強すぎる、弱き人々。
10/3/2000

 先日、ダウンタウンのウエストヴィレッジを歩いていたときのこと。地下鉄を出て、往来の激しい歩道を歩き始めたところ、前方の人波が乱れ、人々が大慌てで左右に飛び退いている様子が目に飛び込んできた。若い白人男性の盲人が、白い杖を突き出し左右に振りながら、猛烈なスピードでこちらへ向かって歩いているのだ。私の前を歩いていた女性は、杖を避けきれず、つんのめって転びそうになっている。日本の白い杖に比べると、こちらのは規格が違うのか、とても長く130センチ程度はありそうだ。たまに短い杖をついている人も見かけるが、ほとんどの人は、長い杖をついている。それを思い切り前に突き出しながら歩いていたものだから、危なくてしょうがない。若者が多いエリアだからいいようなものの、老人が歩いていたら衝突していたに違いない。ニューヨークでは、このように、強すぎる身体障害者をしばしば見かける。

 この間も、電動式の車椅子に乗った男性が、タイムズスクエア(Broadway & 42 St.) の観光客でごった返しているストリートを、かなりのスピードで走っていた。角を曲がる際にスピードを落とすどころか、鋭角的にキュッとカーブするものだから、向こうから歩いて来た人にぶつかりそうになっていた。電動式車椅子に制限速度はないのだろうか……。

以前、バスに乗っていたときのこと。バスはすべて車椅子のまま乗れる仕様になっているので、足が不自由な人もそうでない人と同じように一人で行動できる。バス停に車椅子の人がいると、運転手はまず前方のドアを閉め(無賃乗車を防ぐため)、車椅子乗車用の機械を作動するべく、後部ドアへ向かう。付き添いの人がいない場合は、運転手が手を貸して、車内の安全なスペースに彼らを導く。その作業にだいたい3分から5分ほどかかる。彼らが下車するときも同様だ。通勤時だろうが何だろうが、不満そうにする人はもちろんいない。

 先日、やはりタイムズスクエア近くのバス停で、車椅子の白人女性が待っていた。道路は渋滞し、運転手は定められた場所に停車することができない。すると、車椅子の女性が大声で叫ぶ。

「ちょっと! あなた、どこに停めてるのよ! バスに乗れないじゃないの!」

「違法駐車の車のせいで、そこに停められないんだよ。僕が手を貸すから、ちょっと待ってくれる?」 

恰幅のいい、黒人の中年男性ドライバーは答える。

「正しい場所に停めてくれれば、私は一人でできるのよ! ちゃんと停めてよ!」

「まあまあ、そう言わずに。僕が手を貸すから、ちょっと待って……」

「私は自分で乗りたいの!」 

 まったく頑固な女性である。乗客は互いに顔を見合わせ、あきれ顔。しかし皆、辛抱強く待つ。仕方なく、運転手は正しい場所に停車しようと移動し始めた。なのに、その女性は、ぷりぷり文句をいいながら、さーっと車椅子を走らせ、その場を去ってしまった。運転手は気づかない。何とか正しい場所に停車した彼は、外を見て彼女がいないことに気づく。

「あれ、僕の愛しいハニーはどこへ行ってしまったの?」

 乗客は皆、苦笑している。

 マンハッタンはごみごみとした街だけれど、障害者向けの設備は驚くほど整っている。街のバスはすべて車椅子に対応しているし、公共施設やレストランでも、障害者用のトイレが必ずある。街で身体障害者を見かける頻度は、日本のそれを大幅に上回っている。

 以前、取材コーディネートとしたシリコンアレー系の会社に(マンハッタンの23丁目以南を拠点とするIT関連のベンチャー企業)にHalf the Planet .com という、身体障害者向けのウェッブサイトを運営する会社があった。アメリカでは、身体障害者とその家族、それに関連する仕事に従事している人たちを含めると、国民の半数に上るという(その事実が社名に反映されている)。身体障害者の比率は、日本もアメリカも大差ないはずだ。にもかかわらず、彼らの社会における生活環境は、明らかにアメリカの方が快適である。

 ニューヨークで知り合った日本人女性に、足の不自由な人がいる。彼女は、以前痛めていた膝を、ニューヨークで手術した際、その手術がうまくいかず、松葉杖が必要な生活を強いられるようになった。マンハッタンの生活は、松葉杖でも何とかやっていけたが、仕事の事情などもあり、一時日本に帰国し、東京で働いていた。そして今、再び単身でマンハッタンに戻ってきて、仕事をしている。

 彼女の話を、そのまま、ここに紹介したい。

 日本では、松葉杖をついてようと、99% 、公共の交通機関で席を譲られることはなかった。たまに見知らぬ年輩女性が声をかけてくる。皆、異口同音に、こういうらしい。「あなたがそういう身体になったのは、前世で悪いことをしたからよ」。

おしゃれな彼女が、ファッショナブルな服装で街を歩いていると、背後から若者が罵声を浴びせる。

 「シンショーのくせに、かっこつけやがって!」

 夜、地下鉄の階段を一歩一歩下りていると、酔っぱらいのおじさんが、抵抗できないことをわかっていて身体のあちこちを触ってくる。「やめてください!」と大声で叫ぶ彼女に、歩行者は見て見ぬふり。

 もっと驚いたのは、彼女が就職を探しに職業安定所(ハローワーク?)だか、役所だかに行ったときのこと。足は悪いけれど、デスクワークはできるから、どんな仕事でも大丈夫ですと彼女が言ったら、担当の男性は含み笑いと共に、こう言ったという。

 「風俗関係の仕事でも、いいんですか?」

 彼女の話はまだまだ続いた。私は、ちょっと待って、それはないでしょう、と何度も確認するのだが、彼女はひたすら、「ひどかった」を連発する。

 わずか1年たらずの間に、彼女が受けた苦痛ははかり知れず、激しい人間不信に陥り、日本人でありながら日本には住めないと判断し、改めて単身渡米した。

 彼女の体験は、極端に不幸な例かも知れない。たとえば、地方都市などは、人の心にもゆとりがあって、少しはましなのかもしれない。そう思いたい。先日、読売新聞衛星版の投稿欄にも10代の女性のこんな投稿があった。エレベータを待っている車椅子の男性がいたのだが、ドアが開くや、周りの人たちが一斉に乗り込んで、彼を置き去りにしてしまった。これは間違っていると思いつつも、何も言うことができなかった自分が情けなかったと。

 人に優しい街、だとか、ユニバーサルデザインだとか、あれこれと形から入る前に、もうちょっと、考えるべきことがあるのではないかと思う。(M)


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