坂田マルハン美穂のDC&NY通信

Vol. 114 3/30/2004 


ワシントンDCに移り住んで、早くも三度目の春。この街が、一年のうちで最も美しい季節が訪れました。まだ、三寒四温で、昨日、今日と冷え込んでいますが、先週末は初夏のような陽気で、本当に気持ちのよい休日でした。

土曜日は、満開のマグノリア(木蓮)や、開き始めたばかりのさまざまな種類の桜、黄色や白のスイセンなどをあちこちの庭や街路に眺めながら、ジョージタウンの周辺を散歩しました。

日曜日は、満開には少し早いと思われましたが、タイダルベイスンの桜並木を見に行きました。桜は七部咲き、といったところでしたが、今年も見事に花開き、遊歩道は花を愛でながらそぞろ歩く人たちでいっぱいでした。

汗ばむほどに暖かな日差しと澄み渡る青空。水面を滑る風の心地よさ。写真を撮ったり、ベンチで語り合ったり、芝生に寝転がったり、桜に触れてみたり……。みんなニコニコと微笑んでいます。本当に桜はいいなあと、毎年書いていますが、思います。

途中、白い杖をつきながら、やはりにこやかに遊歩道を歩く人たちとすれ違いました。A男と二人でベンチに腰掛け、目を閉じてみました。目を閉じると、嗅覚と聴覚、そして皮膚の感覚が、少し敏感になって、全身が、ふわ〜っとした桜の空気に包まれているような気持ちになりました。

これから先2カ月は、次々と花が開く季節です。ヨシノのあとは、枝垂れ桜がしばらく咲いていて、それからドックウッド(花水木)が開花します。我が家の向かいのカテドラルにあるビショップガーデンや、ジョージタウンのダンバートン・オークス、チューダー・ハウスの庭が、さまざまな花で彩られ始めるのが楽しみです。

また、4月末から5月にかけては、DCの町はずれにある国立樹木園の見事なツツジが見られます。そして5月末あたりからはバラの季節です。森の中をサイクリングしたり、トレッキングしたり、またピクニックをするのが楽しいころです。

この季節、晴れた日は、一日一日がとても大切です。日毎に咲く花が異なり、街の表情が変わっていくのです。

そんな大切な季節のまっただ中、惜しい気がするのですが、4月の中旬から20日近く、インドに行ってきます。

出張に先駆け、A男はアメリカン・エクスプレスカードがインドでも問題なく使えるかどうか、米国のカスタマーセンターに電話をして確認したところ、その電話はインドのコールセンターにつながっていて、「ここはニューデリーですけど、問題なく使えますよ」とのことだった。本当に、米国のコールセンターはこぞってインドに移ってしまっているようだ。

さて前回、「夫の出張に同伴する妻は変かも?」と自らを省みましたが、欧米在住の読者の方々より、「変ではない」とメッセージをいくつかいただき安心しました。A男の会社に限らず、欧米では、妻が夫の出張に同伴することは珍しくないようです。より堂々とした気持ちで、同行できるというものです。メッセージ、ありがとうございました。

妻が同伴することで、夫も楽しく気分良く、仕事ができればそれに越したことはありません。夫の仕事の邪魔をする妻は問題ですけれど。むしろ、我が家の場合、邪魔をするのは、A男の父、その名もロメイシュです。

今回は主にバンガロールとボンベイに滞在し、ニューデリーには2泊するとの連絡をしたら、

「もう少し、ニューデリーにいられないの〜?」とか、

「僕たちも、バンガロールに行こうかなあ……」

とかもう、粘着するのなんの。

だいたい、去年の夏は1カ月も一緒だったんだし、年末もほぼ2週間、べったりだったんだし、会いたいのはわかるが、息子の足をひっぱってどうする。頼むぜ親父。といった心境です。

わたしはA男に、ランチもディナーも現地の人と一緒に過ごした方がいいと勧め、わたし自身は単独行動しようと思っているくらいなのです。

バンガロール、ボンベイ、マドラスに在住の方がいらっしゃったら、ぜひご連絡ください。

それにしても、読者の方の以下のコメントには、思わず膝を打ちました。

「ところで出張同行(同伴)というと愛人、という言葉のほうがしっくり(?)来る日本語と、その背景、相当変ですね。」

 

●泥沼に咲く蓮の花。印パのクリケット試合

イギリスをはじめ、インド、パキスタン、オーストラリア、ニュージーランドなど、英国植民地下にあった国々では、クリケットはダントツで人気の高い国民的なスポーツである。

1回のゲームが5日間にも亘って行われ、しかも、1日に7時間だか8時間だか10時間だかしらないが、ともかく延々と続けられるゲーム。それを延々と見続ける観客。わたしには、とても入り込めないし、入り込みたくもない世界だが、インドでもパキスタンでも、かけがえのないスポーツである。

そのクリケットの、インド対パキスタン戦が、今、パキスタンで行われている。印パの政治情勢は周知の事実であろうから、説明を省くが、インドのチームがパキスタンに遠征するのは1989年以来、15年ぶりのことであるらしい。

そのことに触れた記事を3月25日付けのウォールストリートジャーナルにあったので以下、感想とともに、紹介したい。

タイトルは"Good Sports: India and Pakistan Bond Over Cricket"とある。

「数日前、ムシャラフ将軍(大統領)はイスラマバードで、軍隊式に胸を張り、聴衆に向かって言った。“我々パキスタンとインド両国は、共に大量破壊兵器を持っている”」

彼の演説を聞いていた聴衆というのは、インドから遠征に来ているブルーのブレザーに身を包んだ16人のクリケット選手。彼らはムシャラフ将軍と握手を交わし、お茶を飲みながら、サモサやケバーブ、キュウリのサンドウィッチを食べつつ、歓談したという。

ムシャラフ将軍のいうところの大量破壊兵器 (WMD: wepons of mass destruction)とは、実際に両国が持っていてる「核兵器」のことを言っているのではなく、パキスタンの主戦力であるShoaib Akhtar選手とインドの主戦力であるSachin Tendulkar選手のことを喩えているわけで、つまり「ユーモア」なのである。なんだか洒落にならないブラックジョークではある。

現在、パキスタンには数千人のインド人がクリケット観戦のためにパキスタンを訪れている。彼らは短期滞在用の「クリケット査証(ビザ)」を発行してもらい、25日現在までの10日間、カラチ、ラーワルピンディー、ラーホール、ペシャーワルの4都市を観戦のため訪れた。

彼らは、顔にインド国旗の色(オレンジ、緑、白)を塗り、国旗を振り、自国のチームを応援している。今のところ、彼らインド人サポーターが、パキスタン人によって危害を与えられたり、不快な思いをしていることはないとのことだ。

むしろ、パキスタン人の反応はその逆で、パキスタンチームが劣勢の試合であっても、インド人チームの健闘を讃えているらしい。

Pakistani public has extended such a warm embrace to fans from across the border that many Indian.

パキスタンの人々は、国境を超えて訪れた多くのインド人選手を、温かく受け入れているという。デリー・ニュースペーパーの記者によると、パキスタンのレストランやタクシードライバーは、彼らに料金を請求しないのだという。

彼らは繰り返し、言うのだそうだ。

You are our guests. We cannot charge you.

「あなた方は、わたしたちのゲストです。お金を受け取ることはできません」

これまでも、インドとパキスタンは、何度となく際どい局面に立たされてきた。

パキスタンは、インドに友好的な姿勢を見せた直後に、紛争をしかけてくるなど、インドが疑心暗鬼にならざるを得ない関係が続いてきた。

しかし、数カ月前のニュースにもあったが、現在、両国の関係はポジティブな傾向に移行しつつあるようだ。無論、トラブルの根本は国家間にあるわけで、紛争を望む国民などいないに等しいだろう。

毎日、毎日、新聞を埋め尽くす、憂鬱なニュース。泥沼の中に咲く、蓮の花のように、だからこのニュースがきらめいて見えた。

この記事は、A男が見つけて、わたしに読ませてくれた。彼が帰宅するなり、ニコニコしながら、

「ミホ、カワイイ、ニュース」

と、日本語で言いながら、記事を渡してくれたのだ。なお、「カワイイ」のはミホではなく、ニュースのことなので、念のため。

この「カワイイ、ニュース」のことを話しながら、わたしたちは、ニューヨークのタクシードライバーのことを思いだした。そのエピソードは『街の灯』に「インド人。パキスタン人。」というタイトルで書いているので、ぜひご購読を。

と言いたいところだが、ここに抜粋する。

 

●インド人。パキスタン人。

「君はどこから来たの?」

夫は親しみを込めた口調で、運転手に声をかけた。

以前、夫と二人でタクシーに乗っていたときのこと。運転席と後部座席を隔てる防弾ガラスに貼られた運転手の顔写真と名前を見て、夫は尋ねたのだった。

「パキスタンだよ」

運転手は答える。

それから二人は、わたしにはわからないヒンディー語で話し始めた。文化も、習慣も、食べ物も、そして人々の顔つきも似ているインドとパキスタン。両国はかつてひとつの国、インドだった。だから彼らの母国語はほとんど同じ。ただ、宗教が違う。

夫はインドのニューデリー出身だが、彼の母方の一族は現在のパキスタンに位置する町が出身地だ。一九四七年、イスラム勢力の影響により、パキスタンがインドから独立して以来、夫の母も、その両親も、一度も故郷の土を踏むことなく他界した。

ニューヨークとワシントンDCがテロの攻撃にさらされ、多くの人命が奪われてからしばらく、わたしはずいぶんと沈み込んでいた。ことあるごとに涙ぐむわたしに対し、夫はずいぶん冷静で、いつもならば気心が知れていると感じていた彼が、少しばかり距離のある存在に思えた。

あるとき、わたしは彼に問うた。あなたはなぜ、そんなに淡々としていられるの? あなたの住むDC、そしてわたしの住むニューヨークが、毎日のようにテロの余波で不安定な空気に包まれているというのに! 

すると夫は少しばかり冷めた口調でこう言った。

「アメリカは世界の中心、大国だから、テロでたくさんの人たちが死んで、それが世界中に知れ渡る。世界中がひどく大騒ぎしている。でもね、インドではしばしばテロが起きているんだよ。

日本でもアメリカでも、小さな記事にしかなっていないと思うけどね。何の罪もない人たちが、ひどいやり方で殺され続けているんだ。ぼくは十八歳までニューデリーに住んでいたけれど、それまでも、そしてそれ以降も、ひどいニュースを見聞きしてきた。だから今回のことは、本当に悲しむべきことだけれど、沈み込むような心境にはなれないんだ」

そして彼は、自分が初めて目の当たりにした惨事についてを語り始めた。

「忘れもしない、一九八四年のことだよ。学校で授業を受けていたら、インディラ・ガンディー首相が暗殺されたっていう噂が飛び込んできたんだ。学校はすぐに閉鎖されて、ぼくらは家に帰った。みんなの間で、猛烈な勢いで噂が飛び交ってた。彼女のボディガードの一人が、報復のために殺したって言うんだ。ボディガードはシーク教徒だった。

暗殺の数カ月前、首相は、シーク教徒過激派の根城であるゴールデン・テンプルに軍を手配していたんだよ。なぜなら当時シーク教徒過激派は、インド国内にカリスタンというシーク教徒の独立国家を作ろうとしていたんだ。もちろん彼女はそれを阻止するために軍を送り込んだ。それと同時に、彼女は危険な状況に追い込まれることにもなったんだ。

家に着いてからも、テレビとラジオは、首相暗殺の件についてまったく触れなかったから、噂だけが頼りだった。ところが突然、ラジオから、ヒンディー教の宗教音楽が流れ始めた。それでぼくたちは、本当に、彼女が死んでしまったことを知ったんだよ。

その翌日、デリはまさに地獄だった……。首相の暗殺を知ったヒンドゥー教徒の一部が暴徒化して街をうろつき、シーク教徒を見つけては、暗殺を始めたんだ。あくまでも、首相を殺したのは「過激派」であって、一般のシーク教徒には何の罪もないんだよ。なのに、それまで普通に生活していた彼らが、撲たれ、刺され、焼かれ、無茶苦茶なやり方で次々に殺されていったんだ。

シーク教徒たちの家が焼かれる煙が、街の至る所から上がるのを、ぼくらは家の屋上から、恐ろしい思いで眺めることしかできなかった。暴徒たちのものすごい叫び声があちこちから聞こえてきた。その日、二千人以上もの市民が、虐殺されたんだ。いや、もっと多かったかもしれない。あの地獄のような一日が、ぼくにとって初めての、おぞましい体験だった」

「ぼくがニューデリーに住んでいたころは、毎日のように暴動や死のニュースが新聞紙面を飾っていたのを目にしていたよ。常に、誰かが、どこかで、殺されているんだ。

シーク分離派の拠点があるパンジャブ州に、暴動が集中していた。彼らは、州、そしてインドそのものから、分離・独立しようとしていたから。それに加えて、カシミール地方では、イスラムの反乱兵が、やはり州から分離・独立しようとしていた。

彼らが一般市民を攻撃する方法といったら、本当に残忍極まりないものなんだ。中でも忘れられないのがラジオ爆弾……。シーク教徒過激派が、バス停や、公園とかの人目に付きやすい公共の場のあちこちに、爆弾をしかけたラジオを設置したんだ。

何もしらない、貧民層の子供たちは、新しいラジオを見つけて、大喜びでみんな駆け寄るんだよ。彼らにとって、ラジオが唯一の、大切な娯楽であり情報源でもあるんだ。テレビなんて買えないしね。

それなのに、スイッチを入れた瞬間、音楽が流れてくるかわりに、ラジオが爆発するんだ。どう思う? 何の罪もない子供たちが、一瞬にして死んだり、身体の一部を失ったりするんだよ。そう言う風に、人は人を殺せるんだよ」

「彼らの戦略は、いつも、シンプルで洗練されていて、確実だから怖いんだ。いったい彼らはどこでトレーニングをしたんだと思う? いったい誰が、彼らにAK47カラシニコフなんていうマシンガンや爆弾を供給したと思う? いったい誰が、彼らに資金を与えたと思う? 彼らは残虐行為をやったあと、いったいどこに避難したと思う?

テロリストたちを鼓舞し、武器を供給しているのは、パキスタンという影武者なんだよ。具体的に言えば、CIAやKGBに相当するISIと呼ばれる組織なんだ。だから、ぼくはどうしたって、パキスタンを許せない」

夫はインド人として、パキスタンという「国家」を嫌悪し、憎んでいる。その一方で、アメリカに暮らす彼には、パキスタン人の親しい同僚がいる。何かと弁が立ち、攻撃的にビジネスを展開するアメリカ人の同僚とよりも、気心が知れ、話していても落ち着くらしいのだ。当然のことながら、国家イコール国民ではないことぐらい、夫も承知している。

だから、タクシーの運転手が、インド人であれ、パキスタン人であれ、出身地が近いというだけで、夫は親近感を覚えたのだろう。二人はわずか十分ほどの間だったが、絶え間なく楽しげに話し続けていた。

目的地に到着し、夫が料金を払おうとすると、運転手は後部座席の方に振り返り、微笑みながら手を横に振って言った。

「いらないよ。楽しかったから」

「えっ? だめだよ。受け取ってくれよ」

お札を渡そうとする夫を制し、結局、運転手はお金を受け取らなかった。そして黄色いタクシーは、赤いライトを光らせながら、夕闇の中に溶けていった。

「ねえ、何を話してたの?」

「別に大した話じゃないんだよ……。どの町が出身なのかとか、ニューヨークに来て何年たつのかとか、家族はどうしているのかとか、そんな話。家族はパキスタンにいて、彼は一人で来てるみたいだった。だから、ちょっと寂しそうな感じだった」

「彼、お金、受け取らなかったね。きっと、故郷の話ができて、うれしかったんだよ」

「うん。なんだか悪いことした気もするけど、うれしそうだったから、いいよね」

国家も、宗教も超えて、話したい人と話せる。関わりたい人と関わり合える。出会いたい人と出会える。それもごく自然に。それが、マンハッタンという街なのだ。

(3/30/2004) Copyright: Miho Sakata Malhan

 


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