坂田マルハン美穂のDC&NYライフ・エッセイ

Vol. 111 3/5/2004

 


ここしばらく、急に春の陽気です。まだ数回は寒さが訪れることでしょうけれど、確実に春が近づいていると思うと、心がおのずとほぐれてくるようです。長い冬があるからこそ、春の到来が待ち遠しいのですが、それにしても、冬は極力短く、春は長くあってほしいと思わずにはいられません。

この2週間、夫の出張に伴ってロサンゼルスにに出かけたり、友人らとホームパーティーをしたり、エステやらマッサージやらに出かけたりと、なんだか「いいご身分」な日々を過ごしていました。

今週末はボストンへ3泊4日の小旅行です。というか、またもやA男の出張に便乗して出かけるのです。去年の後半は学校もあって、そうそう出かけることもできなかったことに加え、冬の間は「籠もりがち」だったので、今は地上から放たれた風船のように、春風に吹かれてフワフワしています。

 

●あの夏があったからこその、今のわたし。

この世に生まれて以来、自分の身の回りで起こったことの全てが道標となって、わたしは歩いてきていて、現在の自分に至っているのだろうと思う。

たとえば今の自分が、レゴのようなもので出来上がっているとするならば、過去に起こったことの一つ一つは、小さなピースの一つ一つに置き換えられるかもしれない。

どのピースも、わたしを創り上げる上で大切なピースだけれど、しかし、他のピースと入れ替えることができるものと、絶対に入れ替え不可のピースとがあるように思う。

そういう風に考えると、今のわたしを創り上げる上で絶対に不可欠なピース、つまり過去の経験の中でも、最も大切なものの一つは、大学2年、十代最後の夏の、初めての海外旅行だと思う。発行当初のメールマガジンにも、この旅行のことを書いたけれど、改めて書く。

当時、山口県下関市の辺鄙な田舎町にある大学に通っていたわたしは、そのおんぼろの学生寮で、「花の女子大生ブーム」とはおよそかけ離れた、地味な学生生活を送っていた。ともかく、エネルギーが鬱屈していた。どこかに飛び出したくてならなかった。

英文科には交換留学制度があったが、日本文学科だったわたしにはそれに参加できなかったので、夏休みを利用して、旅行会社が主催するホームステイプログラムに参加しようと思った。まだ1ドルが250円以上の時代だった。1年前から計画し、アルバイトをしたが、資金の半分しか貯められなかった。

「成人式の振り袖は要らないから」

今思えば、ピントはずれな依頼の仕方だと思うが、わたしはそう言って、両親に資金の援助を請うた。父は当初、渡米に反対していたが、母の方は比較的、積極的だったので、結局は許してもらえた。

ちなみに父は、わたしが家から通えない大学に通うことを決めたときも、ホームステイに行きたいと言ったときも、東京に行くことも、いちいち猛烈に反対した。反対を押し切るわたしの力を試していたのか、それとも本当に反対していたのか、今となってはよくわからない。

ともかく、19歳が終わる夏、わたしは大きなスーツケースを携えて、福岡空港を発った。まずは羽田空港から都内に入り、そこで1泊2日の研修がある。その後、参加者一同、成田からロサンゼルスへ飛んだのだった。

東京へ行ったのは、そのときが初めてだった。羽田から、重いスーツケースを抱えて市ヶ谷の研修会場まで地下鉄で行った。エレベータもエスカレータもない地下鉄で、息を切らしながらスーツケースを運んだときのことを鮮明に覚えている。

そうして、ロサンゼルスの郊外の、とある一家で1カ月を過ごした。日中は語学学校に通い、たまに参加者全員で観光旅行に出かけた。

あの1カ月の間に全身で感じた、南カリフォルニアの青空や、海や、乾いた風の感触や匂いや、色々な種類の人々や、ともかく取り巻く全てが、わたしのそれまでの価値観や尺度を、根本的に覆した。

ロサンゼルスのディズニーランドは、そのとき初めて訪れて、本当に、心の底から、なんて楽しい場所だろうとウキウキしながら過ごした。何しろ、そのときまでは、九州の「三井グリーンランド」が、わたしにとって一番インパクトのあったアミューズメントパーク、というか遊園地だったのだ。

見るもの全てがまぶしくて、おもしろくてならなかった。驚いたり、笑ったりしてばかりいた。

今回、A男のカンファレンスの合間を縫って、二人でディズニーランドを歩いた。あの夏以来、18.5年ぶりのディズニーランドだった。

わたしは「激しい乗り物」が苦手なので、「白雪姫の館」とか「ピノキオの館」をトロッコみたいな乗り物で巡る、やわなアトラクションを楽しんだ。

それにしても。

ディズニーランドはとても狭かった。こんなに狭かっただろうか、と驚くほどに。

わたしは、歩きながら、18.5年前の夏のことを鮮明に思い出していた。そして、それ以降の自分が経験したことに思いを巡らせた。

A男はA男で、まだ彼の母が健在だったころ、家族4人でここへ遊びに来たときのことを思い出しているようだった。

あの1カ月の経験があったからこそ、わたしは多分、東京に出て、海外へ旅をして、こうして海外で暮らすという方角へ向かった。あの夏、ここに来ていなかったら、今とは全く異なる場所で異なることをしていたのは確かだ。

これから先も、決して他のピースとは変えることのできない、あの夏のように鮮烈な出来事に遭遇したい。あの、お腹の底からワクワクするような経験をしたい。そのピースを見つけるために、もっともっと動き続けていこうという思いを、新たにした。

 

●エノラ・ゲイを見た。

夫のオフィスはヴァージニア州のレストンという街にある。DC郊外の、新興ビジネスタウンだ。新しいオフィスビルやアパートメントビルが次々に立ち、ここ数年のうちにも、レストランやショップなどが軒並みオープンしていた。

さて、先週の金曜日、夫が通勤する車に乗って、わたしもレストンへ行った。夫をオフィスでおろしたあと、そのまま車でショッピングモールなどに出かけ、買い物をしようと思ったのだ。買い物の合間、思い立って、スミソニアンの航空宇宙博物館に立ち寄ることにした。

そもそもスミソニアンのミュージアム群は、ワシントンDCの町中、連邦議会議事堂やワシントン記念塔などの観光名所がある「モール」と呼ばれるエリアにあり、航空宇宙博物館もそこにある。

ただ、展示品が大きいだけに、多分、モールの館内ではおさまらなくなったのだろう、去年の末、ヴァージニア州にあるダレス国際空港のそばに、巨大な「別館」が完成したのだ。

この航空宇宙博物館については、ご存じの方も多いだろう。ここには復元された「エノラ・ゲイ」が展示されているのだ。日本のメディアでもたびたび取り上げられていたのを目にした。広島県被爆者団体協議会の人たちが渡米し、地元の平和活動家らと共に抗議運動をしたとの記事も、インターネットで見た。

わたしは、もちろん戦後生まれだが、戦争教育はしっかりと受けてきた世代だ。夏休みの登校日には、必ず戦争に関する話を聞かされたり映画を見せられたりした。家族に戦争体験を聞くという夏休みの宿題もあった。

福岡大空襲を経験した担任教師の話も、臨場感があって、とても怖ろしかった。他の授業のことは忘れていても、先生が、防空頭巾を被って焼夷弾の雨をくぐり抜け、溝の中に命からがら避難したという話は覚えている。

「原爆の歌」(ふるさとの町焼かれ、身よりの骨埋めし焼け土に……)とか、「夾竹桃の歌」(夏に咲く花、夾竹桃…… 空に太陽が輝く限り、告げよう世界に原爆反対を)とかいう歌は、今でもしっかりと覚えているくらい、繰り返し歌わされた。

あまりに戦争の話が怖ろしくて、子供のころは夏の入道雲や青空を見るたびに、自分が戦争を体験したわけでもないのに、底なしの恐ろしさや虚無感に襲われることがあった。

体験したことのない戦争だけれど、自分の国(日本)の痛ましい歴史の断片は、確かに刻み込まれているような気がしていた。

ハイウェイをはずれ、わざわざそのミュージアムへアクセスするために施工されたらしき真新しい道路を走った先に、そのミュージアムはあった。駐車場代だけで、一台につき、12ドルも払わされた。まずはそのことに驚いた。

アメリカの、こんなに土地の有り余った場所で、駐車場代を12ドルも払うとは。無論、スミソニアンのミュージアムそのものは無料だから、多分道路の工事費とかそういうものの赤字を埋めるための、それは駐車場代だろうとも思った。

広大な駐車場の向こうに、巨大なメタリックの建物が、青空に映えて美しい。上空ではダレス空港に飛来する飛行機が行き来している。わたしは、少し身構えるような心持ちで、車を降り、エントランスへ向かった。

エノラ・ゲイ。

わたしの想像の中で、その飛行機は、忌々しく、醜いはずのものだった。罪なき十数万人の命を一瞬にして奪った、残酷な飛行機。それをこれから見るのだと思うと、胸の鼓動が高まった。案内のパンフレットを受け取り、その広大な展示場に出る。

第二次世界大戦のコーナーは、入館してすぐの場所を占めていた。そこで、ひときわ大きく、格好のいい銀色の飛行機が目に飛び込んだ。尾翼に大きく「R」の文字があり、胴体に「82」という数字と星印がある。

その大きな飛行機の周辺に、主翼に日の丸のある日本の戦闘機が数機と、それからナチスのマークが入ったドイツの戦闘機などが展示されているのが見える。

「1941年、日本軍による真珠湾攻撃を機に、米国は第二次世界大戦に参戦した……。」そういう文章で始まる案内を一通り読んだあと、まずは日本の戦闘機を眺める。

翼が極端に小さく、飛行機と言うよりは、まるでミサイルみたいに小さな「クギショー」と言う名の戦闘機があった。それは特攻隊の乗っていたものだという。説明書きには、「終戦までに5000人のパイロットが特攻(Tokko Attack) によって戦死した」と記されている。

さて、エノラ・ゲイはいったいどの飛行機なのだろうと、コーナーをぐるりと回り込んで、息をのんだ。最初に目に飛び込んできた、あの銀色の飛行機の操縦席近くに、「ENOLA GAY」という文字が記されているではないか。

これが、エノラ・ゲイ?

わたしは、非常に混乱した。なぜなら、エノラ・ゲイは、醜くも忌々しくもなく、むしろそれは、美しく、格好のいい飛行機だったからだ。しかもそれは、想像していたよりもはるかに大きい。

それは、このミュージアムの大きな目玉、といってもいいほどの存在感だった。勝手に小さな戦闘機を想像していたわたしは、ともかくその大きさにも驚いた。

エノラ・ゲイのそばには、他の航空機にあるのと同様、その機体名と概要、スペックなどが記された説明書きがあった。

Boeing B-29 Superfortress Enola Gay

このB-29というタイプの飛行機が、太平洋戦争でいかに活躍した優秀な航空機であったかが記されている。そして、1945年の8月6日、この飛行機が最初の核兵器を日本の広島に投下したこと、その三日後に、同じ機種のBockscarと名付けられた戦闘機が、日本の長崎に二つ目の核兵器を投下したこと、そしてそのBockscarは、オハイオ州デイトン近くの航空宇宙博物館に展示されていること、などが記されていた。

原子爆弾によって広島の一般市民が何人死んだかは、記されていなかった。

わたしはエノラ・ゲイの間近に迫り、下から見上げた。全身をジェラルミンで覆われた、軽量で丈夫な飛行機。わたしは、その胴体のあたりを見つめた。あそこの扉が開いて、原爆が投下されたところを想像してみた。

しかし、ずいぶん昔、白黒写真で見たことがあったはずのB-29と、目の前にある飛行機とが、どうしても結びつかなかった。

呆然とした気持ちのまま、今度は階上にあがり、至近距離で操縦席を見た。中の様子が、見えすぎるほどにくっきりと見えた。説明書きによれば、広島に飛んだとき、12人の兵隊が乗っていたという。その様子を想像してみたが、うまくいかなかった。

わたしは、エノラ・ゲイを見た瞬間、自分は憎しみや悲しみに襲われるかもしれないと思っていた。でもわたしは、その機体を見て、それを美しいと感じた自分に、ともかく驚き、困惑した。

わたしの周りでは、年輩の男性たちが、熱心にエノラ・ゲイを見ていた。ベテラン(退役軍人)たちだろうか。

エノラ・ゲイを見たら、もう、あとはどうでもよくなった。エール・フランスのコンコルドとか、フェデックスの古い貨物輸送機とか、パンナム航空の飛行機などが展示された商業用航空機のコーナーを横目で見ながら、出口へ向かった。

ギフトショップには、エノラ・ゲイのプラモデルや模型が売られていた。

わたしは、日本の被爆者団体の人たちの訴えも、平和運動家の訴えも、至極もっともだと思っていたし、共感もしていた。

あの夏の朝、このエノラ・ゲイは、広島の青空を、太陽の光をきらきらと反射させながら飛んでいただろう。それが新型原子爆弾というものを落としさえしなければ、それは、きらきらと、優美に飛来する一機の飛行機に過ぎなかった。

あの日、この飛行機が落としていったおぞましいものの引き起こした惨事を体験している人にとっては、どうしたって、これは忌々しい物体に違いない。けれどわたしは、この飛行機を見ても、憎悪の念が浮かび上がりさえしなかった。

飛行機には罪がない。

当たり前のことだけれど、飛行機には何の罪もないのだ。それは「罪の象徴」かも知れないけれど、でもやはり、罪そのものではない。そのことが、実際に、こうして自分の目で見て初めてわかった。罪は人間が創り上げるものであって、人間の中にある。

核兵器がどんなにおそろしいものか、戦争がどんなに悲しいものか、その避けがたい諍いを、いったいどうすれば避けられるのか、それはいつの時代も、誰かが必ず、問い続けなければならない問題だと思う。さもなくば、世界は、戦争に満たされてしまう。

しかし、この航空宇宙博物館に、原爆被害の展示をするというのはまた、微妙なずれを感じた。航空宇宙の技術や進歩を展示するこの場所において、戦争の被害を展示すると言うことに。

わたしは何か、間違ったことを書いているかも知れないが、これが本音だし、正直な感情だ。

しかし、さておき、エノラ・ゲイは展示されて然るべきであると思う。けれど、エノラ・ゲイがさも、「第二次世界大戦にピリオドを打った英雄」として在るのは、やはり許し難い。

日本は、世界で唯一、原爆の被害を受けた国であると同時に、敗戦国であり、敗戦した国の言い分が、戦勝国において全面的に受け入れられ、正統化されることは、ほとんどあり得ないことのように思われる。

では、いったいどうすれば、核兵器の恐ろしさを、客観的に人々へ伝えることができるのだろう。

この際、日本が「軍事兵器博物館」でも作ればいいのだ。もちろん、現物を展示することはできないだろうから、模型などを展示して、軍事兵器の技術や進歩を見せると同時に、それらの兵器によって、どれほどの人々が、どういう殺され方をしてきたか、を伝えるような博物館。

今、イラクで行われている戦争で使われている兵器や、それらがイラクの人々に与え続けている影響についても、一目でわかるような。

しかし、今、書いているだけで、そら怖ろしい博物館になりそうだと思う。子供が見たら、トラウマになるかもしれない。そうならないように、恐ろしさを伝える方法は、ないだろうか。

ともかく、エノラ・ゲイを見て、わたしは困惑している、ということを、考えのまとまらないまま、しかし今の心境を、ここに書き記しておく。

(3/5/2004) Copyright: Miho Sakata Malhan

 


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