坂田マルハン美穂のDC&NYライフ・エッセイ

Vol. 103 9/18/2003

 


今日も、いつものように6時頃起床し、ヨガをやって、学校へ出かける準備をしたが、ハリケーン、イザベルが接近中につき、念のため学校へ電話をしたら休校とのこと。ニュースを見れば、政府機関も休みで公共の交通機関も午後にはストップする模様。なんだか一大事な様相を呈してきた。

ハリケーンそのものはともかく、ハリケーンの周りには竜巻がたくさん誕生するらしいから、その方が怖いな。それにしても、イザベルの目(台風の目)の風速は現在、時速100マイル(160キロ)らしい。無論、地上に吹き付ける風は50、60、70キロと、エリアによって予想が異なるけれど、それにしたって、猛烈な吹きっぷりだ。

そういうわけで、思いがけず休校となったため、朝から掃除洗濯をして家内をすっきりと整え、コンピュータに向かっている次第。メールマガジンの頻度を以前のように高めようと思っていたものの、なかなか時間が取れずにいたのだが、ちょうどよかった。

 

●9月11日。あれから2年たった。

2年前のこの日のことが、なんだかもう、遠い昔のことのようにも思える。去年の今ごろは、ちょうど『街の灯』の出版のため、日本に帰国していた。それすらも、遠い昔のことのようだ。

今年の9月11日もまた、秋晴れの好天だった。

うちの斜向かいにあるナショナルカテドラル(国立大聖堂)にダライ・ラマが訪れ、午後4時より平和講演を行うというので、3時過ぎに学校を終えて、クラスメイトとともに、大急ぎでカテドラルに向かった。

ところが、案の定ではあったが、入場無料ということもあり、カテドラルの敷地周囲は、講演を待つ人々の列でぐるりと取り囲まれていた。3000人以上は集まっていたようだ。予想通り、カテドラルの中には入ることができず、大勢の人々とともに、カテドラル前庭の芝生の上に座る。

スピーカーからダライ・ラマの声が、途切れ途切れに届いてくる。音響が悪くて言葉がなかなか聞き取れない。それでも、しばらく、その場に身を置いておきたく、耳を傾ける。

しかし、あまりにも内容が聞き取れないので、途中で諦め、家に戻った。部屋の窓を開け放ち、窓辺のソファーに座る。外から、涼やかな風と共に、ダライ・ラマの声の断片が、私の部屋に入ってくる。

今、彼が平和を願いながら発している声が、自分の部屋に直接届いている、ということが、とても不思議で、ありがたく、幸せなことに思えた。

一人で静かに、あの日にまつわる自分自身の心の動きを回想した。テレビや新聞で、あの日の映像を見ると、どうしても平静でいられなくなるので、見なかった。

あの日によって、自分の人生の優先順位を見直し、この街に移ることを決めた。いろいろなわたしを取り巻く出来事が、あの日に影響されている。あの日がどんなに遠くなっても、あのとき自分が考えたこと、選んだことを、決して忘れたくない。

 

●友人の結婚式のため、ニューヨークの郊外へ出かけた。

先週の土曜日(13日)は、友人の結婚式だった。ニューヨーク郊外のベッドフォードという小さな町で行われる式に参列するため、金曜の夜、A男と二人、家を出た。

新婦はかつて、わたしの婚約指輪をコーディネートしてくれた宝石関係の仕事をしているHさん。彼女が長く付き合っていたアメリカ人の男性D氏と、ついに結婚することになったのだ。

それにしても、わたしたちが二人揃ってニューヨークへ向かうときは、本当に、悪天候である。前日までは快晴だったのに、夜は嵐並みの大雨。彼女たちの結婚式に、まるで自分たちが雨を降らせてしまったようで、罪悪感さえ覚えてしまうほどだ。わたしはさておき、A男がだいたい雨嵐雪男(ニューヨーク限定)なのだ。

金曜の夜は、豪雨の中、フィラデルフィア郊外の見知らぬ町でハイウェイを降り、ホテルに一泊。翌朝、やはり雨が降りしきる中、更に北へ向かって走り、土曜の昼頃、ベッドフォード近くのホテルにチェックインした。

わたしはランチを食べたあと、宿題の一部をすませ、あとは出かける時間まで読書などしてくつろぐ。

そして4時、ベッドフォード・ヴィレッジへ。英国情趣の漂う小さなこの村が、D氏のふるさとらしい。ここはまた、裕福な人々の別荘地でもあるらしく、品のいいブティックなどが点在している。結婚式は、村の中心部にある、小さなコートハウスで行われた。

時間が50年、いや100年ほどにも遡るような、素朴な佇まいのコートハウスで、和やかに式が進行する。友人や親戚らのスピーチも、ほのぼのとしていて、思わず目頭が熱くなる。自分の結婚式では涙の一滴も出なかったのに。というか、意味不明な儀式に、込み上げる笑いをこらえるのに苦労したものだ。

その後、コートハウスのほんの目の前にある、やはり小さなシティホールで披露宴が行われた。HさんやD氏の家族や友人らともおしゃべりを楽しみつつ、グラスを傾け、楽しいひととき。

A男もアルコールのグラスを重ね、すっかり上機嫌。バンドの演奏に合わせ、みんなして踊る。夜11時近くまで、しゃべったり踊ったり……。やがて少しずつゲストも帰ってゆき、わたしもくたびれてきたので帰ろうというのに、「まだ帰りたくない!」といつまでも居残ろうとするA男。最後にはわたしにひきずられるようにして、退散となる。

温かくて、和やかな、とてもいい結婚式だった。

 

●22世紀へ向けて、アジアに、アジア人のための国際大学を!
【その2】

前回、「アジアに、アジア人のための国際大学を」と書いた件について、「すでに日本にもそういう大学がある」というメールを送ってくださった方がいた。確かに、アジア各国からの学生を積極的に受け入れている大学があることは理解しているが、わたしがイメージしている「国際大学」というのは、少々、イメージが異なる。

「非現実的」で「絵空事」だと思われるのは承知で、「こんな大学があったらいいのに」というイメージを、書いてみたいと思う。

その前に、なぜ、こういうことを考えるに至ったか、その理由ときっかけを記してみたい。

先日、A男と、ジョージタウンにあるMie En Yu (http://www.mienyu.com/)という、エキゾチックなアジアのモチーフが散りばめられたレストランで、のんびりと語り合いながら夕食をとっていたとき、下記のようなことが話題になった。

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・米国の大学には、中国、台湾、韓国、インドなどアジア各地から訪れる優秀な学生があふれている。特にカリフォルニアの大学で学ぶアジアの学生は増加する一方で、バークレー大学などはアジア人に「占拠」されている状況となり、アジア人の入学を制限する必要がある(もしくは制限を始めた)とのこと。

・韓国では1998年に経済が悪化し、一時、多くの留学生が帰国を余儀なくされたが、現在は、経済的に余裕のある家庭の多くは、子弟を米国に留学させようとしている。子供の教育のために、一家総出で米国に移民する家族も少なくない。

・1999年時、シリコンバレーのハイテク関連企業の2割以上が、アジア系の移民によって率いられていた。さらに移民ではなく、H1Bビザ(一時就労/非移民ビザ)にてシリコンバレーに勤務するインド人、中国人は非常に多く、ITビジネス全盛期、インド人をはじめとするアジア人が、米国経済の好況に大きく貢献した。

・シリコンバレーの全盛期、H1Bビザの発給数(毎年数が異なる)は大幅に引き上げられた。9/11のテロ直前には50万人近くがH1Bビザで就労していたが、うち半数が、インド人と中国人で占められていた。

・現在、ITバブルの崩壊により、レイオフ(解雇)されるインド人はじめアジア人は相当数に上る。無論、米国人もレイオフされているのだから、外国人だけが被害を被っているわけではないが、外国人は解雇された瞬間から永住権を持たない限り、帰国を余儀なくされるため、人生設計の狂いが著しい。

・インドには、マサチューセッツ工科大学(MIT)に並ぶ、あるいはそれよりも難しいとも言われる、インド工科大学(IIT)がある。A男の話によると、彼が大学進学を考えていた時期(つまり10数年前)、この大学の「年間の学費」は、わずか100ドル(1万2000円相当)だった。

・A男はインドの難関高校を卒業しているが、成績の上位者ほど、米国の大学に進学する比率が高かったとのこと。また、上記インド工科大学の卒業生の多くも、米国の大学院に進学したり、米国の企業に就職している。

・A男の姉、スジャータの夫、ラグバンはサイエンティストで、普段はインドのバンガロールというIT産業が盛んな学園都市で、エイズ・ワクチンの研究などをしている。しかし、エイズ・ワクチンを実際に製造するための直接的な研究は、米国の製薬会社を通して行っている。

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こんなことを話しているうちに、常々心の隅にあった違和感が、ふつふつと浮上してきた。

自分が好きでこの国に住んでおきながら、こんなことを言うのもなんだが、「ある側面において」アジア諸国が、米国に翻弄されているような気がしてならないのだ。あくまでも、「ある側面において」だけれど。

世界各国からの若者を受け入れ、教育の場を提供している米国。その「懐の広さ」は非常にすばらしく、感嘆すべきことだと思うが、その一方で、アジアの優秀な頭脳を「ほしいまま」に集め、「有効利用」しているしたたかさをも、強く感じる。

たとえば、インド国内にはすばらしい教育システムを持った学校があり、国民を「安価で」学ばせているにも関わらず、優秀な学生らは米国へ飛び立っていく。絵に描いたような頭脳流出である。

鍛えられた頭脳を有効利用できる土壌が、インド国内にないと言ってしまえばそれまでだが、「流出の構図」があまりにも疑いなく、自然の流れになっていることが、どうにも腑に落ちない。

A男のインド人の友人の中には、米国の経済に貢献している人もいれば、「精神的な文化の違い」が原因でアメリカ人と渡り合えず、くすぶっている者も少なくない。ある友人は、ビザの問題で帰国を余儀なくされ、近々米国を離れるという。

日本人の優秀な学生も、日本の大学を出たあと、米国の大学でPh.D(博士号)を取る人が大勢いるが、日本人の場合、「言語」や「文化」への同化云々の問題もあり、他のアジア人に比べれば「最終的には帰国」する人が多いような気がする。無論、言語だけでなく、学んだことを社会に反映できる素地も、国によって異なるから、一概に傾向を語ることはできないけれど。

そんな話をしながらA男を見ているうちに、この人は、いつかきっと、インドに帰って、インドで力を発揮するべきだ、と強く感じた。MITやMBA時代の、インド人の友人らと協力しあって、インド経済のために仕事をするのが、いいのではなかろうか、とも思えた。

前置きが長くなってしまったが、そんなことを話し合っているうちに、やはり、米国以外に、アジア各地の学生らが「ぜひとも行きたい、学びたい、理想的な大学」が、アジアのどこかにあればいいのに……、という発想に至った。

それはむしろ、大学というより、「一大アジア学園都市」である。22世紀まであと100年もあるから、そのうちに、こんな絵空事も、ひょっとすると現実的になるかもしれない。

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・アジア各国が同等の立場で、協調態勢を取り、学園都市の構築に関わる。

・学園都市の場所は、気候のよい、どこかアジアの国の「島」まるごと、なんていうのもいい。授業が終わったら、海でひと泳ぎ、というのも気分がよさそうだ。

・場所を「島」とした場合、その「アジア学園島」の共通言語は「英語」と定めるのが手っ取り早いだろう。そのためにも、日本国民「総バイリンガル化」が望ましい。

・「アジア学園島」は、基本的にアジアの特定の国に属せず、独立国家的、あるいは自治区的な存在が好ましい。まあ、そのあたりは、追々考えるとして。

・学部はできるだけたくさん。ともかく、欧米の大学に、軽く太刀打ちできる幅広さと奥行きがほしい。

・島内に、アジア各国それぞれの「村」を作る。ここに各国の宗教施設や領事館などを設けるほか、商店や住宅施設も充実させる。

・各国の「村」は、アミューズメントパーク的な要素も採り入れ、「観光収入」が得られるよう工夫する。

・米国の大学に絶対的に欠けている「食」を、全島をあげて充実させる。人間、食生活が貧困だと、勉強の意欲もそがれるというものだ。米国の大学に通う大学生が、どれほど「故郷の味」に餓えているか。というわけで、食堂街の充実。祖国の味がそのまま味わえる屋台村もほしい。

・ついでに、フランスのル・コルドン・ブルーや米国のCIA(Culinary Institute of America)に並ぶ、アジアの「名門料理学校」も設立したい。そこの生徒による「調理実習」の料理を、格安で食べられるレストランも作る。

・「食」はともかく、大学病院も、もちろん併設。学生らの「心身の健康」はすべて安価な保険でカバーされるような仕組み。新薬その他を開発したら、「アジアの製薬会社」で商品化し、全世界へ向けて販売。

・学生らを対象とした「起業支援システム」も完備。随時、起業案のコンテストなどを行い、優秀なアイデアを持つチームには積極的に起業を支援し、ベンチャー・キャピタルが投資しやすい環境作り。

・アジア各国で開発される、さまざまな分野にまたがる「新製品」の試用(市場調査)を、学園島内で積極的に行う。従って、学園内は、基本的に「アジア最先端」の技術が結集する。

・アジア各国にとどまらず、他の国々との国際交流は不可欠。欧米はもちろん、南米、アフリカ、オセアニア、中東……と、世界各国の大学との「交換留学制度」も充実させる。

・学生らの卒業後の就職先など、将来どのように「鍛えられた頭脳」を生かして行くべきか、それをも研究機関化して、アジア経済の貢献に結びつくような「橋渡し」をする。

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……とまあ、一笑に付されることを承知で書いてみた。こんな学園島がもしもあったら、今すぐにも通いたい気分だ。

学生になるには勉強不足とあらば、「日本村」か「インド村」で民宿経営、というのもいいな。あるいは、学園島の「ガイドブック」や「情報誌」を作るのも楽しそうだ。

100年後の世界の構図。どうなっているんでしょうね。

(9/18/2003) Copyright: Miho Sakata Malhan

 


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