坂田マルハン美穂のDC&NY通信

Vol. 134 4/29/2005 


●10年ぶりの英国。今また、ひとつの大きな転機。
●そして、A男にとっては9年ぶりの英国。
●そして10年前の体重に戻りつつある!


春真っ盛り、色とりどりの花が咲き、新緑が芽生える、ワシントンDCが一年で一番美しい季節の、今、ただ中にあります。

去年の今ごろは、インド行きや日本行きで留守にしていて、このすばらしい時期を見逃していたせいもあり、今年はこの春の輝きを目にすることができることを、とてもうれしく思います。

太陽の光が降り注ぐ日には、家に籠もっていることができず、用事がなくても外へ出て近所を散歩しています。

ところで、英国10日間の旅行は、予想していた以上にいい旅でした。ロンドンの町歩きはもちろん、コッツウォルズという田園地帯へのドライブ旅行も楽しく、おいしい食事にも恵まれ、とても仕事のついでの休暇とは思えない充実ぶりでした。

旅の写真日記を、またホームページにまとめましたので、ぜひご覧ください。インド旅とは異なる欧州の魅力が散りばめられているかと思います。

 

●10年ぶりの英国。今また、ひとつの大きな転機。

英国を訪れるのは1995年の春、フリーランスのライター兼編集者となって丸2年が過ぎた、29歳のとき以来だった。会社員時代から海外取材の多い仕事をしていたが、フリーランスになってからもより一層、公私ともに積極的に外へ出ようとしていた。

取材にせよ、休暇にせよ、そこが英語圏でない国だとしても、海外に出るときに英語力は必要となる。それまでは行き当たりばったりな「体当たりイングリッシュ」でその場を凌いできた。今考えると冷や汗が出るほど、「身振り」と「勘」が頼りの、それはひどい英語だった。

その前の年に3カ月の休暇を取り、一人で欧州を旅したが、その際に出会った人たちとの会話も、語学の壁があり、どうしても浅薄になりがちだった。旅に出たいという欲求と反比例するように、コミュニケーションを図れないもどかしさが募った。

インタビューなどの取材の折には通訳を依頼することもあったが、簡単な取材は予算の都合上、通訳を雇えない場合が多かった。将来の仕事の幅を広げるためにも、そして自分自身の世界を広げるためにも、英語力の向上は当時のわたしの大きな課題だった。

東京にいながらにして英語学校に通うことも考えられたが、仕事と勉強の両立を器用にできるような状況ではなかった。急ぎの仕事が舞い込めば、どうしたって仕事を優先させてしまう。そんなことから思い切って3カ月間、英国へ語学留学することに決めたのだった。

行き先は、敢えてロンドンを避け、英国南部の海辺の町、ワージングを選んだ。都会は誘惑が多いから、勉強に専心できないだろうと思ったのだ。その、静かすぎるほど静かな海辺で3カ月を過ごすうち、わたしは閃いたのだった。

3カ月間だけでは語学力の大いなる向上は望めない。来年は1年間、留学しよう。しかも、こんなコンサバティブで退屈な場所ではなく、もっと賑やかで楽しい場所で。そうだ、ニューヨークがいいかもしれない。ニューヨークへ行こう。

この経緯は『街の灯』にも記しているので割愛するが、それにしても当時のわたしは、今にも増して、感覚や閃きで物事を決めていたように思う。ともあれ、10年前の英国滞在は、翌年のニューヨーク行きにつながる大切な経験だったのだ。

1985年、20歳の夏。米国での1カ月のホームステイが大きな転機となって、将来の方向性を考え直した。その10年後の1995年。英国での語学留学で、ニューヨーク行きという再びの大きな転機。更に10年後の2005年現在。新たな岐路に立っている。

20歳から30歳までの10年は、一人で走ってきた。31歳から今日までのわたしは、A男と出会い、主には二人で歩いてきた。同じ10年の歳月でも、その種類と重みはまったく異なる。そのことを、旅の途中、折に触れて吟味せずにはいられなかった。

ところで、英国留学中の出来事のなかで、印象的なエピソードがある。

ある金曜日の夜、学校の仲間たちと、チャイニーズを食べに出かけた帰りのことだ。有名大学に在学中の19歳の男の子が、かわいらしい笑顔で屈託なく話しかけてきた。彼はジャニーズ系のチャーミングな顔をした、実際、小柄でかわいい青年だった。

「ねえ、坂田さん。坂田さんが、自分の将来に見切りをつけたのって、何歳のときですか?」

わたしは、一瞬、意味がわからなかった。少なくともわたしの世界にはない、それは異次元の質問だった。そのとき、わたしが自分がなんと答えたのか、よく覚えていない。

彼には何ら悪気はなく、単なる好奇心から、10歳年上の女性に、フレンドリーに尋ねたのだ。彼にとって10歳年上の女性はもう、すでに人生に何らかの見切りをつけていて然るべきと思ったのに違いない。キャリアにせよ、恋愛にせよ。

つまり日本では、29歳ともなると、もう自分の人生の方向性というものが確定されていて、あるいは確定していて、それに沿って歩んでいくというのが、少なくとも若い人たちにとっての将来像であるのかもしれない。

無論これは十年前の話で、今となっては事情もかなり違うだろうけれど。

そういえば、別の男の子はこんなことを言っていた。ラグビー選手の彼もまた、日本の有名な大学に通っている学生で、長身の格好いい青年だった。彼もある日、パブからの帰り道に、半ば吐き捨てるように言ったのだ。

「僕の人生で、多分この3カ月が最初で最後の、海外で過ごせる自由な時間なんですよ。帰国したら、また大学に戻って、就職活動して、就職したら仕事仕事で、結婚して、子供が産まれて、もう、自由な時間なんて、ずっとないから」

それを聞いたわたしは、驚きに目を丸くして言ったものだ。

「あなた、今時の顔して、なに古ぼけた親父くさいこと言ってるの? もったいないじゃない!」

今思えば、彼らが想像していた世界もまた、歴然として存在する世界だ。しかし、そうでない世界もまた、ある。29歳になったところで、39歳になったところで、「見切り」をつけるどころか、探し続けている人もいる。

どちらが正しいとか正しくないとかではない。人それぞれに、それぞれに似合う道、望む道、願う道、進む道があるのだ。

わたしは自分に似合う道を、見つけだし、歩いていくばかりだ。

あれから10年たった今、彼らはどうしているだろう。

 

●そして、A男にとっては9年ぶりの英国。

ロンドンは、A男にとっても縁のある場所だ。

わたしたちがマンハッタンで出会った1996年の夏、彼はマッケンジーというコンサルティング会社に勤めていた。当時、ロンドンに本社を持つクライアントの仕事をしていたため、しばしばロンドンへ出張していたのだった。

「質素倹約」だったわたしの旅とは大いに異なり、彼は23歳の身空で、出張はファーストクラス(コンコルドに乗ることさえ許されていた!)、高級ホテルに滞在、毎晩高級レストランで晩餐(この時期を境に肥満化)という旅だったようだ。

そんな一見派手そうな世界に身を置いていながら、その時期の彼の精神状態は、とても不安定だった。ひとり暮らしの寂しさや仕事のストレス、慣れないマンハッタン生活への不安などから、軽い鬱状態に陥っていた。

「あのころの僕は、チミ・チャンガと、ガーリック・シュリンプばっかり食べてたからねえ……」

夜、仕事を終えて帰宅する。たまに同僚と会社近くの「寿司清」で夕食を食べることもあったが、たいていは出前だった。

どんな料理がおいしいのか、積極的に試す熱意も、当時の彼にはなく、だから毎日、メキシカンのチミ・チャンガ(ブリトーを揚げたような食べ物)とチャイニーズのニンニク&エビの炒め物の出前を交互にとっていたのである。

そんな寂しい彼のもとに、まるで天使のように舞い降りたのが、このわたしだったのである。厚かましいのである。

さて、そんなわけで、彼にとっても、9年ぶりのロンドンは、自分の社会人生活を振り返るいいきっかけになったようである。

我々は、噛み合わない互いのロンドンの記憶をすりあわせながら、ついには「初めて訪れる場所」であるかのような心境で、旅をした。

今回、A男は、英国を拠点にインド投資を試みるインド系英国人らと会う機会があったが、ビジネスそのものだけでなく、国の違いによる「ビジネス文化の差異」についても、学ばされる部分が多かった。

米国と英国の差異、英国とインドの差異、そして米国とインドの差異。それぞれの差異を越えて、彼が今後どのような立場で、将来インドのビジネス界に接近して行くのか。

データを読むのはたやすくても、人を読むのは難しい。そのことを、彼は今回痛感しているようだった。A男の、我々の模索は、まだまだ続いていく。

 

●そして10年前の体重に戻りつつある!

話題激変。

今、わたしの机から見える壁に、筆ペンで大きく「縦書き」でしたためた紙が貼られている。

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十年前の体型

目標○○キロ

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わたしは昔から、何かと決意を「書」にしたため、壁に貼り、自らを鼓舞する傾向がある。古くさいタイプの人間である。

日本にいるころから、日本基準による「小太り」状態ではあった。それが渡米以来、徐々に体重が増加し、合計7〜8キロ前後太っていた。「中太り」状態である。

米国ではご存じの通り、過激に肥満な人々が多いから、どうにも自分の状況に切迫感がなかった。いつかも書いた気がするが、日本にいたならば「入る服がない」という非常事態に陥るため、何としても痩せようという気にもなるだろう。

しかしこの国で、わたし体型(身長166センチ、体重は重く、靴のサイズ24.5センチ)は本当に「標準体型」なのである。だから、最も品揃えの多い洋服のサイズ(8号)がちょうどぴったりで、だから、切迫感もなかったのである。

この9年間のうち、一度だけ、少し減量した時期があった。6年前だったか、一時期セントラルパークをジョギングしていたときだ。ジョギングは痩せる。食事制限をせずとも痩せる。

しかし、わたしはジョギングで持病の腰痛を悪化させてしまった。以来、走ることはやめ、痩せることへの熱意も失せた。

ところが、今年に入って、なぜか心境が変わった。今年は40歳になる。このまま「おデブなおばさん」路線に突入するのか、あるいは「すらりとしたマダム」に路線変更するのか。

ここ数年、わたしも人並みに、加齢による「たるみ」などが気になり始めてきた。ヨガをしているから身体はそこそこ引き締まっている気はしていたが、でも、寄る年波には勝てない。全身に亘り、引力に引きつけられている。

「すらり」とまでなれるかどうかはさておき、せめて「おデブ」は避けたい。痩せればたるみも少しは解消されるはず。

それに加え、A男との「見た目年齢のバランス」についても、ちょっと気になり始めたのだ。

出会った当初は、彼の方が顔が濃いし、ぽってりしていて、「年齢不詳……だけれどおじさん?」みたいな風情だったから、わたしの方が若く見られることもあった。ところが歳を重ねるほどに、状況が変化してきたのだ。

彼がここにきて、あまりおじさんぽく見えなくなったのである。というのはわたしの思いこみかもしれないが。

徐々に、わたしの立場は、「年下?」から「同じ歳くらい?」に移り、「ちょっと年上?」から、実年齢通り「かなり年上?」という風に、見えるようになってきたのだ。事実とはいえ、それは結構「いやな感じ」なのである。

最近では油断すると、それはわたしの「貫禄」のせいもあるかもしれないが、「姉と弟」から、選ぶ服などを間違った日には、ときに「母と息子」的な状況に陥ることもある。精神面はさておき、見た目まで「保護者化」するのはいやなのである。

だからって、無理に若作りしては、むしろ裏目に出る。若作りというのは、若くないからすることであって、それは無理をしていることが見え見えで、不自然なのである。と、あれこれ言ってはみるが、具体的な対策があるかといえば、ない。

なるだけ自然に、若作りではなく「若々しく」「はつらつと」していられるために、わたしはどうすりゃいいんだろう。鏡を見つめて考えた。そして出た結論は「贅肉を落とすこと」であった。

前置きがやたらと長くなったが、そんなわけで、1月末より「1カ月に1キロ減量」決意して、この3カ月間で4〜5キロ落としたのである。目標値まではまだ4〜5キロあるが、ぼちぼち近づいていこうと思っている。

そこで、減量方法である。あれこれ考えたが、最もシンプルで無理なく続けられる方法を取ることにした。

それは、1日に摂取する熱量を1500kcal程度に押さえた栄養バランスのよい食生活を心がける、ということだ。食べたものを記録するなど面倒なことは一切やらない。ただ、食べ物のおおよそのカロリーを頭に入れておいて、ともかくは「食べ過ぎない」ことに気を付ける。

今までも、一応、食べ過ぎないよう心がけた食生活をしてきた。しかしそれでも太ってしまった。米国生活で、ボリュームの視覚的感覚が麻痺してしまったから、まずはそこから改善することにした。

ともかくは、巨大な皿の使用を避け、日本並の食器に、なるだけ少なめに盛る。そしてゆっくり、味わいながら食べる。

具体的には、肉と炭水化物の量を今までより意識的に減らし、野菜の量を増やしている。そして水をたっぷり飲む。おやつなどは食べている。たとえば一日にチョコレート一粒とか、アイスクリームを1スクープとか。

甘いものを完全に避けるとか、油脂分を減らすとか、極端なことをやっても続かないし、おいしい料理も食べたい。つまりは「量より質」を意識するようした。そうしたら、少しずつ、痩せてきたのである。

わずか4〜5キロの減量でも、身体が軽くなったのがわかる。首筋の贅肉がとれたので、「おばさんな貫禄」が緩和された。気がする。こんなことなら、もっと早く努力するんだったと悔やまれる。輝かしき30代を「中太り」で過ごして、実に惜しいことをした。

この調子で行けば、この夏はビキニが着られそうである。というのは調子に乗りすぎである。

そんなわけで、今年は心身共に、より身軽になって、軽々と羽ばたきたいと思う昨今である。

 


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