坂田マルハン美穂のDC&NY通信

Vol. 115 4/12/2004 


今年も、ワシントンDCに、桜が咲いた。

小畑澄子さんの体調は、年末から芳しくなかった。いつも前向きだった彼女が初めて、

「もう、万策が尽きたって感じ。正直言って、ちょっと怖い」

と、言った。けれど、わたしたちは、今まで通り、楽しいことばかりを話した。

彼女とわたしが出会ったのは、1996年の夏。わたしが渡米して間もない時期、1年ほど勤めてた日系出版社の、彼女は同僚だった。

当時のわたしたちはさほど親しくもなく、だから彼女が夫ケブンの仕事の都合で一時期ダラスに移転していたときも、連絡を取り合うほどの仲ではなかった。

わたしがミューズ・パブリッシングを興して独立し、彼女がダラスから戻り翻訳会社に勤め始めたころから、共通の友人らを交えて数カ月に一度、食事をするようになった。

彼女とわたしは、同じ歳で、文章の書き手であり、学生時代にバスケットボールをやっていた、ということ以外に、ほとんど共通点はない。

彼女は子供のころからアントニオ猪木の大ファンで、格闘技が好きだ。それからフットボールの試合も大好きで、男友達とスポーツバーで観戦することを楽しんでいた。一人でラスベガスを旅行して、ギャンブルに熱中したという話しもよく聞かされた。

何を聞いても「あ、そう……」としか返せない話題だった。一方、

「ねえねえ、坂田さん、ルイ・ヴィトンって、何?」

「ティラミスって、何?」

そんなことを尋ねる浮世離れしたところもあった。食事に頓着せず、何を食べに行っても「おいしい!」と喜んで食べた。スリムだったけれど食欲は旺盛で、そしてよく飲んだ。お酒はすごく強かった。

共通点が少なかったにも関わらず、会話は尽きなかった。わたしはなにか通じ合うものを、彼女には感じていた。思ったことをはっきりと言い、さっぱりとした性格で、努力家だ。勉強や仕事に一生懸命で、新聞を読むことが大好きだった。彼女には、一言では表現しがたい、独特の個性があった。

その彼女の魅力を知るきっかけになったのは、2000年夏、『ミューズ・ニューヨーク』の「国際結婚をした日本人女性」という連載で、彼女のことを取材したときのことだ。

小畑さんは高校卒業後、英語学校に通う傍らアルバイトで資金を貯め、24歳のとき渡米した。ニューヨーク州立大学に在学中、のちに伴侶となるケブンと知り合う。彼はニューヨーク生まれのユダヤ系アメリカ人で、ジャーナリストでもある。

その後、小畑さんはコロンビア大学の大学院を出たあと、マンハッタンの日系出版社に編集者として就職した。新聞を読むのが大好きな彼女は、『料理をしている時間があれば、新聞を読め』という彼の言葉を聞いたとき、この人となら一緒にやっていけると思った、という。

ダウンタウンの日本料理店で寿司を食べ、ビールを飲みながら、彼女はいいことも悪いことも、まったく頓着することなく話してくれた。

「ケブンは議論好きで、よく喧嘩になるのよ〜。激激激口論も、何度もやった。ああいうときって、この男が世界で一番憎いって思うのよね〜」

「わかるわかるその気持ち。かわいさ余って憎さ100倍よね」

彼女の英語力はわたしよりも遥かに上だか、それでも

「やっぱり英語でウワッーッと言いくるめられると負けるから悔しいよね。日本語で勝負したいよね」

わたしたちは、悔しさを分かち合った。

そして最後に言った。

「坂田さん。あなたが好きなように、何を書いてくれてもいいから」

この言葉は、以降何度も、彼女から聞くことになる。彼女のことを書く機会があるたび、わたしは尋ね、彼女は同じように答えた。今まで何人もの人々を取材してきたけれど、そんなことを言う人は、彼女だけだった。わたしは、この取材以来、彼女を尊敬すべき友人として一目置いていたのだった。

とはいえ、それ以降も数カ月に一度、顔を合わせる程度で、あとは仕事を通して翻訳の仕事を何度か頼んだりするくらいの付き合いだった。ただ、彼女はわたしの文章を愛読してくれ、ホームページやメールマガジンの感想をときどき送ってくれた。そんな彼女の律儀さを、当時は意外に思ったものだ。

文章での彼女は、実際の口調よりも丁寧でやさしく、必ず励ましや同感を添える気遣いがあった。

   *   *   *

2001年9月。テロの直後、ワシントンDCからニューヨークに戻り、精神的に混乱していたある朝。共通の友人Nさんから電話があった。小畑さんが、がんの手術のため入院したとの知らせだった。身体の変調に気づいて病院に行ったところ、末期の結腸がんであることがわかったのだという。

電話を切った後、わたしは放心状態になった。何にも手に付かず、外に飛び出した。街を、ひたすら歩いた。歩きながら、人の生き死にのこと、自分の来し方行く末を、とめどなく考えた。もう、何が何だか、訳がわからなくなっていた。その日のわたしには、世界中が悲劇に満ちているとしか思えなかった。

その夜、わたしはニューヨークを離れ、A男の住むワシントンDCに移ることを決意した。A男に何度も懇願されて、そのたびに大喧嘩になっても、わたしはニューヨークを離れないと主張してきた。しかしその主張が、最早、さほど重大なことに思えなかった。A男との生活を、優先順位の上位に選んだのだった。

ニューヨークを離れる前、わたしは何度か小畑さんを見舞った。大手術をしたにも関わらず、驚くほどの回復力で、彼女は日常生活に戻っていた。

わたしは、自分の父がその1年前に肺がんを発症したのをきっかけに、がんに関してさまざまに調べていたので、彼女に少しでも役に立つ情報があればと思い、これはと思うものを選んで、彼女に知らせた。

彼女が退院して間もない頃、彼女の家へ、お見舞いに訪れた。少し緊張した心持ちでドアを開けると、思っていた以上に顔色がよく、元気な声の彼女が出迎えてくれた。彼女が敬愛するアントニオ猪木の顔が大きくプリントされたTシャツを着ている。部屋には千羽鶴が飾られ、「闘魂!」と大きく書かれたリボンが添えられていた。

彼女はその夜、手術に至るまでの経緯をゆっくりと話してくれた。彼女はそれまで、タバコを吸い、お酒を飲み、食生活もデリバリーの外食中心で、「栄養のバランスなんて考えたこともなかった」というくらい健康に無頓着な生活をしていた。その分、彼女の情熱は、仕事や趣味に傾けられていた。

そもそも身体が強かったこともあり、きついときにもかなり無理をしていたようだ。病院に行くのも、薬を飲むもの嫌いで、体調が悪いときも、極力、薬を避けて気力で治してきたという。

だから、9月に入ってまもなく、少しずつお腹が張ってきたときには「どうしたんだろう」と思う程度で深刻に考えなかった。妊娠していないことはわかっていたから、おかしいと思ったものの、日増しに腹部が膨らんでいく。しかし痛みはない。食欲もあるし便通もいつも通りだった。

あとから気づいたことと言えば、その前月に生理が2回あったということくらいで、それ以外は、がんを患っているなどと思わせる予兆は全くなかったという。彼女の身体の異常に気づいたケブンから「とにかくすぐに病院に行って来い」と言われ、ひどく忙しい最中だったにも関わらず、時間を見つけてしぶしぶ病院へ行った。お腹の張りが気になりだしてから2週間目のことだ。

最初に訪れた大病院で、即刻、詳しい検査を促される。「今日は忙しいからこの次に……」という彼女を、ドクターは厳しい口調でたしなめ、事態の深刻さを告げた。結局、その日のうちに検査を受け、思いもよらなかった結果を聞くこととなる。

ドクターいわく、お腹の膨らみは腫瘍によるもので、すぐにも手術が必要だとのこと。心の準備もなにもない、面と向かっての告知である。まさか自分ががんであるなどとは予想もしていなかったから、たいへんな衝撃だった。とはいえ、まだそのときは、ドクターの言葉が本当なのか、半信半疑だった。

セカンド・オピニオンを得た方がいいだろうと、その直後にケブンと2人でメモリアル・スローン・ケタリングというがん専門の大病院を訪れた。やはり腫瘍に間違いなかった。そして数日後に手術を受けた。

施術したドクターに、

「君のお腹にはフットボールとバスケットボールほどの大きい腫瘍があった」

と言われた。

手術の際、いくつかの臓器とその一部を切除した。転移しているがんについては、通院しながらキモセラピー(抗がん剤による化学療法)により治療することになった。

日本では、抗がん剤を投与されているがん患者は、継続的に病院に入院するが、米国は医療費が高いためか、あるいは根本的にシステムが違うのか、手術を終えた患者は即退院する。外科内科手術、いずれの入院期間も日本のそれより著しく短い。出産の際も、特に異常がなければ、翌日か翌々日には退院させられるという。

従って、キモセラピーもまた、通院して受けるのが一般的だ。また白血球を上げるための定期的な注射は、本人が自宅で打つように指導される。

「わたし、日本にいたら、ずっと入院させられる状況なんだよね。とてもじゃないけど、耐えられない。考えただけで気が滅入ってくる」

副作用があり、体調の悪い日はあるものの、彼女はそれまで通り会社へも通勤していた。米国の、明るく清潔感にあふれた病院にですら、彼女はいられないというのだから、暗くてどんよりした古い病棟の、6人部屋に入院していた父が、どれほど憂鬱だったか、察せられる。

「今回、病気になったことでね、ほんっとに思ったんだけど……。こんなに家族とか友達がありがたいものとは、思わなかった」

思いを込めた口調で小畑さんはそういいながら、いくつかのノートやメモを私に示してくれた。彼女のお母さんが、「健康にいい料理」のレシピを書き連ねた、それは手書きのノートだった。表紙に「すみ子」と大書きされている。

キッチンの壁には、彼女のお姉さんによる「食のアドバイス」が貼られている。がんにいい食べ物やその効能など、一つ一つにお姉さんからのコメントが添えられている。小畑さんの姪の絵も壁にある。

手術後、家族が日本から来た折に、キッチン用品や調味料も買いそろえてくれたという。

「今までは塩とこしょうと醤油しかなかったんだけど、今はみりんも味噌もあるのよ!」

笑いながら彼女は言った。

「私が料理をするなんて、ほんと信じられない」

そう言いながら、その日彼女は、訪れたわたしたち友人のために、讃岐うどんをゆでてくれ、麻婆豆腐を作ってくれた。できあいの「麻婆豆腐の素」を使うのじゃなく、ちゃんと一から作ってくれたのだ。とてもおいしかった。

やがてケブンが帰ってきた。

「ハグしないの? ハグ? キスは〜?」

不躾なことを言って冷やかすわたしに、

「もう、ちょっとやめてよ〜。わたし、そういうの、全然、苦手なんだから」

と小畑さんは言う。

ケブンは部屋に入るなり、彼女に紙袋を手渡した。中にはきれいな色のスカーフが3枚入っていた。副作用で髪が抜け始めた彼女へのお土産だった。

その日わたしは初めて、ケブンとゆっくり話した。彼らは互いに互いの仕事を尊重し、いわば「同志」のような絆を持つ二人だが、今回のことで、彼が相当に、彼女のことに心を砕いていることが、察せられた。

人の生命力というのは、医学的な側面だけからは推測することができない、さまざまな要素が絡み合って、決定づけられるものではないかと思う。なにしろ「笑うこと」が、がん細胞の増加を阻むというデータもあるくらいなのだから。父だって、発病した直後は、ドクターから「2年以上生存する確率は限りなくゼロ」だと言われた。けれど、父は負けるもんかと、4年経った今も闘い続けている。

小畑さんのことだから、徐々に生活の在り方を改善し、自分なりにうまく病と向き合いながら、これからも生き生きと暮らしていくのだろう。わたしは、そう信じた。

   *   *   *

2002年1月。わたしはワシントンDCに移った。それからは、ニューヨークに行くたびに他の友人も交えて彼女に会った。むしろ、ニューヨークにいたころよりも、頻繁に合うようになっていた。

しかし、彼女のがんは容赦なく、その春、小脳にまでも転移した。手術は幸いうまくいき、がんを切除することに成功した。ホルモン剤の副作用で、顔が丸く太ったことを気にしていたけれど、7月15日の誕生日の翌日、彼女は元気そうな顔で約束のレストランに現れた。

食欲も旺盛で、本当に手術をしたばかりだとは思えないほど元気そうだった。

「ねえねえ、昨日、ケブンがどこに連れていってくれたと思う? なだ万よ、なだ万! わたしもう、びっくりしちゃった」

普段は二人で外食をすることなどまったくないと彼女は常々言っていた。そんな彼が、彼女の誕生日を祝って、日系ホテルにある高級日本食レストランに予約を入れて置いてくれたのだという。

「わたしが病気になってから、気味が悪いくらいやさしいんだよね〜」

そう言いながらも、彼女はとてもうれしそうだった。

がんは、発症以来、常に彼女の身体のなかにあった。だから、次々に、新しい薬を試した。抗がん剤は数回投与すると、身体に免疫ができるため、効果がなくなってしまう。まるでいたちごっこのような治療法なのだ。次々に襲いかかる副作用にも耐え、彼女は普通通りの生活を続けた。

「わたし、スローン・ケタリングの結腸がんの患者の中で、2番の成績って言われたの。わたしよりがんばってる男性がいるらしいのよ〜。悔しいわ」

彼女は冗談交じりでそう言った。スローン・ケタリングとは、米国で最も優れたがん専門の大病院で、数多くの患者を抱えている。

彼女はわたしのホームページを、いつも隅々まで読んでくれていた。そして、わたしが日記に記す、A男のボケネタをこよなく愛していた。

「昨日の日記には笑わせてもらったわ」

彼女は律儀に、電子メールで感想を送ってくれるのだった。

また、わたしが綴る大ざっぱな「食の記録」を読んでは、

「私みたいに案の浮かばない人間にとって、とても参考になります。ありがとう」

「今度、あのワッフルミックスの素、探してみたいと思っている」

と、コメントが届くのだった。

わたしが『街の灯』を出版したとき、彼女は真っ先に感想を送ってきてくれた。心に残った一話一話に対し、自分の感想を盛り込んだ、やはり丁寧なメールだった。

2003年春。ちょうど桜の花が満開のころ、小畑さんはワシントンDCにやって来た。運転が好きな彼女は、自分の四輪駆動車に乗って、マンハッタンから4時間かけて来た。

訪問の目的は、DCで行われる結腸がんのカンファレンスに出席することだったが、滞在中は我が家に泊まり、週末は郊外に一泊旅行をする予定でいた。

わたしたちは、タイダル・ベイスンの桜を見に行った。長生きしている桜の木から「気」をもらおうと、二人で大木にしがみついたりもした。一年のうちで、この街が一番美しい数日間を、彼女と過ごせたことは、真にうれしいことだった。

週末には、アパラチアン山脈のふもと、シェナンドア渓谷にある温泉宿を目指して、彼女の車でドライブした。青空が広がる、天気のいい午後だった。この宿は、米国人男性と日本人女性が経営しており、美しい山並みを見晴す日本的な展望風呂があるのだ。

心地よい温泉に浸かり、浴衣を着て、夜更けまでワインを飲みつつ、おやつを食べつつ、語り合った。

翌朝は、和風の朝食が用意されていた。清らかな湧き水で作られた味噌汁、サーモンのグリル、切り干し大根やヒジキの煮付け、新鮮な卵での卵かけごはん……。二人して、朝からたっぷりとご飯を食べた。

この次は、夫たちを連れてこようね。Cさん(小畑さんの親しい友人)と彼女のボーイフレンドも誘おうよ。できれば夏がいいね。バーベキューをしようね。わたしたちは約束した。

しかし、その直後、再び脳にがんが転移していることがわかり、またもや手術をせねばならなくなった。

6月には、わたしたちの共通の友人Nさんが、フランスで結婚式を挙げることになっていて、小畑さんは出席する予定だった。Nさんと小畑さんは翻訳会社の同僚で、二人はとても仲が良かったのだ。

彼女は、フランスに行けなかったことを、本当に悔しがっていた。

「プレゼントも買ったのに。Nちゃんのウエディング姿を見たかった……」

彼女は何度も言った。

インド人一家が来るため、そもそもから出席できなかったわたしに、

「今度、秋ごろになったら、一緒にフランスに行こうよ」

と、彼女は言った。

夏が過ぎて、秋になっても、彼女の体調は思わしくなかった。がんによる痛みが彼女の身体を襲い、けれど、それでも、彼女は会社にも行って仕事をしていた。

「病気になって初めて、お先まっくら状態。でも、どうしても負けたくないから、闘魂と気合いでがんばるぞ!」

そんなメールが届いた。

   *   *   *

彼女と最後に食事をしたのは、わたしが学校に通い始める直前にニューヨークへ行った、去年の夏のことだ。

ミッドタウンの寿司屋のカウンターで、わたしたちは、食べて、語った。彼女は、インド人一家が訪れたときのエピソードを聞きたがり、聞くたびに笑い、笑う度に

「笑うと、お腹のがんが痛いから、笑わせないで」

といいながら、笑った。

わたしは、本で読んだ「霊気」の方法に従い、彼女に気を送ったりした。彼女はそういう非科学的なことを一切信じない人だったけれど、わたしが彼女の背中に両手を当てると、

「うわあ、気持ちいい。あなたの手、すごく熱く感じる。その手、持って帰りたい」

と言った。

わたしは、彼女が病気だから、わたしが彼女に同情したり、親切なのだと思われるのがいやだった。わたしは彼女の人柄に惚れていて、その彼女が病に直面しているのを、ただ、見過ごすことはできなかった。

でも、わたしにせよ、多分彼女にせよ、粘着的な付き合いをするタイプでもなかったから、いくら心配でも、一定の距離をおいておくのがいいだろうとも思った。

去年の年末あたりから、彼女の病状は悪化していた。わたしがインドに行く前も、最近はかなり調子が悪いとのメールが届いた。それでも彼女は、わたしのホームページを読んでるわよ、と感想を添えることを忘れなかった。

わたしはだんだん、せっぱ詰まった気持ちになっていた。何かをせずにはいられなかった。インドの旅先からは、ホームページのかわりに、彼女にたくさんの絵はがきを送った。

「ほんっと、いつもごめんね〜。わたしがしてもらうばっかりで。ありがとう」

わたしは、してあげているわけじゃない。彼女は、わたしに色々な、目に見えない大切なことを気づかせてくれている、わたしは目に見えることをしているだけだ。わたしはそのことを、うまく彼女に伝えることができていただろうか。

わたしが何かをすることで、むしろ彼女が気を遣うことになってもいけないと思った。けれど、何かをせずにはいられなかった。

彼女は、わたしと電話をするとき、必ずわたしの父の病状を尋ねた。それはここ数年の、彼女の変わらぬ姿勢だった。彼女の方が多分父よりも、かなり病状が悪いのに、

入退院を繰り返している父を察し、

「日本は入院しなきゃだめだからたいへんよね」

と父を案じてくれた。

父が再発するたび、

「わたしの場合は、再発もなにも、ずーっとがんが身体の中にある状態でも元気なんだから、お父さまにも大丈夫だってお伝えしてね」

と、励ましてくれた。

今年に入ってから、小畑さんの調子が著しく悪くなり、一時、入院した。コンピュータに向かっていられなくなったと連絡があった。

「今回はしばらく会社を休んで、治療に専念しようと思う」と彼女は言った。

「もうすぐ別の新薬が承認されるから、それに賭けてみる」とも言った。

ある日、ケブンから、彼女が入院したとのメールが届いた。1月27日、マンハッタンに雪が舞い降る日、わたしは彼女の病院を見舞った。

わたしが訪れたとき、彼女は一日で一番調子のいい時間だったらしく、モルヒネの点滴を受けていながらも、いつもとほとんど変わらない知的で快活な口調で、自分の状況を客観的に語り、互いの近況を報告しあった。

わたしがインド移住を目論んでいることを語ると、がんばってねと励ましてくれた。彼女のがんは、もう全身に転移していて、歩くのさえ辛い状況だったけれど、それでも食事をしっかり取り、読書をし、自分の病状を客観的に捉えて、なんとしても生き延びようと、その方策を考えていた。

彼女のベッドの傍らで休憩しているケブンが痛々しかった。

わたしがインド旅日記をホームページに載せたから印刷して送るよ、と言ったら、

「元気になったら、コンピュータで自力で読むから、送らないで!」と返した。

ワシントンDCに戻ってきたら、小畑さんからお見舞いのお礼の電話が入っていた。メッセージの最後に彼女はこう言った。

「今日のニューヨークタイムズにインドの記事が出てたんだけど、そこにすごくきれいなインド人女性たちの写真が載ってたのよ。あなた、インドに行くのはいいけど、こんなきれいな人たちとコンピート(張り合う)しなきゃならないなんて、たいへんね〜。がんばってね。また電話します」

彼女が自宅療養に入ってからは、しばしば連絡を取り合うようになった。彼女は、今回だけは、かなり堪えていると、今まで口にしなかった悲観的なことを言った。わたしはそういうとき、何を言えばいいのかわからなくて、

「春になったら、きっと調子が良くなるよ」

などと、気休めのようなことしか言えなかった。もうすぐ春が来るから。冬が過ぎたら、きっと体調もよくなるだろうから、また一緒に桜を見に行こう、そして温泉に行こう。

彼女は、いつも、周りに気を遣っていた。日本の家族を心配させることを悔やみ、ケブンに迷惑をかけていると悔やんだ。わたしのせいで、彼が自分のやりたいことをできなくなるのは申し訳ないと言った。わたしは大丈夫だから、仕事なり遊びなり、行ってほしいのだとも言った。

同時に、彼女を献身的に世話をするケブンに、深い感謝と愛を感じていることが察せられた。

ケブンはとても繊細で難しい人で、家族との折り合いも悪くて、彼をわかってあげられる真の友達はわたししかいないから、わたしがいなくなるわけにはいかないのだ、と、いつも彼女は言った。

わたしは、弱音も吐かず、周りのことを第一に考える彼女の人間性に、心底、頭の下がる思いだった。どうして、彼女はこんなに毅然としていられるのだろう。

2月の下旬だったか、わたしは自分が診てもらった医者の心ない言葉に憤った旨を話した。すると彼女は言った。彼女も、つい最近、スローン・ケタリングのドクターに、ひどいことを言われたのだと。どんなことでもあっけらかんと話す彼女が、

「ごめん。内容は、今はちょっと話せる心境じゃない」

と言った。

彼女は、色々な事柄と闘っているのだと言うことを改めて知った。

2月中旬。わたしがA男と、週末、温泉に行くことを知ると、

「ああ、わたしも行きたい! 絶対に一緒に行こうね」と彼女は力強く言った。

2月末、A男の出張に伴って出かけたロスのホテルのカフェから電話をしたときも、

「あなた、いいご身分ね〜。うらやましいわ〜。5分でも10分でもいいから、今のあなたの時間を、わたしにちょうだい!」笑いながら、彼女はそう言った。

わたしは本当に、わたしのこの穏やかな時間を、彼女に分けてあげたかった。

わたしたちは、いつも新しい抗がん剤など新薬の話や、代替治療についての話しもした。鍼やリフレクソロジーが痛みを緩和することもあるからと、最近はセラピストに来てもらっているとも言っていた。

今年に入ってから会社に一度も行っておらず、有給休暇をもらっていることに罪悪感をも覚えていた。

「あなたは今まで、どんなにきつくても会社に行って、会社に貢献してきたんだから、本当に辛いときくらい、仕事のことは忘れて、自分が休憩することに専念した方がいいわよ。ともかく、無理をしないで」

無理をしないで。ゆっくりして。おいしいものを食べて。また遊びに行こう。

同じような台詞を、話の合間に、何度も繰り返した。わたしは彼女に、もはや何を言っていいのか、わからなかった。

そのころから、近くに住んでいる友人のCさんに、夕食を作ってもらうことを頼んでいた。

「Cは、ああ見えても、家庭的で料理がうまいのよ。すごく助かってる」

年下の友人Cさんのことを、まるで妹のことを話すみたいに、彼女は話してくれた。自分とはまったく異なるタイプの性格なのに、とても気が合うのだ、とも言った。

小畑さんにはまた、仕事を通して出会ったという友人Tさんがいた。彼女はボルチモアに住む人で、実際二人は会ったことがなかったのだが、電話やメールのやりとりをよくしていたらしい。

Tさんが、常々小畑さんのことを気にかけ、メールやファックスを送ったり、郵便で彼女が興味を持つような記事を送ったり、生活に便利そうな何かを送ったり、ともかく、本当にこまやかに彼女のことを気にかけてくれているのだと感謝していた。

「わたし、Tさんとは、会ったことがないけれど、わたしたちにとって天使みたいな人だねってケブンと話してたんだよ」

Tさんとわたしは面識はなかったが、あるとき電話で話す機会があった。小畑さんは、彼女には、わたしには話さなかった不安を、伝えているようだった。

「わたしとは会ったことがないから、むしろ本音をいいやすいのかもしれません」

Tさんは言った。

Tさんの話を聞いて、わたしは少し安心した。いつもいつも、周りを気にするばかりで決して弱音を吐かなかった小畑さんが、いったい、心の苦しみをどうやって吐き出していたのだろうと、そのことがとても気になっていたからだ。

わたしはだから今まで通り、「もしも」の話はせず、明るく楽しい、前向きな話だけをしていようと思った。

3月9日。ボストンから電話をしたとき、彼女は、ホスピス治療に入ったと言った。ホスピス治療に入ったけれど、わたしはまだ、諦めてないから、とも言った。この間認可されたばかりの、新しい抗がん剤を使える可能性があるかもしれない、とも言った。

最早、コンピュータに向かえない彼女に、わたしは膨大なインド旅日記を、写真も見られるようカラープリントして郵送していた。

「インド旅日記を、今少しずつ読んでいるよ、楽しんでるわ。ありがとう」

一気に読むのは疲れるってこともあるけれど、でもすぐに読み終わるのはつまらないから、ゆっくり読んでいるのだ、と彼女は言った。

彼女は、自宅と病院を行き来してのホスピス治療を始めた。

それからは、電話を控え、ファックスを送るだけにした。

3月16日。その日、どうしても気になって電話をした。電話にはケブンが出た。

「彼女の具合が悪ければ、かわらなくていいから」

わたしはそう言ったが、ケブンは、

「大丈夫。今、Sumi、起きてるから」

と言って、電話をかわった。でも、多分彼女はかなり調子が悪かったのだろう、

「ごめん。あとでコールバックするね」

そう言った。それが、わたしが聞いた、小畑さんの最後の声だった。

もう、彼女とは電話をできないかもしれない。わたしが電話をしたところで、何もできないことは、わかっていた。周りには手伝ってくれる人もいるだろうし、わたしが遠くから案じたところで力になることはできない。

その後、小畑さんを見舞った共通の友人から、彼女が痛みにさいなまれ、覚醒している時間が短くなっているとのことを、聞いた。

どんなに痛みにさいなまれていても、小畑さんも、ケブンも、少しでも長く、一緒にいたいと思っているに違いないのだと思うと、やりきれなかった。

一方、わたしの父の肺がんもまた、年末あたりから活動を再開していた。病院からは即入院し、また抗がん剤治療を受けるように勧められた。父は身体の健康な細胞までも破壊してしまう抗がん剤の治療を拒否し、東洋医学や民間医療を融合した統合治療を施してくれるクリニックに通い始めた。

そのうちにも、がんは父の身体を攻撃し、3月に入ってからは、父は高熱と猛烈な咳とで、著しく体力を落としていた。電話をするたび、母の声の向こうで、父が激しく咳込むのが聞こえる。電話越しで聞いているだけでも胸が迫るのに、朝から晩まで、咳こむ声を聞き続けている母の心労を思った。離れていると、何もできない。

   *   *   *

そして3月末。春が来て、町の至るところで桜が次々に開いた。タイダル・ベイスンの桜を見ても、カテドラルの桜を見ても、去年、小畑さんとここに来たことを思い出した。一緒に見られないことが残念でならなかった。

そして4月6日。わたしは久しぶりに集中して長い原稿を書いたせいか、全身が凝っていたので、近所に住む指圧・マッサージの日本人セラピストのところへ電話をした。あいにくその日は予約がいっぱいだったのだが、午後になりキャンセルが出たとの電話が入り、わたしは出かけた。

青空が澄み渡る、少し肌寒い夕暮れ時。早めに家を出て、散り始めた桜を眺めつつ、再来週にはインド旅行だというのに、なぜかやるせない気持ちでゆっくりと散歩しながら、彼女の家に向かう途中のことだ。

このあたりは緑の広々とした芝生の空き地や庭が点在し、いつもリスたちが走り回っている。リスは普通、人間が近寄ると一目散に逃げるのだが、ある一匹のリスだけが、木の実を食べながらわたしの方をじっと見ている。

わたしがどんどん近づいていっても、逃げようともしない。逃げようともしないどころか、わたしに近づいてくる。このあたりのリスは木の実が潤沢にあり、人間に餌を請う必要はない。第一、そのリスは、食事中だったのだ。

なのに、わたしの足許まで来ると、立ち止まったわたしの周りをクルクルと回り、じっとこちらを見つめている。わたしはカメラを持ち歩いていて、どんな動物もたいてい、カメラに気づくと慌てて逃げるのに、そのリスはむしろ、写真を撮られることを好んでいるかのように、カメラ目線さえ送ってきた。

いつまでたっても逃げようとしないので、変なリス、と思いながら、わたしは歩き始めたのだが、リスはわたしの方をみて、じっと立ちすくみ、いつまでも見送ってくれている。何度か振り返っても、まだ立ち上がったまま、こちらを見ている。

わたしはその健気な愛らしい姿に不思議な思いで、

「バイバイ!」とリスに向かって手を振りながら声をかけたのだった。

   *   *   *

その翌日。わたしは朝から、小畑さんのことが気になって気になって仕方なかった。でも、ケブンに直接電話をするのは怖かった。午後になり、しかし、胸騒ぎを抑えることができず、仕事に集中できない。もしかして、という気がしてならない。

わたしはCさんの携帯に電話をした。Cさんはすぐに電話に出た。彼女の声は硬直していた。彼女はつい、数時間前に、その知らせを受けたという。

小畑さんが今日、4月7日の早朝3時に、息を引き取ったと。

わたしは呆然としながら、虫の知らせって、ほんとうにあるんだ。と思った。

わたしは、何にも手を付けることができず、コンピュータに向かった。そして、今まで彼女から届いたたくさんのメールを、一つずつ開いて、一つずつ、読んだ。こうして読み返すと、改めて、彼女の大らかな性格の裏にある、律儀さ、繊細さ、思いやりが、感じ取れた。

夕方になって、小畑さんのためにキャンドルに灯をともし、白檀のお線香を焚いた。

やがてA男が帰宅し、玄関のドアを開け、キャンドルを見るなり、言った。

「わお! ロマンティック!」

このボケを、小畑さんに聞かせたいと思った。

数時間後、日本の母から電話があった。久しぶりに晴れ晴れとした声だった。

父が今朝は、約一カ月ぶりに、咳をせず、静かに、穏やかに、目覚めたというのだ。こんなに気分のいい朝を迎えられたのは本当に久しぶりだから、美穂にも伝えようと思って電話をしたのだと言ってくれた。

わたしは小畑さんのことを母には言えず、よかったね、と言って、電話を切った。翌日、父はクリニックに行き、「峠を越しましたね」と言われたという。

4月7日。奇しくも去年のその日、わたしは小畑さんと共に過ごし、桜を見た。

わたしは、彼女がどこかに行ってしまう前に、このワシントンDCにも立ち寄ってくれたのではないかと思う。必ず行くから、と彼女は言っていたから、散る間際の、日本から来た桜を見に来たのだと思う。

これを言うと、A男は哀れむような顔をして、「それはないと思うよ」とわたしを諫めたけれど、自分でもそれは単なる偶然だとは思うけれど、笑われるのを承知で、でも、敢えて書く。

あの日、小畑さんはリスに姿を借りて、わたしのところにもお別れを言いに来てくれたのではないだろうかと。

そして、アメリカ大陸を横切って、太平洋を横断して、日本に帰って、ひょっとすると福岡にも立ち寄って、わたしの父のところに「魔法の粉」をパラパラと振りかけてくれたのかもしれないと。

そんなことはこじつけだということも、自己満足な思いこみだということもわかっている。ただ、彼女は律儀な人だから、そうやって、自分と関わりのあった人たちのもとに、何かをもたらして、去っていったのに違いないと、わたしは思いたいのだ。

短い付き合いだったにも関わらず、しばしば顔を合わせていたわけではなかったにも関わらず、次々に思い出があふれてきて、この文章も、いつまでも終わらない。

ケブンや日本のご家族の心中を想像するに、胸が押しつぶされる思いだ。

わたしの悲しみは、彼らの悲しみの比ではない。

そして小畑さん自身が、いかに無念だったか。それを思うと、言葉がない。

「坂田さん。あなたが好きなように、何を書いてくれてもいいから」

彼女の言葉を受けて、だから今日、わたしはこうして、心おきなく、彼女のことを書かせてもらった。

彼女から学んだことは、今、ここで書けるようなささやかなものではない。

小畑澄子さん、いろいろと、ありがとう。


2000年 インタビュー記事

2003年 春

 


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