坂田マルハン美穂のDC&NY通信

Vol. 118 7/10/2004 


日本からワシントンDCに戻ってきて、早くも3週間が過ぎました。前回のメールマガジンに対し、多くの方々から心のこもったメッセージをいただきました。本当にありがたく、拝見しました。

このたびメールをいただいた方には、すべてお返事をお送りしたつもりですが、電子メールは100%確実ではないので、ひょっとするとお手元に届いていない方もあるかと思います。つきましては改めて、ここでお礼を申し上げます。ありがとうございました。

4月に友人が亡くなり、5月に父が亡くなり、実は6月末には母方の祖母が亡くなり……と、わたしの周囲ではこの3カ月、訃報連発でした。ですからもうしばらくは、このような知らせとは無縁でありたいと願っています。

思えば今年の年頭、「今年は身軽に」などと目標を掲げたことが、妙な形で実現されました。非常に身軽に、あちこちを飛び回ってばかりの上半期だったように思います。『muse DC』を思い切って廃刊にしておいてよかったとも思いました。

今年の後半もまた、前半に引き続き、A男の出張同行をはじめ、またしてもインド旅行その他、あちこち出かけることになりそうです。落ち着きがないと言えば落ち着きがないけれど、今は「動いて経験する」ことに重点を置いた生活を送ってみようと思います。

先週の独立記念日の連休は、半年ぶりにマンハッタンへ行きました。A男も一緒です。彼と一緒に出かけるのは、およそ一年ぶりのこと。今回は3泊4日の連日、好天に恵まれたので、ひたすら散歩しました。

今日は、なんだか何を書いたらいいのやら、頭がまとまらないので、思いつくままバラバラと、書いてみようと思います。ホームページの「片隅の風景」に書いていることや日記などからも抜粋するので、すでにお読みの方は、その旨ご了承ください。

 

●ワシントンDCで観る、『Fahrenheit(華氏)911』

2週間前の土曜日のこと。封切り前の日本でも話題になっている映画『Fahrenheit 911』を見に行こうと、午後4時頃、A男と二人でジョージタウンのLoews Theatreへ行った。数年前にできたばかりの大きな劇場だ。

『Fahrenheit 911』はマイケル・ムーアという米国人監督による、主にはブッシュ政権批判の映画だ。先日、カンヌでパルムドール賞を受賞してもいるから、内容についてご存じの方もあるだろう。

さて、劇場に到着したわたしたちは、上映時刻を示す電光掲示板を見て驚いた。その映画は、1時間に数本ずつ上映されているにもかかわらず、夜10時50分の回まで全て完売だったのだ。

これまで、わたしの知る限りにおいて、この映画館で、どんな人気の映画でも、予約せずに見られていた。ニューヨークならば、売り切れはしょっちゅうあったことだが……。

10時50分はあまりに遅すぎるから、明日、予約をして改めて来ようと諦めて、ポトマック川に面したハーバーに出た。たまたま出発前の「遊覧船」に乗ってクルージングを楽しむことにする。大人10ドルで1時間近くの遊覧は、なかなかに気分がよく、楽しいものだった。

さて、船を下りた後、トイレを拝借しに映画館に寄ったら、『Fahrenheit 911』が追加上映されていて、10時からの分があった。50分しか違わないけれど、やっぱり今日、観ることにしようとチケットを購入する。

その後、C&O運河を散歩して、それから「ピッツェリア・パラディソ」という店で夕食をとる。生ハムの盛り合わせとサラダを前菜に、ピザはいつものマルガリータ。トマトとフレッシュモッツァレラチーズの、このシンプルなピザが、わたしたちは本当に好きなのだ。

この店のビールは種類も多く、わたしはベルギーの代表的なビール、CHIMAYを飲んだ。少々の苦みが利いた、深みのある味わいで、おそろいのグラスもまた愛らしくて味を引き立てる。

夕食をすませて、ウインドーショッピングなどしながら書店「バーンズ&ノーブル」で立ち読みなどをしているうちにも、すでに9時半。あっというまに時間が過ぎて映画館へ。

内容は想像していたほど、猛烈に過激ではなかったし、驚くほど未知なる情報が散りばめられていたというわけではないけれど、これまでバラバラとまとまりなく情報として聞きかじっていたブッシュ政権の問題点や、イラク戦争や米兵士の実態の一部が、具体的にまとまった形で目前に突きつけられ、効率よく吸収できた。

9/11の、ワールドトレードセンター周辺の「音」が再現されたシーンでは、あのときの衝撃が鮮明に蘇ってきて、とても辛かった。

映画の内容に関しては、これからご覧になる方もあろうから、ここでは細かく触れない。なにはともあれ、マイケル・ムーアは米国を心底愛しているのだという熱情が、伝わってきた。

ところでわたしは、当初、共和党支持者たちはこの映画を見に行かないだろうと思っていた。彼らは当然、見た目からして暑苦しいマイケル・ムーアを疎ましく思っているだろうし、胡散臭いとも思っているに違いない。

主には反ブッシュの民主党支持者が観て、ブッシュ打倒を叫ぶ好材料にするのだろうと思っていた。だから、選挙結果にさほど影響を与えることもないだろうと素人ながら観測していた。よくても、どっちつかずの層を反ブッシュに引き込む程度だろうと。

ところが、封切り直後の週末で、この映画はドキュメンタリー映画としては記録的な24ミリオンダラー(約24億円)の興行収入を達成したとのこと。マイケル・ムーアがドキュメンタリー部門でのアカデミー賞を受賞した前回の映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」の総売上げが、確か21ミリオンダラーだったから、この数字の大きさがしのばれる。

しかも、週明けのニューヨークタイムズにあったが、共和党勢力の強い州での売上げも高かったらしく、そのことは監督本人も少々意外だったようで、赤い地域(共和党のシンボルカラーは赤で、民主党は青。選挙の際など勢力地図が、この赤、青で塗り分けられる)の人たちに観てもらえたことを喜んでいるらしきコメントがあった。

最終的に、この映画が大統領選にどう影響するのか、わたしにはよくわからない。それにつけても、ブッシュがここまで叩かれているのに、優勢になれないケリー氏のカリスマ性のなさには、憐れみすら感じられる。

それにつけても、ニューヨークなどに比べると、気軽にブッシュを批判できない風潮のあるこのワシントンDCにおいて(「Bush Cheney」の文字が踊るステッカーを付けている車や、小さなサインを掲げている家屋を、しばしば見かける)、ホワイトハウスのすぐ近くで、このような映画が観られるというのはまた、アメリカのよさであると実感した。

 

●弾丸のように擦れ違う! 

7月1日から4日(独立記念日)までの3泊4日を、ニューヨークで過ごす予定にしていた。A男はニューヨーク行きの前日、ボストン出張が入っていた。

今回は商業用飛行機を使わず、最近入社したばかりの同僚が所有する小型飛行機で、ボストンへ行くのだという。

「大丈夫なの? 小型飛行機って、どれくらいの大きさ? パイロット、慣れてるんでしょうね?」

心配しながら尋ねるわたしに、

「大丈夫だよ。きっと、腕のいい専用のパイロットがいるはずだから」

その夜、ボストンに到着したA男から、興奮気味に電話が入った。

「どうだった? 飛行機?」

「Remarkable(特筆すべき)経験だったよ!」

何でも空港に着いたら、そこには飛行機だけがあった。同僚が操縦士席に座り、A男はその横の副操縦士席に座らせられたのだという。その同僚(40歳代男性)は数年前、株関係の仕事で巨額の収入を得たため、2年間仕事をせず、その間にパイロットの資格を取ったのだとか。

妻と子供を連れて、小型飛行機でしょっちゅう旅行しているらしい。

彼は飛行しながら、空のナビゲーションシステムの見方や自動操縦のことなどをA男に説明してくれたらしいが、その間にも、かなり間近に他の飛行機が、びゅんびゅん擦れ違ったらしい。合計10機以上は擦れ違ったとかで、かなり空も「込み合っている」状況だったとか。

「向こうから飛行機が、まるで弾丸みたいに“ヒュンッ”って飛んで来るんだよ。驚くよ〜」

慣れれば楽しいのかもしれないが、遊覧飛行じゃあるまいし、しかも出張でその経験は、かなり緊張するのではなかろうか。

考えてもみてほしい。大空に、彼とA男、二人きりである。いくら操縦が簡単とはいえ、操縦の「そ」の字も知らないA男である。万一、その同僚が心臓発作でも起こしたらどうするんだ。

「パラシュートとかがあれば少しは安心だったけど、なかったからちょっと怖かった〜」と、A男は本音を漏らした。

自家用の飛行機を所有しているアメリカの富裕層は少なくない。セキュリティチェックもなく、待ち時間もなく、眺めもいいし、確かにいい部分もたくさんあろうとは思うけど、どうにもわたしには、不向きのようだ。今後は商業用飛行機に乗って欲しいと思った。

と、その翌日、日本の航空会社のパイロットが飛行中居眠りをしていたの記事を見つけた。いくら自動操縦中だったからって、そんなパイロットの操縦する飛行機には間違っても乗りたくない。どっちがいいか、究極の選択状態である。

 

●今回のマンハッタンは、「ボンジュール!」から始まった。

車を修理に出していたので、今回わたしはアムトラックでマンハッタンに入った。工場や、煙の立ち上る煙突や、寂れた街など、美しいとはいえない景色が続いてしばらくしたのち、列車はトンネルをくぐり、ペン・ステーションに到着する。

荷物を引きずりながらエスカレータで地上に出る。イエローキャブの黄色が目にまぶしい。マンハッタン特有の「乾いた夏の匂い」に包まれる。

今回の滞在先は、44丁目の五番街と六番街の間にあるSoftelというフランス系のホテルだ。レセプションでは「ボンジュール!」と出迎えられる。リノベーションをしたばかりなのか、客室は真新しく快適で、バスルームもピカピカだ。

マンハッタンは、よほど高いお金を払わなければ快適なホテルに滞在できない。いや、高いお金を払っても、大したことのない部屋に通されることがある。その点、このホテルはいい方だったと思う。

わたしは通常、マンハッタンのホテルを予約する際、このサイトを利用している。

http://www.hoteldiscounts.com/

ほかにもディスカウントの利くサービスサイトはあるが、ここが最も使いやすい気がする。料金を先払いしなければならないが、キャンセル料(数十ドル)を支払えば戻ってくる。

料金は時期によっても変わり、時々「3泊以上だと更に20%オフ」といったお得なプランも発見できる。なかなかに、おすすめである。

 

●昔住んでいたあたりを、しみじみと、二人で歩く。

ボストンからA男が到着したのは午後3時。二人ともランチはまだだった。こんな中途半端な時間にオープンしているレストラン、といえば、24時間営業が当たり前のコリアタウンである。

さっそく、10ブロックほど南下して、久しぶりに韓国家庭料理を食す。ほぼ、夕食状態である。

その後、夕暮れのミッドタウンを散策。新しい靴を買いたいという彼に付き合い、靴屋をチェックしつつ、しかし気に入った靴が見つからず、やがて昔住んでいた、59丁目のコロンバス・サークルにたどりつく。

セントラルパークの南西端にあるコロンバスサークルは、ここ数年、大規模な工事を行っていて、この2月に大きな二棟のビルが誕生した。

マンダリン・オリエンタルホテルを併設したこのタイムワーナービルは、ちょっと気取った感じの「ショッピングモール」だ。高級な日本料理店がオープンしたことでも話題になった。開店前は一人予算500ドルなどと新聞に書かれていたが、店頭でメニューを見たところ、そんなに高くはなかった。

さて、このビルディングができたことで、以前住んでいたアパートメントからの風景はより悪くなり(かつては見えていたセントラルパークが、ほとんど見えなくなってしまっているはず)、多分レント(家賃)も上がったであろうと予測されたが、しかし、このビルの地下を訪れ、わたしは非常に悔しく思った。

そこには、全米最大の「WHOLE FOODS MARKET」ができていたのだ。ホールフーズ・マーケットとは、オーガニック食品を豊富に取り揃えた、全米展開のチェーン店である。

現在の我が家の食卓は、ジョージタウンのホールフーズ・マーケットに支えられているといっても過言ではない。まさに我々の食生活の鍵を握っている大切な存在である。いつか、このスーパーマーケットのことについて、じっくりと書きたいと思っているくらいである。機を逸したまま今日まで来ているのだが。

マーケット(市場)好きのわたしは、いやがるA男をなだめて、店内を見学する。精肉コーナー、魚介類コーナー、お総菜のコーナー、どこもかしこも、実に豊かな品揃えだ。ジョージタウン店、完敗である。

ところで先日、父の葬儀の折、父の姉妹らと話しているときに発覚したのだが、父方の祖父もまた市場が大好きだったらしい。そしてわたしの父もまた、市場、つまり食料品がたっぷりあるところが好きだった。親子三代、市場好き家系のようだ。

このスーパーマーケットを、祖父はともかく、父には見せたかったなあ……と思う。目頭を熱くしながら、精肉コーナーで、ずらりと並ぶ肉を見つめる。

それにしても、この店が、あと5、6年、早くオープンしてくれていたなら、ニューヨーク時代の我が食卓が、もっとヘルシーに、もっと充実していたに違いない。実に無念だ。

さて、コロンバス・サークルを通り過ぎた後、昔住んでいたアパートメントのビルに立ち寄った。こんなことをするのは、この街を離れて以来、はじめてのことだ。

わたしたちが住んでいたころと同じドアマンが笑顔で迎えてくれ、フロントにもまた、懐かしい顔が。2年半ぶりに会った彼らは、不思議とみな、あのころより若く見えた。彼らがあまり変わらないのか。それともわたしが、少し歳を重ねたのか。それとも、あのころは、皆が年上に見えていたけれど、実は意外に、若かったのか。

ここに住んでいたこと、あのころの自分が、遠いとか近いとか時間の問題ではなく、別の次元に存在していた、あるいは今でも存在しているような、なんだか奇妙な気持ちにさせられる。とても身近で、だけど遥か懐かしさを伴う感情。

それから近所のハドソン・ホテルへ行った。わたしがランチ・ミーティングに好んで出かけていたダイニングのあるホテルだ。

ビリヤード台のあるライブラリー・バーで、わたしはモヒト(甘さ控えめ、ミントを多めにお願い)を、夫はマルガリータ(氷入りで)をオーダーし、時に、互いのドリンクを味見しあい、とりとめもなく語り合う。

置かれた写真集をパラパラとめくり、それから下手くそなチェスをした。訳のわからないままわたしのキングは奪われた。

ホテルに戻る前、リンカーンセンター前のバーンズ&ノーブルに出かけ、わたしたちが8年前の夏に出会ったスターバックス・カフェに来てみた。

今回の旅は、もう最初の晩から、わたしたちの間にノスタルジアが漂っていた。

 

●足の裏が! ネイルサロンで「冬のソナタ」を語る

それはもう、DCの街を歩いているときの比ではない。確かにたっぷりと歩いているけれど、それにしたって、すごい。何がって、足の裏の汚れである。

滞在中、A男が旧友に会う約束があったため、数時間、一人で行動した。その際、スパ・ペディキュアをしてもらおうと、街角のネイルサロンに入った。

サンダルを脱ぎ、自分の素足を見て驚く。足の裏が、まるで裸足で歩いた後のように、見事に真っ黒なのだ。そんな足を、ソルト入りのお湯につけてほぐし、ふくらはぎのあたりからマッサージしてもらう。

以前にも書いたが、マンハッタンのネイルサロンの大半は韓国系移民らによって経営されている。2000年前後は、雨後の竹の子のようにネイルサロンが林立していたが、最近は数も少々減り、淘汰された模様。

さて、サロンで働いている女性らもまた、ほとんどがコリアンで、店内は韓国語での会話が飛び交っている。

やはり以前にも書いたが、わたしはたいていコリアンに間違えられる。担当の女性に英語で話しかけたら、

「あなた、コリアンでしょ?」と訝しげに言われる。

日本人とわかるや、俳優の話題に。わたしが先日、日本に帰国した折、「冬のソナタ」が流行っていたという話をしたら、彼女も知っていた。

「あなたはどう思う? 彼ってそんなに格好いい?」と彼女。

「ううん。正直なところ、悪くはないとは思うけど、でもどうしてあんなに人気があるかわからない。ドラマも1回半みたけど(2回目は途中で耐えられなくなり中座)、ストーリーが粘着的でスローで、耐えられなかったのよ〜」

「わたしもそう思う。どうして、彼があんなに人気があるのかしら」

話は変わるが、日本滞在中にテレビを観た折、自分が、いかに人々の話す言葉を吸収しているか、ということ知った。「冬のソナタ」を見たあとは、「サンヨク……。わたしのことを、許しちゃだめよ……」などと、ついつい物まねをしたくなるし、トーク番組などでは、出演者の言葉の言い間違いなどや口癖などが悉く耳に触った。

アメリカでは、何年暮らしても、テレビの台詞は注意を払わなければ頭に入ってこない。しかし日本語はさすが母国語、集中せずとも、すいすいと、まるでスポンジが水を吸い込むがごとく、頭に入る。まるで筋肉養成ギプスを取り外した直後のようで、母国語っていいものだなあと、しみじみ思う。

さて、足のむくみもすっきりと、ネイルもピカピカにしてもらい、さあ、またサンダルを履いて、足取り軽やかに、街を歩く。しかし、一日の終わりにホテルに戻り、バスタブに浸かってみるとやはり、再び、汚れきった足。

そんな足の裏を、ゴシゴシ、ゴシゴシと擦りながら、この街に住んでいたころのわたしは、こんなに足の裏の汚れを気にしていただろうか、ひたすらに、闊歩するばかりだったころは……と、記憶をたどる。

 

●タクシードライバーのアメリカン・ドリーム

A男が乗ったタクシードライバーは、同世代のインド人だったらしい。出身はニューデリーで、A男と同じ高校を出たのだという。そのことがわかり、彼らは急に打ち解けて世間話を始めたらしい。

「彼、インドの大学に進んだんだけど、家庭でなんだか問題が起こって、退学してね。それでアメリカに渡って、タクシードライバーをはじめたんだって。

今の彼の平均年収は、税金を払った後の手取りが、100,000〜150,000ダラー(1,000万円から1,500万円)なんだってよ。

MBAなんかを出ても、この景気で仕事が見つからない人がいるっていうのに、大したもんだよね〜。アメリカ人の平均年収よりも遥かに高い額を稼いでいるんだから。彼、ロングアイランドに家を買って、親子四人で暮らしてるんだって。

大学なんかちゃんと出なくても、金は稼げる! って誇らしげに言ってたよ」

この件があって以来、A男はタクシーに乗るたび、ドライバーに話しかけ、仕事の状況やシステムを聞き出す。ドライバーは意外に気さくな人が多く、自分から収入のことを話す人も少なくない。

先日、DCで乗ったタクシーのドライバーはエチオピア系の移民だったが、彼は自分で車を購入し、協会に届け出て、あとは「フリーランス」的に仕事をしている。車内がとてもきれいだったから、それをほめると、彼は話し始めた。

「ありがとう。僕は、ともかく、快適な車内にしておくことを心がけているんだ。第一、一日中、ここが仕事場だからね。それから、一日の終わりには、必ずガソリンを満タンにして帰宅する。お客がいつ乗っても、ガソリンがちゃんとあるようにしておきたいんだ。

メンテナンスだって、入念にやってるよ。ガレージにも頻繁に持っていく。オイルチェンジもしょっちゅうやってる。ガレージのスタッフが呆れるくらいに。だけど、僕は車を大切に乗って、長持ちさせたいから投資するんだよ。

一日の稼ぎの平均は、純利が200ドルってところ。今はこのペースで順調にやってるよ」

世界各地から訪れる移民や不法滞在者が多いタクシードライバー業界。しかし彼らの人生は波乱に富んでいて、マンハッタンにいるころはしばしば思っていたけれど、彼らをインタビューして記事にまとめると、とても興味深いものになるに違いない、と改めて思った。

 

●マンハッタンの中の日本。

たとえばミッドタウンの、主に日本人駐在員ばかりを顧客にしていた日本料理店は、悉くつぶれていた。一方で、新しくてクールなことが好きなニューヨーカーを意識した、新しい日本料理店が増えていた。

わたしとA男は、今回、三晩のうちの二晩、日本料理を食べに行った。ワシントンDCにはおいしい料理を出す店が少ない一方、マンハッタンには本当に、日本料理店が多い。

日本酒を飲み、刺身や寿司を食べ、焼き魚に温泉卵の載ったおいしい豆腐サラダ、A男は好物のアナゴの天ぷらや豚の角煮……と、バラエティ豊かな料理を少しずつ味わう。

そういえば、日本人が経営するシュークリームショップも開店していた。店頭でシュー皮にクリームを注入してくれるユニークなスタイルで、ニューヨーカーの人気も高いらしい。

ソーホーやイーストヴィレッジには、新しく、日本のコンビニエンスストアのような店もオープンしていた。一歩店内にはいると、もう、ニューヨークにいるような気がしない。さまざまな日本の食材が揃っていて、A男は好物の「ロッテ・ガーナチョコレート」を4枚も買いだめしていた。わたしも負けじと「おかき」を購入。

そんな、日本の店の一画に身を置きながら、不自由することなく、祖国の物が手にはいるのは、便利と言えば便利だけれど、スリルがないなあ、とも思う。いや、こういう多国籍な、無国籍なところが、ニューヨークらしさでもあるのだが……。

日常生活にはスリルよりも利便性が重要だ。けれどやはり、たとえ不自由でも、自分になじみのない物、新しい物、刺激的な物に包まれて、異国での生活を創造していく方が、楽しいような気がする。便利が過ぎると、つまらない。

あれだけ日本食を食べておきながら、わたしも、矛盾したことを感じているのは自覚しているのだが……。

 

●チャイナタウンとヴィレッジ散策の日。

滞在三日目は、主にダウンタウンを歩くことにした。まずはソーホーへ行こうとサブウェイに乗る。トークン(専用コイン)は使えなくなっているし、1回乗車の料金は50セント値上がりして2ドルになってるし、数年の間に、こまごま、色々と変わってるなあと思う。

それにしてもバスの不便さには驚いた。メトロカード(プリペイドカード)を持ち合わせていなかったので1ドル紙幣2枚で払おうと思っていたら、バス停で待っていたおばさんが、「コインでしか払えないのよ」と教えてくれたのだ。

米国はこれまで2度か3度、1ドルコインを導入したけれど、いずれも普及しないまま、未だに1ドル札が幅を利かせている国である。DCのバスはコインも1ドル札も使えるのに。クオーター(25セント硬貨)をじゃらじゃらといわせて持ち歩くか、常にメトロカードを持っておくか、である。

さて、ソーホーでは、Spring Streetの駅でサブウェイを下りるつもりが、

「ランチは点心にしようか?」ということになり、次の駅、Canal Streetで下りる。相変わらずチャイナタンは、ごった返す人々が歩道からあふれ出ていて、なかなか先に進めない。

あちこちに果物の露店が出ていて、今が旬のライチーやチェリーがたっぷりと盛られている。

ライチー好きのA男は、まず1粒を味見して(1ドル也)、それから1ポンド購入(4ドル也)。きれいな粒を選ぼうとするわたしたちに「選んじゃダメ!」と言いながら、ライチーを鷲掴みでビニールに詰め込む店主は、さすがチャイナタウンの迫力である。苦笑しながら顔を見合わせる我々。

なじみの店で小籠包を食べた後、ライチーを食べながら、ソーホーを歩く。ここで夫は新しい靴を購入する。ソーホーには、カジュアルなシューズショップがとても多いのだ。

わたしはなんだか人混みに酔い、カフェでしばしの休憩。傾きかけた夏の日差しが注ぎ込んでくるテーブルで、A男はビールを、わたしはトニックウォーターを飲み、ぼけーっとする。

最近のわたしたちは、緑一杯の中をテクテクと歩く、静かな散歩が習慣となっているため、久々に込み入ったマンハッタンを歩くことにより、情報処理能力がオーバーヒートした模様である。

日本の繁華街を歩いているときにも同様の状況となった。日本はマンハッタンの比じゃないくらい、ごちゃごちゃとしている。特に、デパートや繁華街の彩り、電灯の強さ、看板などの情報量の多さには、辟易した。

そんなわけで、すっかりとお上りさんと化している我々には、適宜、休養が必要なのだ。しばらくくつろいだあと、再びワシントンスクエアを目指して歩く。

途中で中国人経営のマッサージサロンを発見したので、ここで足のマッサージをしてもらう。メニューはなぜか10分刻みプラス1分。わたしたちは「21分」のリフレクソロジーを受ける。

狭くて薄暗い店内に、カーテンで仕切られたベッドが5つほど並んでいる。エステティシャンの中国人女性らが、お客にマッサージを施しながら中国語でぺちゃくちゃとおしゃべりするのがうるさい。リラックスできない。韓国系スパでもそうだけど、みんなほんとに、よくおしゃべりをするのよね〜。

約5分経過地点で、「悪いけど、おしゃべりをやめてくださらない?」とお願いしたら、静かになって助かった。

リフレクソロジーで再び元気を盛り返したわたしたちは、イーストヴィレッジを歩き、お気に入りの日本料理店「えびす」で夕食を食べ、日本酒を飲み、ふらふら、ふらふら、グラマシーを通り、エンパイアステイトビルの麓を歩き、そうしてホテルまで歩いたのだった。よく歩いた一日だった。

 

●最後の朝、セントラルパークへ。

セントラルパークは、本当にいい。セントラルパークのないマンハッタンなど、わたしには考えられない。と思いながら、天気のよい朝、二人でセントラルパークを散歩する。

この公園があったから、この街で暮らしたいという気持ちが増したのだと、今でも思う。毎日のように、ここをジョギングしていたころを思い出して、胸が熱くなる。

街を歩きながらA男が言う。

「マンハッタンは、本当に、いいね。DCよりも、ずっと楽しい」

DCに移りたてのころ、わたしがそう言うたびに、怒っていた癖に。

「僕がまた、この街で仕事を見つけたとしたら、もう一度マンハッタンに住みたい?」

彼の質問に、わたしは「ノー」と即答した。

確かに、マンハッタンは魅力がたっぷりある街だ。DCよりも、ずっと好きなこといは変わりない。しかし、最早わたし(たち)の心に占めているのは、ノスタルジアだ。この3日間というもの、思い出の場所を<無論、なにもかもが思い出の場所なのだが>ばかり歩いた。

新しいものを発見したい、というよりは、懐かしい場所を再訪する、という心情の方が、多分わたしたちには強い。わたしは最早、違う場所を望んでいるのだと、またしても、改めて感じた。

こんなことを思うとき、わたしはインドに住むA男の伯母の言葉を思い出す。彼女は若いころ、ジョージタウン大学に留学していて、現在の我々の住まいの近くに住んでいた。その当時、ニューヨークを訪れた際、ユニセフの仕事でニューヨークに来ていたA男の母と知り合い、その縁でA男の伯父と結婚するに至った。

彼女がインドで、まるで人生のなかの、ほんの小さな一部分を語るみたいに、「わたしはDCに4年住んでいて、それからイギリスにも数年住んでいて……」と語るのを耳にしたとき、わたしの人生も、願わくば、やがてはそんな風に長くなりゆき、ニューヨークでの5年も、ワシントンDCでの数年も、ごく一部になっていくのだなあと思ったのだ。

そして、そう思うと、ひとつの街に固執したり、あるいは嫌悪しながら過ごすことは、実に狭小かもしれないとも感じた。あるいは20年後、あるいは30年後、再びマンハッタンに暮らすことがあるかもしれない。が、取りあえず今は、違う場所を目指そうと思う。

 

●独立記念日。花火見逃し、遠い家路。

DCへ戻る予定の7月4日。ランチはA男の親戚のおじさんに誘われ、またもや今度はミッドタウンのチャイニーズで飲茶ランチ。以前、サンクスギビングデーの折に訪れていた、アッパーイーストサイドに住むあのおじさんだ。

彼と久々に会い、食事と会話を楽しんだ後、ブライアント・パークでコーヒーを飲み、ホテルで荷物をピックアップして、駅に向かった。

そこで「恒例の」ハプニングが発生した。振り替え休日の翌月曜日は、電車が込むだろうと予測し、一日前に戻ろうと思ってアムトラックのチケットを予約しておいたのだ。ところが……。午後5時発の列車に乗るべく、4時半ごろ駅に到着し、ふと時刻表のボードを見上げたら、1時間遅れの表示が! 

無論、4時発の便も1時間遅れだったので、そっちに切り替えて、ともかく5時には出発できた。遅れた理由は、独立記念日らしく(などと言ったら不謹慎か)、とある列車が「爆破予告」されたことが原因らしい。結局、狂言だったらしいが、ワシントンDC発ボストン行きのその列車は、ニューヨークで止まり、乗客は皆、列車から降ろされ、駅で途方に暮れていた。

一方、我々の乗った4時出発予定5時出発の列車は順調に進んでいた……かと思いきや、1時間経過地点のフィラデルフィアで足止めを食うこと1時間。なんでもボルティモアの発電所に落雷し、電気の供給がストップしたとか。がが〜ん。

このあたりって、本当に雷に弱い。去年もしょっちゅう、発電所に落雷したり、落雷された大木が倒れて電線をなぎ倒したりして、停電連発だった。

「再開の目途は立たちません」「お詫び申し上げます」とのアナウンスが、時折、繰り返されるばかり。

幸い列車内は電気が作動していて冷房も利いているし、電源もあるから、コンピュータを起動させて文章を書いたり、カフェカーでホットドッグやらビールを買い込んで、ジャンクフードな夕食をとったりする。

やがてようやく列車は動き出し、途中の街の、遠い空に、花火がポン・ポンと、小さく打ち上がっているのを眺めつつ、あともう少しでDCだ、と思ったところが! ボルティモアでまたもや停車するではないか。やっぱり電力系統に問題があるらしい。

あと45分。もうちょっとだったのに〜!

しばらく車内で待たされたものの、復旧の見通しが立たないからと下車させられ、駅で待機しろとのこと。この時点ですでに、9時過ぎ。本当は今ごろ、家に着いて、屋上から花火を見ているころだったのに〜。

待っていても埒があかないので、他の乗客(若いカップル)と「あいのり」でワシントンDCまでタクシーで帰った。ちなみにタクシーは1時間近く乗った割にトータルで65ドル(チップは別)でオファーしてくれたのは、かなりリーズナブルだった。元はと言えば、使わずにすんだお金ではあったのだけれど。

DC-NY間の往復路は、吹雪だの嵐だの落雷だの、ほんと、いろいろあるものだ。それら全てに遭遇している自分たちの運の強さ(弱さ?)に感心する。

最終的に10時半に自宅に到着した。花火はすっかり終わってしまい、がっかりしながらも、2時間遅れくらいですんだのは、幸運だったかもしれないと、殊勝にも思いながら、バスタブに深く浸かり、長い一日が終わった。

(7/10/2004) Copyright: Miho Sakata Malhan

 


Back