ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 11 10/21/2000

 


今日、木曜日は久しぶりの快晴。爽やかな秋の一日でした。こんな季節がずっと続いてくれるとうれしいのですが、寒い冬はもう目の前です。

さて、前回触れた寿司の話について、いくつか反響がありました。読者の方には、アメリカに滞在したことがある方も多いようで、ご自分の経験を披露してくださった方もいました。

前回の冒頭でご紹介したエステティックサロン経営のSさんも、このメールマガジンを読んでくれていて、こんなメールが届きました。アメリカ人の夫(B男さん)についてのコメントです。

<……うちのB男は、まさしくニューヨーカーのおすしの食べ方そのものの人で、絶対に味なんて解かってなくて、ただお醤油とすっごく辛い物(わさび)が好きなだけだと思う。ショウガも、いつも私が大事に食べているのに、バクバク全部食べちゃいます。それと、多分サーモンの握りばっかり食べているのは、B男の弟です……>

さて、今日は、読者の方から質問のあったカウンセリングについて書くつもりだったのですが、別のトピックスが発生したので、そちらをお伝えします。次回はカウンセリングのことを書こうと思います(予告しておかないと、また違うことを書きそうなので)。

最近、次号muse new yorkの制作や、他の仕事が詰まってきたので、ここ1カ月くらいは発行頻度が落ちるかもしれません。一応、ご報告しておきます。

 

★ミューズ・パブリッシングのNYセカンドオフィス誕生

うちのオフィスの近所に、もう1年近く前から工事をしているビルがあった。さして気にとめていなかったのだが、数週間前、ふと見ると、いやに斬新な門構えになっている。何のビルになったのかな……、と思いつつ数日たった金曜の夜、そのビルの前を通るとそこには長蛇の列。聞けばホテルがオープンしたらしく、併設されたクラブやバーに行こうと、情報通で新しい物が好きなニューヨーカーたちが押し寄せて来ているのだった。その夜はそのまま通り過ぎたのだが、今日、打ち合わせの帰り、ホテルに立ち寄ってみた。

キリコ(シュールレアリズムのイタリア人画家)の絵画に出てくるような、無機質ながらも物語性を秘めた外観。エントランスをくぐると、紡錘形の、大きな銀色のオブジェが両側に立っている。フィリップ・スタルクの設計だろうか……と思いつつ正面のエスカレータを上り、ロビーフロアへ。正面にレセプションがあり、その向こうの広い窓から、夕暮れの陽光が射し込んでいる。インテリアはエントランスと一転してネオ・クラシック風。高い天井がなんともいい。驚くほどに大きく、きらびやかなシャンデリアが、シックな空間にアクセントを添えている。

このフロアには、レストラン、バー、そしてビリヤード台のあるライブラリー風のプールバーがある。ガラスの向こうには、広々とした中庭。フロアすべての天井が高く、とても開放的。特に気に入ったのはプールバーと中庭。どちらも、読書をしたり、語り合ったり、仕事をしたりするのに気持ちよさそうな、ゆったりとした空間だ。中庭は、アンティーク風のソファーやテーブル、ランプが無造作に配されている。壁には一面にツタが絡まり、私の背丈ほどの巨大な植木鉢に、1本ずつ木が植えられ、それがいくつか並んでいる。そしてこれまた銀色の、大きな大きな花瓶風のオブジェもある。説明するのに難しいのだが、とにかく独特の雰囲気を漂わせている。

あちこちを眺め歩きながら、私はとてもうれしくなってきた。何といってもオフィスから歩いて5分。ミーティングにも使えるし、気分転換したいときに、ここで原稿を書くこともできる。

私の住むアッパーウエストサイドはセントラルパークからも近く、オフィス街であるミッドタウンへも近く、とても気に入っているのだが、落ち着けるカフェが少ないのがやや不満ではあった。ダウンタウンには、欧州風のカフェがちらほらあるのだが、うちの近所は、徒歩5分圏内にスターバックスが3軒あるばかり。スターバックスはテーブルが汚いし(みんなが行儀悪く散らかしていくので)、なんだかゴミゴミしていて落ち着かないのだが、それでも思考が煮詰まったときなどは、ノートパソコンを持って出かけていた。

でも、明日から、ここを使える。ミューズ・パブリッシングのセカンドオフィスにしよう! と一人盛り上がる。帰り際、レセプションでホテルのブローシュアをもらう。料金表はまだ印刷中だとかで手に入らなかった(うちに頼んでくれれば、納期に遅れないのに……)。聞けば1室95ドルから550ドルだとか。しかも95ドルから150ドルまでの部屋が半数を占めるらしい。驚くほど安い! マンハッタンのホテルの相場の約半額である。

ブローシュアによると、このホテル(ハドソンHUDSON)は、ブティックホテル、もしくはデザイナーズホテルと呼ばれるモダンなホテルの先駆的存在である「モーガンズ」や「パラマウント」「ロイヤルトン」といったホテルの系列だった。建築家はやはりフィリップ・スタルク。ご存じの方も多いかと思う。日本でもバブルの頃、有名だった建築家で、東京・浅草にあるアサヒビールの建物は彼の手によるものだったと思う。屋根の上に大きな金色のオブジェが載っかった、あのビルである。

夕方、オフィスに戻って、どうしてもホテルのレストランで食事がしたくなり、近所に住んでいる広告代理店の駐在員K氏に電話する。今夜は暇だというので、早速、夕食に誘った。

7時近くにホテルに訪れると、夕方とはうってかわって、すでに大勢のニューヨーカーで賑わっている。特にバーは仕事帰りのビジネスマン&ウーマンたちでひしめきあっている。例のライブラリー風プールバーも満席だ。

レストランはアメリカン料理。シイタケのソテーやウドン・ヌードルなど、オリエンタルがかったメニューもあるが、ステーキやシーフードのグリルなどが目立つ。K氏はおすすめだといわれたミートローフとロブスタービスク(クリームスープ)、私はビーフシチューとホウレンソウのソテーをオーダーした。オープンキッチンで天井も高く、広いテーブルを複数客でシェアするスタイルのダイニングはカジュアルでいい感じ。でも、料理の味は、まあまあだった。でも、雰囲気がいいから、いいや。

帰り際、中庭に出てみた。夕方とは違って、キャンドルのライトが美しく、なんともロマンティック! 揺れる光に浮かび上がるアンティークの家具やオブジェが何となく幻想的でいいムード。こんなところで意中の人に見つめられたりしたら、もう、しなだれかかってしまうこと、請け合いである。

ちなみに、いくら雰囲気のいい場所だからといって、私はK氏を襲ったりはしていないので、念のため。

HUDSON NEW YORK
356 West, 58th Street New York, NY 10019
(212) 554-6000

 

●Comment. 12(Hさん)

毎回楽しく拝見させていただいています。毎日が”エキサイティング”に思えます。たくさんのご苦労も山のようにあるかと思いますが、楽しそうですね。毎週NHKの”ニューヨーカー”楽しみに見ているのでMIHOさんの姿と最近はオーバーラップしてしまいます。何度も、留学しようと思いつつ断念して来ましたがまた、本気で考え出しました。何をきっかけに渡米されたのか? 英語は堪能だったのでしょうか? 渡米されてから勉強されたのでしょうか? ビザの取得が一番のネックだったと思いますがはじめは学生ビザで渡米されたのですか? よろしければ教えて下さい。

>>以前、とあるウェブサイトに掲載された自己紹介文の原文を一部を抜粋して掲載します。長いけれど、このなかに、私のニューヨークへ来た経緯などが記されていますので、ご興味のある方はお読みください。

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大学卒業後、旅行関係のガイドブックを作る制作プロダクションに入社。編集者として海外旅行のガイドブックを手がける。2年半後、当時まだ小さかった広告代理店(制作会社)に転職、クレジットカード関係のPR誌の制作で、海外旅行関係の取材、編集などを行う。

27歳のとき、フリーランスのライター・編集者として独立した。その際、一年のうち3カ月は休暇を取って海外に出ようと決めていた(それ以外は、土日返上で働くという自分なりの条件付けのもとで)。最初の年、3カ月間、ヨーロッパを列車で放浪した。次の年、英語力をつけるため、イギリスに3カ月語学留学した。しかし3カ月程度では、大した英語力の向上は図れなかった。そのとき、それまで全く興味がなく、行ったこともなかったニューヨークがひらめき、「次はニューヨークで勉強しよう」と思い始めた。

そもそも私は、直感やひらめきで物事を決定し(一応なんらかの根拠はあると、自分では思っている)、後から準備を整えていくタイプなので、イギリスから帰国したあとは、翌年のニューヨーク行きを目指して、「猛烈に」仕事をした。予算があれば語学を学んだ後、カレッジで勉強し直すのもいいかもしれないと考えたが、どうやっても1年弱でその資金を稼ぐことは不可能だった。しかしながら、1年間、語学留学するだけの資金は貯まった。まずは語学学校を3カ月ほど契約して学生ビザを取り、住んでいたマンションを引き払い、ニューヨークへ飛び立った。

将来、ずっと日本で仕事を続けることに説明しがたい抵抗があった。世界は広い。もっともっといろいろなものを見たい。だから日本の外へ出なければと思った。とはいえ、具体的な夢はあったわけではない。ただ、「日本の中にとどまっていたくない」という思いだけが強くあった。それは日本が嫌いということではなく、まだ見ぬ世界への好奇心だった。これから始まる新しい暮らしへの興味の方が、不安や躊躇よりも圧倒的に強かった。

ニューヨークへ来てからは、4カ月間、語学学校に通ったが、あまりの刺激のなさに仕事がしたくなった。フリーライターとして仕事がないかと訪れた日系の出版社で、社長から「ワーキングビザを手配してあげるから、広告営業をやらないか」と勧められ、「それも経験」と思い、就職することにした。予定の1年を過ぎ、1年半がたったころ、現地採用の給料の安さに、貯金もどんどん減り始めた。仕事内容も一時的なもので、本来私がしたいことではない。独立したい、けれどビザのスポンサーが必要だ、とあれこれ逡巡したあげく、自分で会社を作り、その会社をスポンサーにして就労ビザを取得する方法を思いついた。

日系社会は狭いので、その会社に勤務しながら独立しようとしていることが知られるとまずい。万一解雇されて現在のビザを失ったら身も蓋もないので、誰に相談もせず、あれこれと資料を集め、数人の弁護士や会計士を訪ねてまわった。人のアドバイスを受けなかったため、悪質な弁護士につかまり、余計なお金を支払ったりするなど、さまざまなトラブルがあった。

トラブルに見舞われながらも、思い立ったら即実行せねば落ち着かないたちなので、あらゆる手続きを可能な限り素早くやった。その結果、「会社設立→自分のビザ取得申請→ビザ取得」を5カ月以内で完了した。このあたりの経緯は、「地球の暮らし方・ニューヨーク編(99/00年)」のインタビュー記事などに掲載されている。

http://www.museny.com/mihosakata/mihosakata.htm

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会社の設立は、日本に比べると極めて簡単ですが、就労ビザの取得に関しては、非常に困難です。ましてやグリーンカードの取得となると、抽選に当選するか、アメリカ人と結婚しない限り、何年もの年月を要します。

私のように自分で会社を興し、自分の会社でビザのスポンサーをしている人は、そう多くはいません。例え就労ビザが取れたとしても、労働局から職種に応じて最低賃金が提示されるので、その金額を自分に必ず支払わねばならず(その3分の1は税金に消える)、軌道に乗るまでは結構たいへんです。起業にあたってのエピソードやビザの問題などは、たくさんの質問をいただいているので、またいずれ書きます。


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