6/3/2000 MITの同窓会 その3

 午前中、A男はビジネスセミナーのプログラムに参加するというので、私はキャンバスの一画でのんびりと本でも 読むことにした。日本で仕事をしていた頃は、じっくりと心を鎮めて読書に集中することなどごく稀で、ひたすら仕 事仕事の日々だったが、ニューヨークでは意外に自分の時間がもてる。日本からはるばる運んできた書物を繰り返し 読む余裕があるのはうれしい。

 ニューヨークからボストンへの列車の中で読もうと、出 発直前に本棚から慌てて取り出した数冊の文庫本。安部公房の「けものたちは故郷をめざす」、同じく安部の「密会」、梶井基次郎の「檸檬」、スコット・フィッツジェラ ルド著、村上春樹訳「マイ・ロスト・シティー」の4冊。 出発前はたいてい急いでいるから、よく考えずに本を取り出すのだが、偶然に引っぱり出したその本が、その時の心境にしっくりくることも少なくなく、いいものである。「マイ・ロスト・シティー」は、10年以上前に一度読んだ切りだった。内容もあきれるほどきれいさっぱり忘れているので、まるで初めて読むかのように楽しめた。当時は自分がニューヨークに暮らすことになるとは予想だにしていなかったから、今、ここに住んでいて、小説内にニューヨークの描写が出てくると、全く違った印象を受ける。

 安部公房は、卒論のテーマにしたくらいだから、じっくり読んでいたはずだけれど、それでも数年に一度読み返すたびに、新鮮な発見があって驚く。本の存在は一定で、活字は何一つ変わってはいないけれど、月日を経て、読み手の私が変わったことで、本の内容があたかもワインのように醸造されて、異なる香りを呈する。不思議なものだ。

 話がそれたが、同窓会の続きである。午前中のプログラムを終えたA男と私は合流し、ランチレセプションに参加するべく、体育館に向かった。広々とした体育館は、披露宴会場よろしく、円卓で埋め 尽くされており、簡単な食事がテーブルに用意されている。ランチを兼ねて、今回の同窓会における報告会が行われるのだ。

 テーブルは卒業年度ごとに分けられていて、A男は旧友たちとの会話で盛り上がっている。さて、食事も終盤ににさしかかったころ、司会を務めていた卒業生のひとりから、同窓生による大学への寄付金の発表が行われた。

 卒業して間もない若い年代の同窓生は、寄付した人の割 合も50% 強と比較的少ないのだが、年度を遡るごとに割合は60%前後に上昇し、さらにその寄付金の額も増えてゆく。次々に内容が読み上げられていく中で、私の耳に鋭く入り込んできたのはその数字だった。

「1945年度卒業生、63%、総額5ミリオンダラー、1940年度卒業生、64%、総額7ミリオンダラー……」

 ものすごい数字が読み上げられていく。1ドル100円として1ミリオン1億円である。最後に今 年の同窓会における寄付金の総額が読み上げられた。34ミリオンダラー、つまり34億円である。5年度ごとの同窓会で、1930年の卒業生から参加しているから(ちなみに1922年卒業の100歳前後のおじいさ んも参加していた)、合計14年度の卒業生が対象であ る。1学年、平均1,000人として、合計14,000人。全員にこの数字を分散すると、1人あたり平均25万円寄付したことになる。

 毎年、同窓会で寄付金を募るほか、随時、多くの卒業生が大学のために寄付をしているという。このお金が大学の 設備投資や研究費に充てられるのだろう。いやあ、驚いた。

 すごいすごいと驚く一方で、たいそうな寄付金がある割に、このランチは質素でまずいなあと、不満に思う私であった。

 ところで、現在、MITの教授である卒業生の一人が、スピーチの席でこんなことをしゃべっていた。

「先月、出張でアジア諸国を巡りました。日本、タイ、シ ンガポール、台湾、香港などです。どこの国を訪れても実 感したのは、我々MITの卒業生が、単に企業の牽引役にとどまらず、その国の経済や社会に影響力を与えるべく、大切なポジションについていることです。これは、非常に印 象的で、誇らしいことでした……」

 この言葉を聞いたとき、ああ、やはりアメリカという国は、なんだかんだと言っても強力な国なんだなあと、痛切に感じた。これほどまでに、世界各国の学生たちを受け入れる国が、ほかにあるだろうか。世界各国の優秀な学生たちがこの国を目指してやってくるのは、それだけの魅力とチャンスとステージがあるからなのだ。

 同じアジア人でありながら、例えば日本国内で、あるいはシンガポール国内で、アジア各国の学生たちが集える大学があるだろうか? 国境を越えて、国籍を越えて、学舎を共にし、4年の歳月を過ごす。学問以外に得るものの大きさは計り知れない。

 国家のイデオロギーを越えて、友として結ばれた絆が、あるいは国家間の軋轢を緩和する役割を担っているのかもしれない。そう思うと、単に「懐かしい友に会うための同窓会」にはとどまらない意義を感じるのである。

 今日ばかりは、このような母校を持つA男のことを、とてもうらやましく思った。


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