アジアがこぼれるクリーニング店
2/22/2000
 

 アメリカ暮らしが長くなると、自然にお行儀が悪くなってくる。日本人に比べると、アメリカ人は男女を問わず、総じて行動ががさつである。体格が大きい分、いっそう際だって見える。年頃の女性でさえ、テーブルに足を投げ出す、人前で大口を開けてギャハハと笑う、ところかまわず大声で叫ぶ、足で蹴ってドアを開ける……と枚挙に暇がない。

 一時期、ニューヨークにある日系の企業に勤めたことがあった。そのオフィスビルにあるフロアごとの共同トイレを通しても、それを痛感した。たとえ個室に入っていても、自分のあとに入ってきた人が日本人かアメリカ人か、音を聞くだけで簡単に識別できるのだ。

 アメリカ人の場合、ダンッとドアをあけ、ドスンと便器に座り、飛沫が上がらんばかりの音響を伴って放尿し、ガラガラガラガラガラーッとトイレットペーパーを巻き上げ、ギッとレバーを押し、ジャーッと流し、再び、ダンッとドアを開け、ザーッと水道の水を出し、更にギーコギーコギーコとレバーを押してペーパータオルを出し、ベリベリッと破いて、ザザザッと手を拭き、再びドアをダンッとしめて去っていくのである。

 自分の放尿する音を他人に聞かれないために、水を同時に流したり、あるいは人工的なせせらぎ音を出す機械までも備え付ける日本人とは、根本的な感覚が、断然違うのである。個室に入った者同士が、用を足しながら大声で会話を交わすというのも日常茶飯事。まあ、よく言えば皆ダイナミックなのだ。

 その行動から見受けられるように、精神もまた、たくましい。アメリカ人の体格と強烈な自己主張を前にすると、アジア人女性はなんともか弱き野辺の花である。しかしながら、郷にいれば郷に従ってしまうというか、ともすれば、日本人として誇るべき上品な立ち居振る舞いを、すっかり忘れてしまっている自分に気づく。いや、もちろん、忘れてしまったところで特に支障があるわけでもないのだが、ろくに英語も話せない癖に、よくないところばかりアメリカ人化するのも、いかがなものかと思うのだ。

 日本人には日本人のよさがある。挨拶するときに頭を下げて、何が悪かろう。それが日本の挨拶なのだ。

 しかし、元来がさつなわたしにとって、アメリカの環境は実のところ、うってつけだった。渡米後ほどなくして、なんの苦労もなく、アメリカ人化しつつあった。しかし、そんなわたしに、「アジアの心」を呼び起こしてくれる出来事があった。

 マンハッタンのクリーニング店の多くはコリアン・アメリカンによって営業されている。今まで、アパートのビル内にあるクリーニング店を利用していたのだが、近所に安い店ができたので、そこを利用するようになった。

 悲劇的なサービス(1)(2)にも記しているとおり、アメリカのサービス業のサービスは非常に悪い。スーパーのレジなどでも、ダラダラと時間がかかるし、お金を渡しても人の顔を見ずに受け取る。同僚とぺちゃくちゃおしゃべりしたり、スナック食べながらレジを打ったり……。気ままに楽しく仕事をするのはいいが、まったくお客をかまっちゃいない。おつりを投げるようにして渡されることもしばしばだ。日本のように、購入したものは自分で袋に詰め込むようセルフサービスにすればいいのに、なまじレジ打ちの人が袋に詰めるもんだから悲劇である。バナナやリンゴなど傷みやすいものもお構いなしにドンドン放り込むからかなわない。

 さて、話がそれたが、クリーニング店である。多分、30代後半であろうか、笑顔のやさしい女性がレジの前に立っている。軽く挨拶を交わし、「今日は寒いわねえ」とか何とか言いながら洗濯物を袋から取り出して渡す。彼女はテキパキと受け取り、ピッピッとレジに打ち込む。全部で14ドル。20ドル札を財布から出し、何気なく彼女に渡そうとしてハッとした。彼女はにっこりと微笑みながら「両手で」そのお札を受け取ったのだ。そして、おつりのお札もまた、「両手で」渡してくれた。

 ああ、なんてすてきな人!! 

 ただそれだけのことなのだが、感情の振幅が激しいわたしは、ものすごーく心が和んで幸せな気分になっていくのを感じた。この数年間、お札を両手で受け渡しされたことなど、一度たりともなかった。アメリカでのがさつな毎日の中で思いっきり忘れていたお行儀。

 「お客様は神様です」という、古典的フレーズが頭に浮かんだ。そうなんだよ。お客様は神様なんだよ。
 アジアのよさはアジア人にしかわかるまい。そう思うと同時に、自分のお行儀を省みて、日本人のよきところは失わずにいたいものだ、とも思った出来事だった。(M)


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