坂田マルハン美穂のDC&NY通信

Vol. 128 2/7/2005 


Contents

●神様が、私をここに住まわせてくれている。

●私は27歳だけれど、もう、100年も生きている気がする。


ここ数日、寒さが和らいでいます。週末は、久しぶりに近所を散策しました。舗道の隅や、公園の植え込みや、日の当たらない軒先には、まだ白く凍った雪がところどころ残っていますが、枯れ果てた庭にもスイセンの新芽があちこちに頭を出しているのが見えました。

あと2カ月もすれば、色とりどりの花々が開花し始めるころとなります。今この瞬間の裸の木々を眺めていると、その短い間の変化が信じがたいことのように思われます。

この街で過ごす春は、今年が最後になるかもしれません。だからもう、まだ何の花も咲いていないうちから、あちらこちらへピクニックやドライブに出かけようねと、話し合っています。

ところで先日、過去に綴った物を整理していたときに、『muse DC』のインタビュー記事が目にとまりました。前々からホームページに転載しようと思いつつ、そのままにしていたので、今日は古い記事だけれど、ここでも紹介したいと思います。

一つはブラジルのサントスのこと。ちなみに彼女は自分のラストネームをファーストネームのように呼んでくれ、と言っていたので「サントス」と呼んでいたのだけれど、普通、苗字は、呼び捨てしませんので念のため。

彼女は当時、ちょうど60歳だったが、とてもそうは思えない、若々しさのある女性でした。

サントスのことは、以前、ちらりとメールマガジンでも書きましたが、インタビュー記事は『muse DC』に載せたきりだったので、できるだけ多くの方に読んでいただきたいと思い、ここに載せることにしました。

それから、コソボ出身の、フェリデのインタビュー記事。一昨年(もう一昨年になってしまった!)、語学学校でクラスメイトだった彼女のこともまた、非常に印象的なインタビューだったので、ここに転載します。

 

●神様が、私をここに住まわせてくれている。

【オドゥメア・サントス ODMEA SANTOS ブラジル・リオデジャネイロ出身】

オドゥメアは、1943年、四人姉妹の次女として、リオデジャネイロに生まれた。海軍に所属していた父親は家を空けることが多く、子供たちの面倒を見ることはほとんどなかった。

貧しい生活の中、母親は重病を患い27歳で他界。父親に子供たちを養育する力はなく、姉妹は長老(Presbyterian)教会の孤児院に託された。オドゥメアが5歳のときだった。

両親は共に孤独な身の上だったので、彼女らには親類がなかった。父親は12歳で軍に入隊したとき、家族との縁を切っていた。一方、名家の令嬢だった母方の祖母は、使用人と恋に落ち懐妊。生まれた娘(母)を、宝飾品と共に、遠方の知人に託したのだった。

オドゥメアたちが預けられた教会の孤児院は、敬虔なシスターと信者らによって運営されていた。シスターは、恵まれない子供たちを助けることを使命として、全身全霊を傾けていた。

「快適なベッド、やさしい人たち、シスターが作ってくれるおいしい料理……。孤児院での生活は、とても恵まれていました」

孤児院には、乳児からティーンエージャーまで、常に200人ほどの子供たちがいた。学齢の子供たちは学校へ通い、帰宅後は年下の子供たちの面倒を見る。みなが兄弟のように、助け合いながら育った。

孤児院の財源は、信者らの寄附だけに頼っていたため、多くを自給自足していた。自家菜園では野菜や果物を育て、衣類やリネン類も手作りだった。時折、大手スーパーマーケットが、たくさんの食料を寄附してくれるのを、子供たちは楽しみにしていた。また、信者であるドクターが回診してくれ、子供たちの健康も、保たれていた。

やがて、4人姉妹のうち、一人、二人と、養子にもらわれていった。オドゥメアもまた、9歳のころ、信者の家に引き取られた。

「その家庭には、3人の息子、3人の娘たちがいましたが、私は7番目の子供として他の子供たちと同様に育てられました。養父母はすでに他界しましたが、兄弟たちとは今でも連絡を取り合ってます」

オドゥメアは高校卒業後、不動産業の資格を取り、不動産会社に就職した。あるとき友人から、ブラジル大使館の秘書として渡米するから一緒に来ないかと誘われた。

「学生のころは英語が得意だったし、米国に興味があったけれど、まさか行けるとは思わなくて。本気にしていませんでした」

ところが話はトントン拍子に進み、ほどなくして渡米することになる。以降34年に亘るワシントンDCでの生活が始まった。

米国でも、彼女の拠り所は、毎週末訪れる教会だった。渡米当初は友人の家に居候していたが、数カ月後には新しい友人を通して仕事を紹介される。裕福なアルゼンチン夫妻の家に住み込んでの、ハウスキーパーの仕事だ。彼らには、一時就労ビザもサポートしてもらった。

あるとき、彼女の仕事ぶりを聞きつけた男性が、自分の実家の世話をしてほしい欲しいと頼んできた。ちょうど、アルゼンチンの夫妻が帰任するころだったので、時期もよかった。新しい仕事場は最高裁の判事とその妻、子供たちが暮らす家だった。

「あるとき、判事が私に、パスポートを持って来るよう言いました。米国で長く働けるよう、グリーンカードを手配してくれるというのです。あっと言う間に手続きをしてくれて。私はブラジルの米国大使館で面接を受けるだけですみました」

大邸宅で働くうち、インテリア・デコレーションの仕事に興味を持った彼女は、専門学校で学びたいと思った。しかし必要書類である高校の卒業証明書を入手することができず、断念。かわりにナースエイドになるべく、夜間学校に通い始めた。

やがて判事の家は、子供たちが自立し、彼女の手を要さなくなったため解雇された。その直後から大学病院で働きはじめた。

「仕事は主に深夜で、常に睡眠不足。小柄な私には、重い患者を抱える必要がある肉体労働はとても過酷でした。何とか5年間がんばりましたが、結局、やめました」

その後、レストランやケータリングの仕事を経て、大企業の経営者宅に、ハウスキーピングの職を得た。今日に至るまで、すでに14年以上、そこで働いている。

数年前、DCに腰を落ち着けようと、家を買う決意をした。その際、市民権を取るべきだと友人に勧められた。

「私はブラジル人だし、アメリカ人にはなりたくなかった。でも将来、市民権を持っている方が有利なことはわかっていました。あまり乗り気ではなかったので、実は面接にも予習をせずに出かけたのです。ところが、面接官がとてもフレンドリーに私を迎えてくれます。私は彼のことを知らなかったから、親切な対応に戸惑いました」

聞けば面接官は、オドゥメアのグリーンカードを手配してくれた「判事」を師と仰いでいた男性だった。彼女の書類に判事の名前を見つけ、面接を買って出たという。

「面接官は、判事がどんなにすばらしく、優秀な人物であったかを熱く語りました。僕たちは彼のもとで働いた仲間だね、なんて言いながら。あなたは当然、米国の国旗も、大統領の名前も知っているだろうから、面接はこれでおしまい。おめでとう。今、あなたは米国市民として認められました、と言われて、市民権を得たんです」

その直後から不動産会社を通して家探しを始めた。あちこちを探した結果、2年後の1999年、コネチカットアベニュー沿いに、2ベッドルームのいい物件を見つけた。

「部屋の間取りはよかったけれど、内装が古くて。でも、教会の友人たちが改装を手伝ってくれたお陰で、住み心地のいい部屋になりました。ゆっくりと一人の時間を過ごしたり、気兼ねなく友人たちを招ける『自分の家』を持てて、本当に幸せです」

米国在住だった妹は、数年前、他界した。ブラジルに住む姉たちは、各々の養父母が残した遺産で、つつがなく暮らしている。

オドゥメアは、もちろん今でも、毎週教会に通っている。教会には、母国語で語り合える仲間たちがいる。どんなときにも、教会は彼女の拠り所だ。

「あいにく男性運には恵まれなかったけれど、神様はいつも私を見守ってくれています。たまに一人暮らしは寂しいと思うこともあるけれど、不満を言えばきりがないでしょ。将来は、フルタイムの仕事をやめて、英語を勉強し直したい。もっと洗練された英語を話せるようになりたいの。今、コンピュータ関係の仕事に興味があるから、そのためにも早く勉強を始めなきゃと思っているところです」

(『muse DC』Vol.4/ 2003年夏号)

 

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●私は27歳だけれど、もう、100年も生きている気がする。

【FERIDE SHALA ROTHSCHILD フェリデ・シャラ・ロスチャイルド コソボ出身】

1976年、旧ユーゴスラビアのコソボの中心都市プリシュティナで、アルバニア人の両親のもと、フェリデは誕生した。父は大手電気会社のディレクターを務めるエンジニア、母は小学校教師だった。フェリデに続いて妹、3人の弟が次々に誕生、4人目の子供を産んだあと、母は仕事を辞めた。

経済的に恵まれた環境のもと、両親の惜しみない愛情を受け、子供たちは屈託なく、すくすくと育った。

「プリシュティナから車で30分ほどの村に別荘がありました。毎週末、家族でここを訪れ、森をサイクリングするのが楽しみでした」

長期休暇には、家族揃って旅行に出かけた。

「冬はスキー、夏はアドリア海沿岸のビーチへ行くのが定番でした。アドリア海の美しさといったら、それはもう、見事なんですよ」

近所の人々との絆も強く、みな顔見知りだった。時折、誰かの家に数家族が集まり、ガーデン・パーティーを開いた。パーティーの楽しみは、子供同士での遊びと賑やかな食卓。特に、炭火で焼かれるピザのような形のヨーグルト入りパン、Flijaは格別だった。

「Flijaはアルバニアの伝統料理で肉とも野菜ともよく合い、とてもおいしいんです」

勉強、スポーツともに一生懸命打ち込む活発な子供だったフェリデは、異国の文化に対する好奇心も強かった。両親から教わるアルバニア人の歴史を通して、自分のアイデンティティに向き合うことも少なくなかった。

一般に、アルバニア人はイスラム教徒、セビリア人はキリスト教徒と言われるが、フェリデたちは無宗教に近かった。それは長い歴史を通し、幾度も繰り返されてきた民族間の争いの結果だという。そもそも多民族が共存する共和国だったユーゴスラビアにおいて、「言語」と「名前」が民族を象徴する鍵だった。

ミロシェビッチが新ユーゴスラビアの大統領となった1989年、彼女たちの平和な暮らしに、影が差し始めた。ともすれば分裂しがちだった民族間を、かつては、チトー元大統領が、共産主義達成という目標のもと、連邦制で各共和国や自治州の権限を拡大、民族問題の調和を図っていた。だが、1980年のチトー死去以降、民族問題が頭をもたげ始めた。

やがて、新ユーゴスラビアの大統領となったミロシェビッチは、連邦を維持する方法として、600年前のセルビア王国の話を持ち出し「セルビア人はコソボを取り戻す権利がある」と主張、セルビア主導の国家実現を目指した。

セルビア南部に位置するコソボは、住民200万人中、9割以上がアルバニア人だということもあり、分離独立運動が活発だった。ミロシェビッチは大統領就任直後、コソボの自治権を剥奪、少数派のセルビア人を、コソボ独立の軍事的な反対勢力として育て上げた。

1990年、ソ連崩壊と同時に、コソボの状況は劇的に悪化し始めた。アルバニア人たちが虐げられる日々の幕開けである。彼らはこの年を境に、仕事、教育、人権を奪われた。フェリデたちも例外ではない。子供は学校を追放され、父は職を失った。

大人は、子供らにアルバニア人としての教育を受けさせようと、広い家の家庭が部屋を提供してプライベートスクールを開校、教師や教授らは、ボランティアで指導にあたった。フェリデたちは、プライベートスクールで高校、大学を卒業した。

「アルバニア語の教科書を持ち歩くことさえ命がけでした。町の至る所に警察のチェックポイントがあり、所持品を検査されるので、服の中に隠して持ち運びました。彼らに拷問、射殺されたアルバニア人は数えきれません」

父は食料品店を開業することで生活を維持した。銀行の預金は政府に横領された。生活のすべてが、くっきりと暗転した。

それまで真っ直ぐに育ってきたフェリデは、自分の身の回りに起こっていることの意味がわからなかった。同じアパートメントにはセルビア人も住んでいる。今までは挨拶をし合う隣人だったのが、ある日を境に、目を背け合う他人になった。子供たちさえも、彼女に笑顔を見せない。人生とはすばらしいものだと信じて育ってきた彼女に、取り巻く現実は余りにも大きな矛盾と衝撃だった。

「どうして私たちは、こんな目に遭わなければならないか。両親に、何度尋ねたかわかりません。そのたびに、両親は言いました。『敬われるためには、敬いなさい。愛されるためには、愛しなさい』と」 

セルビアの不条理な暴力に対し、しかしアルバニア人たちは武力闘争をしなかった。人々はコソボが平和的に独立することを望んだが、状況が好転する兆しは見えなかった。

暗澹たる歳月の最中、18歳の時、フェリデは最初の夫と結婚、翌年子供を産む。しかし1998年、22歳の時に離婚し、娘のエリタと二人で実家に戻った。アルバニア人の暮らしは年を追うごとにひどくなっていったが、彼女の両親はエリタに、あふれるほどの愛情を注ぎ、社会の翳りを見せることはなかった。

当時、家を奪われホームレスと化したアルバニア人も多く、彼女の両親は村にある別荘を約30人のアルバニア人に提供していた。ある時、父と二人で別荘へ食料を届けに行った帰り道、警察の検問に遭い、車を奪われた。別荘を見るのはその日が最後となった。

やがてアルバニア系のコソボ解放軍(KLA)とセルビア治安部隊との間で武力衝突が発生、紛争が激化し、ユーゴ連邦軍も介入。国際社会はユーゴ政府に和平案を提示したが受け入れられず、結果、翌年の1999年3月、北大西洋条約機構(NATO)が空爆を開始した。 

「空爆は毎晩のように行われました。その爆音たるや、すさまじいもので、とても眠れません。当時3歳だったエリタに恐ろしい思いをさせてはならないと、母はヘッドホンをさせ、クラシック音楽を流してくれました」

空爆開始後のある朝。アパートメントの回廊に、家族が集っていたときのことだ。突然、武装した覆面の男が5人現れ、「5分で家を出ろ」と命じた。大慌てで部屋に戻り、貴重品や衣類、食料をカバンに詰め込んだ。準備を整え回廊に戻った時、フェリデの手をふりほどき、エリタが一人で部屋に駆け戻った。

「その瞬間、娘が殺されてしまう! と、全身が凍て付きました。しかし彼女は、お気に入りの人形を手にして、すぐに戻ってきました。子供心に、どこか遠くへ連れて行かれることを察したのだと思います」

外へ出て愕然とした。通りにはセルビア兵らによって人垣ができており、延々と駅まで続いていたのだ。彼らの間を、アルバニア人たちが、黙々と歩いていた。

「これじゃまるで、ナチスの収容所に送られるユダヤ人と同じじゃない! 私は心の中で叫びました。まさに戦争映画のような状況に、自分たちが置かれていたのです」

当時、オーストリアへ留学していた弟一人を除く家族全員が、同じ列車にぎゅうぎゅう詰めに詰め込まれた。列車は1時間半ほど先のFerizajという駅で止まった。

「列車を下ろされた私たちは、身分証明書などの書類一切を没収され、焼かれました。その後、若い男性ばかりが72人、向こう側のホームに連れて行かれ、壁に向かって一列に並ばされました。その中に、当時16歳と18歳だった弟たちの姿がありました」

彼らを残して、列車はどこかへ出発しようとしている。フェリデは、いても立ってもいられなくなった。ずっと一緒に過ごしてきた弟たちと、絶対に、こんなところで別れられない。妹に娘を託した彼女は、列車を飛び降りた。兵士の銃口が彼女の首に向けられた。

「私は、兵士たちにわかるよう、セルビア語で叫びました。どうしても、弟たちと離れるわけにはいかない、どうすれば弟たちを解放してくれるのか、と。すると彼らは言ったのです。金を払えば解放してやる、と」

フェリデは大急ぎで家族からお金をかき集め、兵士に渡し、弟たちを連れ戻した。当然、他の家族たちも同様に取り戻そうと大混乱になったが、ついに列車は動き出した。その後、その70人が、家族と再会することはなかった。

「私たちは、家もお金も、思い出の写真も、何もかもを失いました。でも、命だけは残りました。もう、それだけで、十分でした」

列車はやがて、コソボとマケドニア間の緩衝地帯に停まり、アルバニア人たちは解放された。彼女たちと同様、国外追放、あるいは殺害されたアルバニア人は数えきれない。

「その夜、冷たい春の雨が降り注いでいました。父と弟たちが木の枝を集めやぐらを造り、その上に、いつも用意のいい母が持参していたビニールシートを被せて、雨を凌ぎました。母は数年前にがんの手術をしていて、体調が悪かったので、とても心配でした」

野宿が5日目となった日、マケドニアの戦士たちが120台のバスを伴いやって来た。彼女たちは再びバスに詰め込まれ、ギリシャに近いアルバニア南部の町に連れて行かれた。その日から、アルバニアでの、難民としての生活が始まった。

アルバニアの人々は、コソボからのアルバニア人たちを、まるで遠い親戚を迎えるように温かく接してくれた。難民生活の間、彼らから「難民」と呼ばれたことは一度たりともなかった。

アルバニアで、フェリデは米国の非営利団体Save the Childrenに属し、難民の世話や通訳を行った。緩衝地帯を歩かされたとき、線路脇に散らばっていた地雷に関心を持った彼女は、地雷を啓蒙する冊子も制作した。

そして3カ月後。一刻も早くコソボに戻りたいと思っていた彼女は、セルビア軍の撤退を知るや、Save the Childrenの職員らと共に、単身コソボへ向かう。国境を超え、コソボの領土に入った瞬間、涙があふれて出て止まらなかった。

アパートメントは案の定、がらんどう、玄関のドアさえなかった。近所のアルバニア人たちが、すぐに材料を集め、ドアを取り付けてくれた。

1週間後、家族も帰って来た。留学していた弟は学校をやめ、使わずにいた学費を携え戻って来た。フェリデはコソボでも数カ月、Save the Childrenの仕事をしたあと、国連に職を得、地雷関係の仕事に関わった。

2000年4月。いつものようにオフィスで仕事をしているフェリデのもとへ、地雷について知りたいと、ザックという米国人男性が訪れた。国際機関に働く彼は、流暢なアルバニア語を話し、彼女を驚かせた。打ち合わせのあと、ザックはフェリデをランチに誘った。

「外国人と食事をするのは、その時が初めてでした。緊張したけれど、話が合って、この人とはいい友達になれると直感しました」

やがて二人は付き合い始め、翌年の夏、ザックはフェリデにプロポーズする。フェリデの家族も、米国に住むザックの家族も、二人の幸福を祝福してくれた。

2002年8月、ザックの故郷であるミネアポリスで結婚式を挙げたあと、エリタと3人で欧州へ新婚旅行に出かけた。その後、3人はザックの学業のため、ワシントンDCに移る。将来、国際機関で働こうと考えているフェリデは、現在、より高い英語力を付けるための勉強をしている。

「世界を少しでもよくするために、何かをやりたい、というのが私たち夫婦に共通する希望です。私は今、27歳だけれど、もう、100年も生きている気がします。短い間に、いろいろなことがありました。説明のつかない運命的な出来事が重なって、今、私がここにいます。そこには、人為の及ばない、神の力が働いているとしか、説明しようがありません」

今、彼女のお腹の中には新しい命が宿っている。来年の春、彼らは4人家族になる。

(『muse DC』Vol.5/ 2003年秋号)

(2/7/2005) Copyright: Miho Sakata Malhan

 


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