える。夫は妻を「とても大切に」扱っているのが感じられる。夫は料理や家事も手伝うらしく、妻は専業主婦ながらも「のんびり」しているらしい。

家事にせよ、日曜大工系にせよ、一切合切をやらないA男とは大違いである。

さて。彼らと自分たちの身の上話を交換しあったあと、夕食に出かけた。レストランで「出会いの運命」などの話をしていたとき、夫の方が「不思議な話があるんだけど……」と言いながら切り出してきた。

アガスティアの葉の話だった。

A男は無論、わたしが話したことなど覚えてもいなかったから、最初は話がよく飲み込めていなかったが、ともかく、彼らは二人とも、「自分たちの葉」を見に行って、そして自分たちの人生の情報をすべて「入手して」来たのだという。

実際に自分の「葉」を見てきた人を目前にするのは初めてのことだったので、わたしは興味津々、身を乗り出して聞いた。

要約するとこういうことだ。

・インド南部に、聖者アガスティアが数千年前に予言を書き残した「ヤシの葉」がある。

・アガスティアは自然医学「アーユル・ヴェーダ」を体系化した人物とも言われている。

・「葉」には、人々の人生が書かれた者のほか、医学情報が記されたものもあった。

・イギリス統治時代に、イギリス人たちが持ち帰るなどして葉の保管状況が乱れた。

・「葉」を読む人は「ナディ・リーダー」と呼ばれるが、いかさま師も多い。

・ナディ・リーダーは世襲制。困難な文字の読解など、多様な教育を受け継いでいる。

・海外から訪れる人の中にはいかさま師にひっかかり、大金を払う人もいる。

彼らが訪れた「ナディ・リーダー」は、出自が明らかで、妻の方の一族が、昔から出入りしていた「確かな」人物らしい。最初、その話を妻から聞かされたとき、夫は一笑に付し、まったく信じなかった。自分の葉を見つけに行くことなども考えられなかったが、妻の家族のしつこい勧めもあり、あるとき二人で一緒に出かけた。

・最初、「ナディ・リーダー」に指紋を渡す。男は右の親指、女は左の親指。

・「葉」は指紋の形に従って、1008タイプの系統に分類されている。

・指紋の傾向によって、「葉の束」が取り出される。

・そこから自分に該当する葉が検索される。必要なのは「イエス」「ノー」の返事だけ。

自分の名前、年齢、誕生日などが次々に言い当てられる。途中で、家族の名前が違ったりして「ノー」と答えると、また違う葉が取り出される。そうして繰り返していくうち、自分の葉が見つかる。すぐに見つかる場合もあれば、「似たような葉」が多い人は、時間がかかることもある。

彼の葉を読み上げているとき、「ナディ・リーダー」は、彼を個室に導いた。そして尋ねた。「葉に、あなたが結婚の直前まで付き合っていた元ガールフレンドの情報が出ているが、これは奥さんの前で話していいのか。秘密にしておくべきだったら言わない」と言われた。

彼は奥さんに、ガールフレンドのことを話していたので、彼女の前で何を話してもいいと言ったという。

葉は、全部で12章に分かれており、例えば第1章には本人の名前に始まり、家族の名前、など。5章では子供たちの誕生から死に至るまでの詳細。7章では自分の伴侶との出会いや結婚生活について。

12章以降も更に4章あり、そこには前世や来世との関わり、カルマ落としなど「具体的な救済法」などが記されているらしい。

ともかく、彼らは、自分たちの葉を見つけた。その時の「ナディ・リーダー」が読み上げた声は「CDに録音」しており、葉の写真も撮影してきた。

「ナディ・リーダー」は彼の、彼女の、これまでをすべて言い当て、夫の名前、妻の名前、すべて明確に読み上げた。それまでは疑心暗鬼だった夫も、その段階で、信じざるを得なかったという。

「もしもそれが本当だったとして、自分の人生を知って、どうなの?」

というわたしの素朴な質問に、彼は言った。

「僕は、話を聞いてとてもリラックスした。なぜなら、僕らの人生は、悪くなかったからだと思う。僕らが死ぬと予言された日はまだ50年くらい先のことだし、これからさほど悪いことが起こりそうもない。むしろ、いい人生なんだ。彼女は32歳ごろ男の子を、34歳ごろ女の子を出産することもわかっているし……」

彼らのケースは、予言が「よかったから」よかったのだ。しかし、予言に脚色はない。たとえば来月、事故で死にます。と読み上げられる人もいる。

そもそも、この「ナディ・リーダー」にすがって来るインド人の多くは、非常に貧しく、困窮している人々で「魂の救済」を求めて、つまり13章以降の葉に記されていることを知りたくて、訪れる人も少なくないと言う。

日本でメディアに取り上げれてからは、一時日本人客も増えたようだ。しかし彼らが「いかさま」ではない「ナディ・リーダー」に出会えたかどうかは定かではない。

彼らの話を聞いている間、A男は何度も腑に落ちないという顔で、質問をぶつけていた。しかし、彼らがわたしたちに嘘をつく理由は何一つないし、葉が存在しようがしまいが、それを肯定しようが否定しようが、どうでもいいことなのである。

彼らは信じているし、A男は信じたくない。それだけのことだ。

そして、わたしはといえば、その葉の存在は信じていると思う。だけれど、自分の葉を見てみたいとは思わない。自分の葉を見るのは、なんだか怖い。でも、そこへ行って、第三者が、葉に人生を「言い当てられて」いるところを確かめてみたい気もする。

そこには、わたしの葉は存在するのだろうか。行くことになっていれば、あるのだろうし、行かないことになっていれば、ないのだろう。

そういうことを考えると、なんだか頭の中に、白いもやがかかったような、頼りない、不思議な、何とも言えない気持ちになる。

わたしという存在は、ひどく小さいようにも思えるし、いや、ひどく大きいもののようにも思える。無論、大小の「大きさ」という概念を突破した、もっと違ったもの、に思える。ともかく、とりとめのない心持ち。

本当に、彼らの未来は、そのCDから聞こえてくる声のまま、流れていくのだろうか?

その声を聞いた時点で、もう、「作為」があるような気がするのだが、それにしても、よくわからない。

あなたは、どう思いますか?

(5/23/2003) Copyright: Miho Sakata Malhan

 


Back