坂田マルハン美穂のDC&NY通信

Vol. 126 1/14/2005 


遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

みなさまは、どのような年末年始をお過ごしでしたか?

わたしたちは、グリーンブライアというリゾートで、とても思い出深いクリスマスホリデー過ごしました。今日は、そのときのレポートをお送りします。

すでにホームページに写真入りで掲載しているものに、若干手を加えたものですが、アメリカ的なリゾートの様子を垣間見ていただければと思います。

情報が洪水のように流れ込んでくる昨今なので、うっかりすると世界中の重苦しいニュースの渦に引き込まれてしまいそうですが、そうならないよう、今年もまた、自分たちの一日一日を、まずは大切に過ごしていこうと思っています。

とはいえ、年の瀬に南アジアを襲った津波・地震のニュースは、たとえようもなく衝撃的でした。去年の4月、わたしたちが訪れたチェンナイ(マドラス)の海辺もまた、大きな被害を受けていました。

わたしたちが滞在したのは、フィッシャーマンズ・コーブという漁村のそばにあるリゾートで、滞在中にある漁師と話をしたことが印象に残り、「インド彷徨(2)」の最後に書き記しました。その文章を、ここに転載します。

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■千年の海。最後の漁師。

夫がどうしても、双胴船(カタマラン)に乗ってみたいという。
わたしも一緒に、海へ出てみることにした。

船を操るそのガイドは、隣村の漁師だった。早朝の漁を終えた後、こうしてホテルで旅行者を乗せ、海へ案内しているという。その船は、丸太を2本組み合わせただけの、とても原始的な作りをしていた。

「カタマランっていうのは、そもそもミャンマーから来たんだよ。ミャンマーからケララ州を経て、チェンナイに伝わってきた。カトゥはKnot(結び目)、マランはwood(木)、っていう意味なんだ」

「カタマランは、1週間もあれば作れる。そして10年から15年、使う。けれど、最近は雨が少なくて木が育たない。だから政府が木を切らせてくれなくて、新しい船が造れない」

「雨が降らないから水もない。村には数千人の村人が住んでいるけれど、漁業だけでは食べていけない。だから、手工芸や織物をやっているよ」

「その上、近頃は公害のせいで、魚はどんどん減っていく。おまけに大型漁船が、コンピュータで魚群を探知して、魚をきれいにさらって行ってしまう」

「レッドスナッパー、ロブスター、キングプラウン、タイガープラウン……。昔はもっとたくさん穫れていたけれど、今はもう、本当に、ほんの少しさ」

「僕には娘が二人いる。長女はもうすぐ8歳で、学校が始まる。でも、学校にやれるかどうかはわからない。学費は1日50ルピー(約1ドル)。それが払えるかどうか……」

「この村は、千年前からずっと、漁をやって来た。僕の親父も、祖父も、そのまた祖父も、みんな漁師だった。みんなここで生まれて、ここで死ぬ。それが千年、続いてきたんだ」

「ほら、あそこに浮かんでる船が見えるだろ。あれは僕の親父だよ」

「でもね。もう、双胴船に乗るのも、漁をやるのも、僕で最後だ。誰も僕らを継げないし、これから先、村がどうなるかもわからない……。僕が最後の、漁師なんだ」

ランチタイム。

彼らが釣ったのかもしれない魚を、ホテルのテラスで食べながら、海を見ていた。

海は穏やかで、砂浜も静かだった。

海辺のホテルへ魚を売りに行く、日に焼けた少年たちが、のんびりと行き来する姿だけが見えた。

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●約5時間のドライブを経て、由緒ある森のリゾート、グリーンブライアへ

例年ならば、冬の休暇は飛行機に乗って遠出をするところだが、2004年は、家を空けることが多い一年だったこともあり、近場で過ごすことにした。

当初はヴァージニア州シェナンドア国立公園の近くにある日本的な温泉宿に泊まるつもりだったが、予約が一杯で1泊しか空いていなかった。1泊ではのんびりできない。どうしたものかと思案していた矢先、A男(夫)が知り合いからグリーンブライアのことを聞きつけてきた。

早速ホームページで調べてみる。ウエスト・ヴァージニア州、アレゲニー山脈の懐、森のただ中にあるリゾート。そもそも「ホワイト・サルファー・スプリングス」という硫黄泉が沸く温泉地として、1778年以来、内外の人々に知られてきたという。

交通の便が悪かった奥地にも関わらず、夏の避暑地として多くの人々が訪れた。やがて鉄道が敷設され、より多くの人々が訪れるようになり、次第に「森の中の社交場」としての存在を強めていく。首都ワシントンDCからだけでなく、全米はじめ世界各地から、政治家や著名人などが訪れる場所となっていった。

ここはまた、独立戦争以来、米国の歴史に密接に関わりを持ってきた場所でもあり、「アメリカで、最もアメリカ的なリゾート」として、知られているという。

これから先、どれくらいこの国に住むのかわからないわたしたちにとって、アメリカらしいクリスマスを過ごすのは、いい経験になるかもしれない。それに、ワシントンDCを離れてしまったら、わざわざこんな山奥のリゾートに出かけることはまずないだろう。そう考え、クリスマスイブからの3泊4日、思い切って予約をいれた。

出発の数日前に、予約の確認証や案内などが送られてきた。パラパラとめくるうちにも心が躍る。それにしても、ドレスコードが細かい。リゾート全体の空気を上品に保ちたいのだろう、場所や時間ごとに、然るべき服装の詳細が記されている。

「まるで校則みたいだね。間違った格好をしてたら、見張り番にピシッと叩かれたりして!」とA男が笑う。

思えばホームステッドに行ったとき、リゾートそのものはとてもエレガントで気品に満ちていたのに、そこはアメリカ、短パンにTシャツ、ジーンズなどをだらしな〜く着用しているゲストも少なくなく、少々興ざめしたのを覚えている。

せっかく、「然るべき場所」に行くのだから「然るべき雰囲気」を味わいたいというものだ。わたしとしては、ドレスコードがある方が、気持ちも優雅に引き締まって、「特別な場所」に来ている感じが味わえて、うれしい。

出発の前日は、数少ないワードローブから、何を持っていこうかと思案しながらの荷造りだった。いつもならあっというまに終わってしまう荷造りが、ずいぶんと時間がかかってしまった。

クリスマス・イブの朝は快晴。目的地までは約250マイル(約400km)だから、休憩を入れても5時間あれば到着するだろう。ハイウェイ沿いはファストフードの店ばかりだから、出発前におむすびと卵焼きを作り、保温ポットに「お吸い物」を入れ、おやつのチョコレートを詰め込み、いざ出発。

DCからはルート66をひたすら西へ向かって走る。シェナンドア国立公園の北の起点であるフロントロイヤルを過ぎたあたりで、ルート81に乗り換え、今度は南へ。延々と続く山並みを眺めながら、牛が草を食む牧草地をすり抜けながら、走る。

暖かければ、どこか見晴らしのいいところでピクニックランチ、といきたいところだったが、あまりの寒さに断念。とはいえ、車のなかで食べるのも窮屈なので、ファストフード店に入り、フライドポテトとサラダだけを購入し、店内のテーブル(レジからは死角)でランチを広げさせてもらう。(いいのか?)

食後も、南北に連なるアパラチアン山脈の麓をひたすら南へ走り抜ける。歌ったり、しゃべったり、口論したり、沈黙したり、おやつ食べたり、歌ったりしているうちに、ルート64が現れた。

ルート64から進路をやや西に移してしばらく走り抜けた先に、ホワイト・サルファー・スプリングスの町(村)が現れた。

 

●穏やかな陽光が差し込む、限りなく「アメリカ的」な空間

チェックインをすませた後、ホテル内の探検に出かける。

メインロビー周辺には、いくつものラウンジ、即ち「くつろげる空間」がある。客室を含め、ホテル全体が、自然光をふんだんに取り入れる設計になっていて、だから日が高いうちは、至るところで心地の良い陽光が降り注いでいる。

家族連れや若いゲストは、寒さの中アウトドアのアクティビティに出かけたり、館内の施設で遊んだりと、活発に動き回っているけれど、年輩のゲストの多くは、暖炉のそばで、窓辺で、バーで、ゆったりとソファーに腰掛けて、本や新聞を読んだり、語り合ったりしている。

森の中の、豊かな自然のただ中にあるこのリゾートでは、ゴルフやテニス、乗馬、トレッキング、フィッシングなど、さまざまなアウトドアスポーツが楽しめることが大きな魅力だ。蒸し暑い夏のワシントンDCから避暑に訪れる人々も多い。

だから冬の今、ここは基本的にオフシーズンだ。しかしリゾート内のデコレーションが一番美しいのは、きっとこのクリスマスシーズンだと思う。あちらこちらに、個性的でダイナミックなクリスマスツリーが飾られ、無数のポインセチアが配されている。

お掃除直後の空室が開放されていたので、こっそりとのぞいてみた。部屋ごとに、ピンクやイエロー、ブルーなど、基本の色調に従って花柄の壁紙やベッドカバー、そしてカーペットなどがコーディネートされている。

ややファンシーすぎる印象だが、これが「古き良きアメリカ」時代から愛されてきたアメリカ的エレガントの一端でもある。ちなみにこのリゾートのインテリアは、1900年代前半に活躍したインテリア・デコレーター、ドロシー・ドレイパー (Dorothy Draper)のスタイルによるものだ。

 

●イベントやエンターテインメントが盛りだくさん! 早速ワインテイスティング

グリーンブライアではバレンタインデーやイースター、独立記念日、サンクスギビングデー、クリスマスにニュイーヤーズ・イブなど、一年を通してホリデーのパッケージプランが用意されている。12月21日から28日まではクリスマスパッケージの期間で、最低3泊が条件となっていた。

チェックインの際、期間中のプログラムと「本日の催し」の案内を手渡される。何に参加しようかとページをめくる。初日、チェックインを終えた1時間後の午後4時から、ワインのセミナーがあるのを見つけ、早速出かけた。

広々としたバンケットルームに、テーブルがずらりと並んでいて、あらかじめワインの入ったワイングラスが用意されている。まるで大学の講義を受けるかのような生真面目な雰囲気が漂っていて、それがちょっとおかしい。わたしたちは、前方の席に座り、ソムリエの話に耳を傾ける。

この日のテーマは、フランスではシラー(Syrah)、オーストラリアではシラーズ(Syraz)と呼ばれているブドウからできた赤ワインについて。フランス、オーストラリア、米国(ソノマ)産など計4種類のシラー(シラーズ)を味わう。

最後にウエイターらによって注がれたスパークリングのシラーズを試飲。赤ワインのスパークリングワインを飲むのは初めてだ。甘みが少し強いデザートワイン風だった。

テイスティングだというのに、ワインはグラスにたっぷりと注がれていて、だからわたしたちを含む数名のゲストはセミナーが終わった後もすっかりくつろいで、まるでバーにでもいるかのように、ワインを味わい続けた。

 

●聴いて、踊って、語らって……。華やかなクリスマス・イブのバンケット

ディナーは、メインダイニングルームと二つのバンケットルームの3箇所のうち、好きな場所を選べるようになっている。3日間それぞれに、違う場所での予約を入れていたのだが、初日に予約していたバンケットルームは、子供連れの家族が多い、賑やかなブッフェスタイルだった。

美味しそうな山海の幸やデザートなどがたっぷりと並んだブッフェは魅力的だったけれど、風船が飛び交い、サンタクロースが歩き、あまりにもファミリー向けのだったので、急遽、別のバンケットルームに変更してもらう。

ステージではバンドが音楽を奏で、料理の合間にカップルたちが踊っている。みな、とても楽しげだ。

華やかな空気に包まれて、わたしたちはアラカルトメニューの、前菜からデザートまで、しっかりと楽しんだ。特にデザートのブレッド・プディングが格別で、A男は大喜びで平らげた。

 

●ホットチョコレートを飲みながら、声を揃え、歌うはクリスマス・キャロル

夜9時を過ぎたころ、メインロビー周辺で、温かなホットチョコレート(ココア)とクッキーが用意される。ホットチョコレートに入れるマシュマロや生クリームもあり、本当に「アメリカン」な冬の団欒だ。

アメリカのクッキーは直径が10センチくらいあるし、とても甘いし、食事をたっぷりと味わったあとだから、とても食べられなかったけれど、ホットチョコレートは少し飲んだ。おいしかった。

わたしたちが夕食を終えてメインロビーに行ったころ、ちょうどクリスマスキャロルのコーラスが始まっていた。大勢のゲストたちが、コーラス隊と一緒に声を揃えて歌っている。わたしたちもまた、クリスマスに因んだ聖歌の歌詞が記された小冊子を手に取り、合唱に参加する。

19曲もの聖歌を、間断なく一気に歌い抜けるのが、なんとも気持ちよかった。

日本語で歌われている歌詞とは明らかに異なる、本来の英語の歌詞を読んで改めて、クリスマスそのものの意味について思いを馳せることができたのは、いいことだったと思う。

 

●家族揃って記念撮影会に、わたしたちも。夜はバーでジャズを聴きながら

夜のラウンジでは、フォトグラファーによる写真撮影が行われていた。

二人だけの家族もあれば、赤ちゃんから老夫婦まで10人近い大家族もある。みなそれぞれに美しく着飾って、ここで撮られた写真は多分、それぞれの家庭のリビングルームに、大切に飾られるのだろう。

大人たちもさることながら、ネクタイをして、紺色のブレザーを着た男の子たちのかわいらしいこと。髪の毛をきちんと分けて櫛をいれた様子がまた、なんとも言えず。

女の子たちの、おしゃまな表情もまた、愛らしい。それぞれの家族の、それぞれのたたずまいを眺めているだけで、なんだか胸が熱くなる。

人々は、個々人で独立した存在でありながら、家族という単位でまとまると、それは不思議なくらいに調和がとれている、ということを、次々に撮影されていく家族たちを見ながら思った。

たとえば、ちょっとふてくされたティーンエージャーの男の子も、厳格そうなおじいさんも、陽気なおばさんも、神経質そうなお母さんも、みんなが揃うと違和感なく、まとまってしまう。家族ごとに、色があり、独特の空気がある。

その動作や衣類の着こなし、話し方などから、いかにも「良家の方々」という家族もあれば、この日のために目一杯おしゃれをしてきました! というぎこちなくも気合いが入った家族もある。

さまざまな人々の様子を眺めるうちに、自分たちはどういう風にありたいか、という理想像が見えてくる。何はともあれ背筋を伸ばして、どこにいても、凛としていたいと思う。わたしたちも、二人一緒の写真があまりないので、記念撮影をしてもらった。

 

●スパにセミナー、ボウリングなど。ホテルで過ごすクリスマスの一日。

二日目の25日は快晴。しかし外は凍て付くほどに寒いので、今日は一日ホテルのなかで過ごすことにした。

午前中はスパの予約を入れていたので、休日だというのに早起きをして、一番乗りで朝食を食べ、スパへ行く。

ホワイト・サルファー(白硫黄)の温泉水を使った数々のトリートメントの中から、わたしたちはミネラルバス(温泉浴)、スイスシャワーとスコッチスプレー、そして海草のボディマスク、マッサージを受けることにした。

まずは、ジャクージー付きのバスタブがある個室に通される。おがくずのような木の粉を入れた温泉水に浸かる。ヒノキのような香りがとてもよい。灯りの落とされた静かな部屋で、しばらく温泉浴を楽しむ。

そして次はシャワータイム。シャワールームの四隅に数個ずつのシャワーヘッドが設置され、四方の上下から高水圧の温泉水が身体全体を直撃する。さらにはエステティシャンが2メートルほど離れた場所から、まるで消防士のホースみたいな器具を持って、これまた相当な水圧の水を身体全体にかける。

その放水がもう、笑ってしまうほど強い。膝の裏側に水があたったとき、膝ががくんとなって前のめりになるくらいの水圧である。この強烈なトリートメントは、身体の血行をよくするのだとか。よくなって当然、という気がしないでもない。

強烈シャワーのあとは、ベッドのある部屋に行って、今度は海草ラップ。すりつぶされた海草を体中に塗られ、やわらかなアルミホイルで身体を包んでもらう。海草が、まるで発酵しているみたいに「ぷちぷち」と気泡を立てているのがわかる。だんだん身体が温まってくる。それにしても、なんというか、ワカメ臭い。

しばらくワカメに浸った後は、シャワーで身体を洗い流し、今度はマッサージルームへ。温泉水でリラックスした身体を、じわじわとマッサージしてもらう。本当に心地よい。

トリートメントが終わった後は水分をたっぷり補給するように言われたので、ラウンジで新鮮なミネラルウォーターを飲む。硫黄臭い鉱泉水もコップ2杯までなら飲んだ方がいいらしいので、こちらも試す。

エステティシャン曰く、「でも、わたしは飲んだことがないの。なんだか怖くて」とのこと。鉱泉水を飲んだ後は、心なしか、腸の動きが活発になった気がした。

スパのあとは、ラウンジでゆっくりと過ごしたいところだったが、「ダイニング・エチケット」のセミナーが開かれるというので、渋るA男を説得して、参加することにする。パーティーやディナーに招かれたときのマナーは、知っておくに越したことはない。

セミナーでは、パーティーでの会話や挨拶の仕方などについて、それから基本的なテーブルマナーについてを教わった。

「顔見知りだけれど、その人の名前を思い出せないとき、どう切り出したらいいのか」ということについて、さまざまな角度から同様の質問をするゲストが多いのに驚いた。どうもみなさん、パーティーに参加するたび、名前を思い出せない人との会話で居心地の悪い思いをしているようだ。

また、パーティーのとき、どうしても話をしたい人が、他の人としゃべっている場合に、どういう風に「割り込んだら」いいのか、とか、あるいは、つまらない話を延々と聞かされて、早く退散したい場合にはどう切り出したらいいのか、とか、パーティーの達人にも見える中高年、老人らが、似通った質問をするのも、意外だった。お陰でわたしたちは、勉強になったのだけれど。

 

●グルメショップでクッキング。フィレステーキにブレッド・プディング!

ショッピングアーケードには、おしゃれなキッチンウエアや高級食材などが販売されているグリーンブライア独自のグルメショップがある。その一画にキッチンがあり、1日に2回、クッキングのデモンストレーションが行われていた。

朝食の後、たまたま通りかかったら、ペッパーステーキとマッシュルームソースの実演が行われていた。あたりにはいい香りが立ちこめている。お腹一杯なのに、出来上がりを試食する。非常に美味。とくに胡椒の風味がよかったので、独自にブレンドされた胡椒を買うことにした。

午後はブレッド・プディングの実演が行われるという。A男が「絶対に来なきゃ!」と気合いを入れている。もちろん、自分が作るのではなく、自分が試食をし、将来わたしに作らせるためである。

思えばわたしが小学生のとき、生まれて初めて作ったオーブン料理はブレッド・プディングだった。A男はお母さんの作るブレッド・プディングが大好物だったらしい。二人にとって思い出のあるデザートなので、「おいしいレシピ」を習得しておこうと、午後も出向いた。

どんなお菓子もそうだけれど、ブレッド・プディングは手軽にできる分、よりいっそう、使用するパンやバター、卵、ヴァニラなど、素材の味のよさが決め手になるようだ。

 

●"Shall we dance?" ご一緒に、踊りませんか?

「いつかはきちんと、ダンスを練習しなきゃね」といいながら、機会がないままに来ていた。午後2時半から、ボールルームでダンスのレッスンが行われる。

リズム感が著しく悪い夫が果たして踊れるようになるのか、妻は自分のことは棚に上げて心配ではあった。が、ともかくは、参加することにした。講師はとてもフレンドリーな熟年夫妻だ。

初日はスウィング。男女に分かれて基本的なステップを練習し、それからカップルが手を取り合っての実践。女性はクルクル回らなければならないので目が回る。何度も足を踏みつけたり、踏みつけられたり、本当に大変。なかなか息が合わない。全くの初心者はわたしたちだけだったから、先生も手取り足取り教えてくれて、1時間のうちに、それなりに踊れるようになった。

翌日はルンバ。これは前日のスイングよりも難しかったが、参加していた老夫婦が、やはり一緒に踊って教えてくれて、それなりに踊れるようになった。ちなみにその老夫婦は、中国系フィリピン出身アメリカ人で、この近くで二人ともドクターをしているのだという。

二人は夕食のとき、食事をする暇もないくらい、席を立って踊っていたから、よほどダンスが好きなのだろう。あとから聞いたところによると、二人がダンスをはじめたきっかけは、10年前、夫人が骨盤の大手術をし(現在は人工の骨盤なのだとか)、そのリハビリテーションのためだったという。

「ダンスは健康にもいいし、それからアルツハイマー防止にもいいのよ!」

とても身体が悪かったとは思えない、小柄で丸々太った夫人が笑いながら言う。

「ぼくは踊りが苦手だから」という我が夫に、やはり小柄で優しげなご主人は

「僕も全然踊れなかったんだ。でも、そのうち楽しくなるよ」と励ましてくれる。

わたしたちも、いつかは「踊り続ける二人( 『街の灯』)」みたいになれるように、これから少しずつ、練習をすることにした。

 

●映画鑑賞にボウリング、プールサイドでモノポリー。瞬く間に時間が過ぎる

毎晩、リゾート内の映画館で、映画が上映されている。主には大人も子供も楽しめる娯楽映画である。初日は、「シュレック2」が上映されていた。わたしたちは、映画の趣味はあまり合わないのだが、限られた映画に限り、非常に好みが合い、それをしつこく何度も見てしまう、という習慣がある。

「シュレック」もまた、そんな映画の1つである。

「シュレック2」は劇場公開されたとき、1度見に行き、とても面白かったので、また翌日も見た。それからしばらくして、DVDを借りてみた。そして今回で4度目である。もう、ストーリーは熟知である。

「シュレック2」に限らず、気に入った映画というのは、見るたびに違う発見がある。わたしにとっては、聞き取れていなかった台詞(英語)を改めて聞き直すことで、違う印象を得ることもある。

そのときの感情によって、思い入れもかわる。無論「シュレック2」に関しては、深い思い入れ云々ではなく、ただ単に楽しいというだけのことだけれど。

特に「長靴を履いたネコ」と、その声を担当しているアントニオ・バンデラスのキャラクターが最高にいい。

"I hate Mondays...." の台詞には、毎回爆笑してしまう。

映画の他にも、ボウリングをやったり、盤ゲームをやったりして過ごす。

初めてやったモノポリーは、予想以上に楽しかった。堅実に財産を貯めていく妻に対し、夫は不動産を次々に大胆購入。しかもなぜか9回も「牢獄行き」で保釈金に散財。家賃もなかなか回収できず、担保連発。結局破産直前で時間切れ。

A男の意外かつ危険な一面を垣間見た。奧の深いゲームだと感心した。

 

●サリーばかりを着ていた。夜のドレスアップ

初日も、二日目の夜も、サリーを着用。カクテルドレスも持ってきているのだが、ついサリー。黒いドレスを着ている人が多いので、サリーは目立つ。「美しいサリーですね」と何度も褒められて、とても気分がいいのである。

わざわざ遠くから駆け寄ってきて

「Excuse, me! あなたのサリー、素敵ですね! その生地が本当にきれい! そのことだけを言いたかったの!」

と言って立ち去って行く若い女性もいた。ダンスの先生も、

「夕べのあなたのサリー、最高だったわ!」

と、自己紹介の前から顔を覚えてくれていた。もう、こうなったら、毎晩サリーを着てしまわずにはいられないというものだ。

かつてはわたしがインド服を着用することを好まなかったA男だが、妻の衣服がほめられることに加え、「サリー」という言葉が人々の口から出るのがうれしいようである。

彼がインド服を敬遠していた理由のひとつは、民族衣装には古くさいイメージがあったからのようだ。インドではともかく、海外では、主に「年輩の」インド人女性ばかりがサリーを着ていることもあり、だからわたしが着るのは「ださいこと」とすら思っていたようである。

しかし、2004年4月にインドでサリーを大量購入し、初めてホームステッドでのパーティーで着用したときに人々が褒めてくれたのを機に、彼も考えが変わったようである。率先して、サリーを着用を促すようになった。さらには、ホテル内で出会ったインド系の女性が欧米風のドレスを着用しているのを見て、

「彼女もインド人なら、サリーを着るべきだよね〜。自国の文化に誇りを持たなきゃね〜」

などと耳打ちする始末。大きなお世話である。

そんなことを言ったら、わたしは着物を着なければならないではないか。インドのテキスタイルの認知度アップに貢献している場合ではないのである。

それにしてもサリー。持ち運び簡単、着付け簡単、収納簡単、ウエスト調整自由自在(食べ過ぎてもOK)、体型を問わない……と、本当に便利な衣服である。それに、しつこいようだが、その生地の種類とデザインの豊富さ。

当分は、カクテルドレスの出番はないと、思われる。

 

●1942年5月。日本人408名の集合写真。地下には巨大な核シェルターが!

雪こそ降ってはいないけれど、空気は凍て付くように冷たい。それでも午後、風が凪いでいるころは寒さも和らぎ、だからリゾートの敷地内を散歩してみることにした。

どれほど広いのか、見渡す限りではよくわからない広大な敷地内に、テニスコートやゴルフ場、コテージや分譲住宅が点在している。森へ続くトレッキングルートもある。

敷地内にプレジデンツ・コテージ・ミュージアムという小さな建物があったので入ってみた。そもそもは、1835年、ルイジアナの富豪の夏の別荘として立てられた家だった。のち、独立戦争以前の歴代大統領が、ここをやはり夏の別荘として訪れるようになった。

1階に2部屋、2階に4部屋あるだけの、小さな別荘には、当時のままの家具調度品が残されているほか、いくつもの古い写真や資料が展示されていた。ある写真を見つけて、目が釘付けになった。それは、大勢の日本人らの写真だった。

撮影されたのは1942年5月とあるが、とても昭和17年の日本人とは思えない。子供たちなどは、わたしが子供のころ、つまり昭和40年代に流行ったような縞模様のTシャツやソックス、あるいは提灯袖のフリフリなブラウスなどを身につけている。

添えられた文章を読んで、また、驚いた。

タイトルには"INTERNMENT OF FOREIGN DIPLOMATS AT THE GREENBRIER, 1941-1942"とある。

真珠湾攻撃後、日米開戦直後の1941年12月19日から翌年の7月8日までの半年あまり、このグリーンブライアには、カナダ、米国、及び南米に赴任する日独伊などの外交官及びその家族が収容されていたという。

ドイツ人1054名、日本人408名、イタリア人170名、ハンガリー人53名、ブルガリア人11名。FBI及び国境警備隊の監視下にあったとはいうものの、彼らは滞在中、グリーンブライアの施設を自由に使うことができ、「一般のゲストと同様のもてなしを受けた」と記されている。

交渉が成立した後、彼らは国際赤十字の監視のもと、欧州、アジアにて米国外交官らと「身柄を交換」されたという。

当時、グリーンブライアで過ごした日本人総勢408名が一堂に会したその珍しい写真。中には、米国への宣戦布告の暗号文解読を試みた外交官もいるだろう。時間切れとなってしまい、「奇襲」となってしまった事実を、どのように思っていたのだろう。

写真に写っている人々の、子供たちが笑顔なのはまだしも、笑顔を見せた男たちが多いのは、意外だった。

今のような時代とは異なり、当時は海外赴任となると、責任にもステイタスにも、より重みがあっただろう。一般庶民と彼らとは、感覚も地位も、著しい隔たりがあっただろう。

そのことを感じさせてあまりある、これは一枚の写真だった。

同時に、米国人として生まれながらも、日系人だというだけで、粗末な収容所に押し込められ、苦痛を強いられた人々のことも思われる。

ところで、帰宅して調べてから初めて知ったのだが、このグリーンブライアの地下には、米ソ冷戦時代、アイゼンハワー政権によって、1959年より2年半の歳月をかけて建設された巨大な核シェルターがあるという。

核戦争が起きた際、連邦議員など1100名を収容するための施設で、その存在は久しく国家機密にされていた。冷戦終結後の1990年代初頭に、グリーンブライアが管理権を譲渡されたとのこと。一時期、グリーンブライアがシェルターを「カジノ」に改装するとの方針を発表したそうだが、住民投票に破れ、実現は叶わなかった様子。

ちなみに、この核シェルター企画は"PROJECT GREEK ISLAND"と呼ばれていたらしい。クリスマスイベントのカタログに、"PROJECT GREEK ISLAND: The Bunker at The Greenbrier" (Historical slide presentation)とあったのを見たとき、「なぜに、ギリシャの島? 貯蔵庫?」と疑問に思ったものの、そのまま読み過ごしていた。

グリーンブライアのホームページによると、宿泊ゲストは、本来、地下壕のツアーに参加できるのだという。ただ現在は改修中のためツアーは行われておらず、スライドショーだけが毎日シアターで行われているとのこと。2006年の春から、ツアーは再開されるとか。

ツアーには参加できなかったとはいえ、スライドだけでも見ておきたかった。

 

●瞬く間に3度目の夜。心に深く刻まれた、2004年のクリスマスホリデー

そしてついには、最後の夜。食事はメインダイニングで、バイオリンとピアノの演奏を聴きながら。わずか3泊4日だったけれど、滞在中は朝から晩まで、目新しいことを体験できたのが、本当によかった。

今までは、旅に出るとどうしても欲張って、色々な町や色々な場所を巡ってしまい、その結果、疲れてしまうことが少なからずあった。けれど、こうして一箇所に滞在し、普段とは異なる空間に身を置けたことは、巡る旅とはまた異なる、いい経験だった。

夕食のとき、わたしとA男が出会ってから今年までの、過去8回のクリスマスを振り返ってみた。

すんなり思い出せる年もあれば、なかなか思い出せない年もある。特に2001年のクリスマスのことは、二人で一生懸命記憶をたどるのだが、どうしても思い出せなかった。テロの直後だったから、色々なことを忘れたい気持ちが働くのだろうか。結局、後日自分のホームページを遡るまで、思い出せなかった。

一方、もしかすると、米国で過ごす最後のクリスマスになるかもしれない、あまりにもアメリカ的だった今年のクリスマスホリデーは、これから先もずっと、鮮やかに、わたしたちの記憶に残ることだろう。

(1/14/2005) Copyright: Miho Sakata Malhan

 


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