坂田マルハン美穂のカリフォルニア通信

Vol. 140 8/17/2005 


●8月3日午後、3年ぶりに降り立った東京は熱帯だった
●六本木の友人宅へ。12年の歳月を、距離を隔てて、また新しいことを
●銀座を歩き、デパートを巡る朝。さまざまな過剰にやられる朝
●モンゴルで出会ったS君とランチ。そしてニューヨーク時代の友人Mとお茶
●そして新宿副都心へ。仕事の会合の後、表参道でDC時代の友人と夕食
●ひたすらに銀座を歩く一日。夜はニューヨーク時代の仕事仲間&その家族と夕食
●日比谷で過去を偲んでのち、三軒茶屋の友人宅訪問
●山手線に揺られて鶯谷へ。魚のおいしい小料理屋で生ビール飲みつつの夜
●そして1年ぶりの福岡へ、母を迎えに

1週間の短い日本滞在を経て、9日火曜日に米国へ戻ってきました。短いながらも濃密かつ有意義な日々でした。

もう数日、東京滞在を延ばしてもよかったのですが、9日はA男(夫)の誕生日でしたので、良妻としては祝福せずにはおられず、間に合うように帰国した次第。彼の好物のカステラ(福砂屋)を誕生日ケーキ代わりに祝いました。

「おいし〜。このカステラは高級だね。スポンジがしっとりとしているし、それにほら、底の部分のナッツが香ばしいしね!」

……。ナッツじゃなくて、砂糖(ざらめ)なんですけどね。グルメなのだか味音痴なのだか怪しいにもほどがある彼も、ようやく33歳。

今、新しい会社で、人生の新たなる壁にぶつかりまくっていて、毎晩のように仕事についてのあれこれをかなり激しく議論しあう日々で、この先インドへ行くのやら行かないのやら、それなりに荒波状態です。

しかし、実際のところは、プールで泳ぎながら、とか、ジャクージーで湯に浸かりながらの会話で、つまりは概ね極楽状態の中に於ける「荒波」ですから、妻としては不平など言ってはいられません。

蒸し暑い東京で窒息しそうになりながら、「まだまだ、わたしもがんばらんとな」と、思いました。

さて、シリコンヴァレーで過ごすこと1週間。快適な天候に、母はすっかり溶けこみ喜び、のんびり〜と過ごしています。ニューヨークともワシントンDCとも違う、カリフォルニアの青い空。乾いた空気。呑気な環境。地震やら暑さやらで疲れた心身を、ここでゆっくりと癒してのち、帰国してもらえればと思います。

さて今日は、日本での出来事を、書こうと思います。

 

●8月3日午後、3年ぶりに降り立った東京は熱帯だった

8月3日、午後3時ごろ、サンフランシスコ発全日空便にて成田に到着。入国審査を経て荷物を受け取り、まずは携帯電話を借りる。1日250円プラス保険1日100円。発信1回80円で受信無料。想像していたよりも安い。つくづく便利な世の中だ。

銀座にあるホテルに向かうべく、リムジンバスで都内に出る。車中ではテキサスから来たアメリカ人のグループと一緒になる。隣席に座っていた老齢の夫人の話によれば、彼らは教会仲間で、うち一人が日系人の女性であり、彼女がコーディネーターを務め今回の旅が実現したという。東京、広島、仙台、京都を2週間で巡るらしい。

後の席から小さい女の子が、車窓からの風景に感嘆の声を上げながら母親と話をしている。木を見ても、瓦屋根の家を見ても、何を見ても、彼女の目には珍しい。

「あの子は、中国から養女としてもらわれてきたの。利発ないい子なのよ」

彼らも教会仲間らしく、老婦人がわたしに耳打ちをする。

「ママ〜。あの建物はなに?」

「レインボーホテルって書いてあるわね。カラフルできれいね。日本には小さなホテルが多いのね」

成田界隈のラヴホテル。本当に、なんとかならないものだろうかと、通るたびに思う。それが日本らしさだ、といってしまえばそれまでだけど。

帝国ホテル前でバスを降り、数分歩いて予約していたホテルへ。余りの部屋の狭さに愕然としながらもシャワーを浴び、今夜会う約束をしている友人に電話を入れる。

 

●六本木の友人宅へ。12年の歳月を、距離を隔てて、また新しいことを

東京時代の友人、さか江さんと会うのは3年ぶり、『街の灯』出版の折に帰国して以来のことだった。

http://www.museny.com/essay%26diary/mag80.htm

彼女、カマーゴさか江さんとのことを、今まで何度か書こうと思いながら、結局書かないままで来てしまった。共通の友人を介し、彼女と初めて出会ったのは、わたしがフリーランスのライター兼編集者になったばかりの27歳のときだった。

コロンビア系アメリカ人の夫を持ち、在日コリアン二世である彼女は、実姉である作家の李良枝(Lee Yangji:『由煕』で第百回芥川賞受賞)と共に、1991年、『We're』という在日外国人向け四カ国語生活情報誌を創刊した。

ところが、良枝さんは37歳の若さで急逝。すでに二人の兄を失っていたさか江さんにとっては、どれほどの衝撃、どれほどの悲しみであったろうか。傍観者が語るに難い困難な状況の中、しかし彼女は逞しく、日本語、韓国語、中国語、英語で構成されたその情報誌の出版を続けてきた。

そもそもはプロの編集者でなかった彼女が、広告営業をしながら発行を維持していくことは、決してたやすいことではなかった。わたしは良枝さんが亡くなった翌年、彼女のオフィス、ザ・サードアイ・コーポレーションで、『We're』の編集作業に携わるようになった。

新宿の新大久保にあるザ・サードアイ・コーポレーションに出入りするようになり、わたしは東京にいながらにして、世界の声を聞くことができた。マレーシア人、ミャンマー人、中国人、韓国人、米国人、イタリア人……、世界各国から集まる人々と言葉を交わし、彼らの文化を、考えを知り、知らず知らずのうちに、わたしは多くを学んでいた。

結局、資金繰りが付かず、わたしが関わって1年足らずで『We're』は休刊してしまった。その後、彼女は妊娠し、二人の子供に恵まれ、しばらくは育児に忙殺されていたようだが、ザ・サードアイ・コーポレーションを翻訳会社として、仕事を続けていたようだ。

そんな彼女からつい先月、久しぶりにメールが届いた。「また一緒に仕事がしたいね」とあった。今度は「紙」ではなく「ネット」上での仕事を。

当時、彼女の自宅もまた新宿の大久保にあったが、数年前、六本木に移転した。明治屋の裏側という非常に便利な場所に、すてきな一軒家を建てていた。六本木ヒルズに勤務する夫は(多分)残業で、子供たちは米ユタ州にて、1カ月間のサマースクールを過ごしている最中だという。

彼女が連れていってくれた品のいい日本料理店で、久しぶりに二人での夕食。互いの近況を報告し合い、どういう仕事をしていこうかを語り合う。『We're』が休刊してから早12年。あのころのわたしは、12年後の自分の姿を、まったく想像できずにいた。

そんな歳月の隔たりを超え、物理的な距離を超えて、また瑞々しい気持ちで、新しいことを始めようと思えるわたしたち。そんな思いが存在していることを、そしてそれを実現しよういう衝動があることを、とてもありがたく、また幸せなことと思う。ぜひとも、形にしたいと思っている。

 

●銀座を歩き、デパートを巡る朝。さまざまな過剰にやられる朝

8月4日朝。ホテルで朝食をすませた後、午前中は、銀座の町を散策する。噂通り、確かに東京は蒸し暑い。しかし、夏のニューデリーやムンバイ(ボンベイ)を経験している身としては、さほどの苦しみではない。が、そもそも、東京の夏を語るのに、インドを引き合いに出すこと自体、間違っているとも思う。

10時の開店と同時に三越デパートに入る。45度より遥かに深い、75度にまでも達していようかと思われる角度にてのおじぎに迎えられ、もう、どう反応していいものやらわからなくなる。おかしさが込み上げくるが、これも数日ののちには、なんとも思わなくなるのだろう。

毎度、帰国するたびに、しげしげと見つめるのは、「日本ならでは」の商品が陳列されている場所。まずはハンカチ売場。買わないけれど、その滑らかな布を手にとって眺めたりする。日傘、雨傘のコーナーの充実ぶりも日本ならではだ。

そして、毎度、目が眩むデパートの地下街へ。毎回毎回、来るたびに、新しいお菓子やケーキが誕生していて、「目移りする」の域を超えた品揃えである。「デパートの地下の食料品売場は現在の日本を象徴する場所のひとつ」と言って過言ではないだろう。

常に新しさを追い求める。几帳面に陳列する。世界各国の一流ブランド菓子を取り揃える。照明の輝きは、過度にまばゆく。小さく切りそろえられた試食品。必ずカバーに覆われていて清潔。過剰なほどに美しく、丁寧に、器用に包装する。何もかもが、このうえなく、日本だ。

やがて、何を食べたいのやら、何が買いたいのやら、わからなくなってしまう、必要以上に豊かな品揃え。膨大な選択肢。

無論、わたしは何を買うつもりもなかったが、菓子ひとつを選ぶにも、選択肢が多すぎるというのは、結構疲れるものだと感じた。優柔不断な人などは、無意識のうちにストレスを貯めているのではなかろうか。

パンコーナーの充実ぶりにも目を見張った。かつては菓子パン主流だった日本のベーカリーも、シンプルな味わいの欧州的パンが並んでいる。しかし、それらはどの国のパンよりも、整然と美しく並べられていて、最早、デコレーションのようである。

後日、コンヴィニエンスストアに入ったときにも、その飲食物の多彩さに目を見張った。こういう目まぐるしい商品の移り変わりは、果たして「楽しいこと」「うれしいこと」「豊かなこと」「幸せなこと」なのだろうか。

ある一定のラインを超えてしまうと、それは企業間の競争に消費者が巻き込まれているようにしか見えない。飽和点を遥かに超えている気がする。何年も同じ商品が陳列棚に並ぶ国になじんだ身にとっては、好奇心を通り越して、むしろ「焦燥感を煽られる」ような思いだ。

 

●モンゴルで出会ったS君とランチ。そしてニューヨーク時代の友人Mとお茶

さて、ランチタイムは六本木一丁目へ。乗ったことのない地下鉄「南北線」で向かう。大学を卒業してから30歳までの8年間、東京に暮らしていて、地下鉄を乗りこなしていたはずなのに、もうその路線図の込み入ったさまに目が眩む。

お札は新しくなっていて、切符を買う機械も新しくなっていて、乗り継ぎなど何だのと難解なそれを一つ一つ確認しながら、切符を買うにも集中力が必要だ。

六本木一丁目の駅は真新しく、やはり真新しい駅前のビルディングのレストランで、ランチをとる。外資系企業勤務の、有り体の表現をすれば「エリート」なS君とは、渡米してからも時折、顔を合わせていた。

といっても、彼が出張でニューヨークに来たときに1度、わたしが帰国したときに1度、そして彼がDCにやはり出張で来たときに1度、という程度だが、A男とも顔なじみで、さほど時を隔てたようには感じない。

彼の二人の娘は小学生で、その成長を聞くと、歳月の流れを実感する。二人で話をしていれば、モンゴルで出会った15年前とさほど変わりのない風情であり、気分であり、特に別の土地から舞い降りてきたわたしにしてみれば、東京のすべてが10年前と直結している気分になる。

しかし、それは明らかに思い過ごして、同じ歳である彼もわたしも、最早40歳であることは、会話の端々にこぼれ落ちる。とはいえ、その月日の重なりを、心地よいものに思えるのは、わたしが、そして多分彼も、現状に不満を抱いて生きていないからだと思う。

彼との食事を終えた後、今度はニューヨーク時代の友人Mちゃんと会うために麻布十番へ。互いに時間の合間を縫っての会合となり、待ち合わせの場所もよくわからず、結局は駅前のウェンディーズで落ち合った。

彼女はヘアメイクのアーティストで、著名な雑誌の仕事を一手に引き受ける多忙な身の上だ。そんな彼女が「ちょっとだけでも会おうよ」と時間を割いてくれたのはうれしかった。彼女の夫はインドに関心があり、以前、A男と4人で食事をしたときは、サイババに会いに行った話しなどをしていた。

そんな彼と彼女は去年、インドへアーユルヴェーダやヨガを体験しに行ったらしく、そのときの話で盛り上がる。互いに3年以上連絡を取り合っていなかったから、同時期にインドに行っていたにも関わらず会わなかったことを悔やみながら、連絡はこまめに取り合うべきね、などと思う。

1カ月前、彼女の父が癌を患っていることが発覚し、医師から余命数カ月と告げられたという。忙しい彼女の身の上が、いっそう慌ただしくなっている様子だ。後半は主には病の話となり、わたしがわかる限りの前向きな情報を伝える。

家族が病に倒れると、人生の、生活の優先順位が大きく入れ替わる。憂いと痛みの中にある彼女の姿を見て、父を失ったわたしは、すでにもう、大きな一つを乗り越えたのだという、安堵感をさえ、覚えた。それほどに、家族の病というものは、心に重すぎる出来事である。

喫煙コーナーからの紫煙がたなびき、時に揚げ物の油臭が立ちこめてくる、無闇に日当たりのいいウエンディーズの2階席で、わたしたちは額に汗を滲ませながら、しかし場所を変えることもせず、ひたすらに、話し続けた。

 

●そして新宿副都心へ。仕事の会合の後、表参道でDC時代の友人と夕食

麻布十番から今度は大江戸線で西新宿の都庁前まで行く。大江戸線もまた、新しい地下鉄の路線だ。階段を上り、地上にあがれば、咽せるような蒸し暑さ。すばやくビルディングの中に入り、涼と取る。

待ち合わせをしているのは、初めて会う女性Mさん。カリフォルニアに移った直後、友人を介してある仕事を紹介された。日本の某企業により、アメリカの旅行や留学情報のサイトが近々立ち上げられるとかで、そのカリフォルニア情報を提供するガイドとして仕事を依頼されたのだ。

あとどれくらいこの地に住むかわからないのだが、それでも構わないとのことなので引き受けた次第。彼女と待ち合わせのカフェでしばらく話しをしたのち、共にクライアントへ挨拶へ行く。思えば日本の会社を訪問するというのも久々のことで、現れる人、現れる人、おじぎをしながら次々に名刺交換をし合うというのも、懐かしい行為だ。

わたしの名刺、Mさんの名刺、クライアントの名刺、そして制作会社の名刺、四者の名刺がすべてオレンジ色を基調としていたことに、「ご縁」を感じた。

さて、打ち合わせを終えた後は、再び地下鉄で表参道へ。表参道は東京時代、好きな場所でしばしば訪れていた。しかし町の様子は、あのころとは随分変わっていた。何しろ「高級ブランド」の店が増えている。それは、他の先進諸国の新しい街との共通点が増やすばかりで、美しくはあるけれど、面白みはない。

カフェで待ち合わせをしているのは、DC時代、ジョージタウン大学の語学学校でクラスメイトだったKさんだ。彼女は数年前、ジャーナリストである夫の赴任に伴い渡米した。彼女は出会ったばかりの友人だと感じていたけれど、すでに最初の出会いから2年がたとうとしている。

昨年、帰国した彼女は、最近、某国大使館に勤務し始めたとのこと。彼女が下調べをしておいてくれたイタリアンで、夕食を食べながら、数カ月ながらも充実していた「学生時代」を振り返る。

少々、気取った店にも関わらず、語学学校の思い出話を始めたところ、たちまち箸が転げてもおかしい年頃の女子と化し、何かと言えば大笑いで、周囲を憚りつつも笑いをとめられず、学校という場所で出会ったからこそ、気分まで学生時代に戻るのかしらん、などと思う。

バスルームで鏡を見たとき、目の下にくっきりと笑い皺が刻まれているのを見つけて、おののいた。

 

●ひたすらに銀座を歩く一日。夜はニューヨーク時代の仕事仲間&その家族と夕食

8月5日。今日のランチは友人と会うつもりで空けておいたが、予定が合わなくなり、フリーとなった。夜までは銀座界隈を歩くことにする。

一眼レフのデジタルカメラを買おうと思っていたので、ビックカメラに行ってみる。デジタルカメラは米国にも売っているが、日本の方が品揃えが豊富だし、スタッフの知識も豊かそうなので、日本で買った方がいいだろうと思っていたのだ。

色々な機種を持ち比べ、使い勝手を確認しながら、「これだ」というものを選んだものの、海外では保証がカヴァーされないとのことなので、結局は同じ物を米国で買うことにした。同じ日本のメーカーの同じ機種でも、米国では違う名称、品番になっているのがややこしい。

ともあれ、蒸し暑い街へ再び繰り出し、書店で長々と立ち読みをしたり、あちらこちらのデパートやらブティックを眺めたり、どこでランチをとろうかと彷徨ったりする。「日本で日本の料理を食べる機会はないのだから、なにかおいしいものを」と思えば思うほど、何を食べていいのかわからず、銀座だから天ぷらかしら、とも思うが、この蒸し暑さに天ぷらは暑苦しい。

「マリアージュ・フレール」に入ったものの、いやここは日本的ではないし、と店を出て、しかし定食屋などは雰囲気も今ひとつ、結局、歩き回って「アフタヌーンティー」でおいしいサンドイッチでも、と思ったが、ベーカリーは改装中。

くたびれ果てて、他を探す気力もなく、2階の和食屋でうどんのセットを食べる。「アフタヌーンティー」でうどんとはこれいかに。という感じだが、頭の中の食欲と、胃の食欲が調和せず、妙なところで落ち着いてしまった。それなりにおいしかったが、特筆すべき味ではなかった。

午後もまた、デパートを巡る。わたしは今年に入って渡米前の体重近くにまで戻したから、この間、来たときよりは入る服もあろうかと、婦人服売場を巡るものの、どれもこれも子供服みたいに小さくて呆れる。婦人服売場も、「若者向け」はどれもピチピチ小さくて、話しにならない。

上階の「年輩者向け」ブティックへ行くと今度は、途端にデザインがやぼったくなる。ウエストラインがもったりとしていたり、Tシャツの袖口が長かったり……。何も若作りしようというわけじゃない。着たい衣服を着たいだけだ。なのにそれらが皆、細すぎる。昔から、こうだっただろうか? わたしには昔から、入る服がなかったのか?

今時は背の高い人も多かろうし、少々肉付きのいい人だっているだろう。そういう人たちは、おばばっぽい服を着るしかないのだろうか。不思議でならない。

不思議といえば、あれだけたくさんの食べ物があふれていて、それらが消費されていて、なおかつ太った人が少ないというのも、よくわからない。

夕方には、ホテルでもらったチラシで見つけた「烏來(ウーライ)」という台湾式リフレクソロジー&マッサージのサロンへ行く。とはいえ、台湾ではなく中国本土から来たという日本語が片言の中国人男性に足裏をマッサージしてもらう。

これがまた、かなり巧みな腕前で、施術中は結構痛くはあるものの、足の疲れがすっきりと取れた。ホテルに戻り、シャワーを浴びて着替えた後、友人らと待ち合わせのレストランへ向かう。

銀座のイタリアンで待ち合わせていたS氏は、ニューヨーク時代の仕事仲間。彼は某広告代理店の駐在員であり、彼の会社からミューズ・パブリッシングは仕事をもらっていたので、「仲間」というには失礼かもしれないが、彼も一人、わたしも一人、加えてデザイナーも一人で、当時日本の電話会社(K社)の米国市場向け広告の仕事をしていたので、「仲間」と呼ぶにふさわしいのである。

彼とわたしは渡米時期が同じで、年齢も同じで、お互いの伴侶も顔見知りである。彼は妻と、日本に帰国して直後に誕生した5歳になる長男とともに現れた。やはりここでも、子供の存在が、月日の隔たりを教えてくれる。

途中でクライアントだったK社のF氏も合流。F氏とは、ニューヨーク時代、打ち合わせで数回顔を会わせただけだったが、食事を終え、S氏の妻子が一足先に帰宅し、3人で場所を変えて飲みに行ったところで、ニューヨーク時代の話を「すりあわせるように」する。

すでに古い話だが、二人とも『街の灯』を読んでくれていなかったので(F氏はその存在さえしらなかった)、今更ながら「買って、ちゃんと読んでくださいよ!」と強要する。

すっかり飲んで食べて、時差ボケやら蒸し暑さやらでうつろな気分ながら、とても楽しい夜だった。

 

●日比谷で過去を偲んでのち、三軒茶屋の友人宅訪問

8月5日。今日も今日とて蒸し暑い。午前中は日比谷界隈を歩き、またしても書店でしばらく過ごす。日比谷のシャンテ・シネには、よく映画を見に来たものだ。その1階にあったカフェ『ガルボ』で、わたしは一時期アルバイトをしていた。24歳のころのことだ。編集プロダクションでの仕事を終えたあと、夜8時から11時までと、土日のデイタイム。

当時、転職を考えていたわたしは、しかしあまりの薄給につき、たとえ1カ月の無給生活すらたいへんな状況だった。転職活動をしながら、少しでも蓄えを増やそうと、本来なら深夜まで編集作業が続くのが常だったが、早めに出勤してその分、早めに仕事を切り上げ、夜、喫茶店でアルバイトをしていたのだ。

わずかな収入だったけれど、それでも、ないよりはましだった。

実は、もっと手っ取り早く収入を得るために「カウンターレディー」なる夜のバイトの面接にも行ったことがあった。渋谷の、場末の、バーである。時給は1500〜2000円。普通のバイトよりもはるかにいい。お酒をついで、つまみを作るくらい、難しいことじゃないはずだ。大学時代、友達の代わりに2回ほどバーで働いたこともある。ウエイトレスの経験なら豊富。問題ないはずだと思っていた。

思えば、わたしも愚か者だった。

あれは仕事の帰りだった。ショートカットでメガネをかけていたわたしは、トレンチコートにビジネスバッグという出で立ちで、何かとテキパキとした様子で、バーのドアをきっぱり開けた。颯爽と入場したわたしに、カウンターの中にいた気だるいムードのお姉さんは一瞬、「何かごよう?」という顔をした。

「フロムAの求人広告を見て、お伺いしたんですけれど……」

そう言うわたしに、彼女は手招きしてカウンター席に座らせ、そして言った。

「ここはね。仕事を終えた男の人たちが、仕事のことを忘れようと、くつろぎに来る場所なの。あなたの雰囲気は、むしろ仕事を、思い出させると思うのよ……。それにね、こういうところで働くには、色気が必要なのよ」

……こういうところで働くには、色気が必要なのよ……

その瞬間、「お呼びでない!」という、植木等の声が脳裏に響いた。込み上げてくる笑いを抑えるようにして、「失礼しました」といいながら、店を出た。下りてきた坂道を、再び上りながら、わたしは無闇におかしかった。「いざとなったら夜のバイトがある!」と息巻いていた自分に対して。

最早、ガードウーマンかウエイトレスしかないな。そう思った。

そんなわけで、色気のないわたしは、夜の仕事をあきらめ、時給800円のアルバイトを選んだのである。幸い、転職先はすぐに見つかり、従って「ガルボ」には数カ月しか働かなかったが、あのころのぎりぎりの暮らしが偲ばれる店である。(まだあるかしら……)と思ったが、すでに違う店にかわっていた。

瞬間、思い出をたどったあと、また地下鉄に乗って、今日はまず、三軒茶屋へ。ニューヨーク時代の、夕べ会ったS氏の後任であるK氏宅を訪問するのである。ニューヨークで出会った日本人女性と結婚していた彼は、数カ月前、第一子が誕生したばかりという。

東京時代、長らく住んでいた世田谷区の用賀は、三軒茶屋の数駅先だから、早めに行って用賀まで足をのばし、過去を偲んでみようかとも思ったが、あっというまに時間が過ぎるし、暑いしで、やめた。

駅前で、共通の友人であるT君と待ち合わせる。彼もまたニューヨーク時代の友人で、デザイン関係の仕事をしている。かつてドラッグクイーンをやっていた、とっても個性的で楽しい人だ。知らないうちにニューヨークから東京に戻っていた。

三軒茶屋の駅から、炎天下の住宅街を練り歩き、K氏宅へ。

ここでランチをごちそうしていただき、T君持参のみつ豆、わたし持参のリーフパイを食べ、すっかり長居をする。仕事にも、私生活にも、多分ほとんど共通項はない四人なのだが、話題は多岐に亘り、楽しいひとときである。

そうこうしているうちにも夕方となり、そしてわたしは、次なる目的地、「鶯谷」へと向かう。

 

●山手線に揺られて鶯谷へ。魚のおいしい小料理屋で生ビール飲みつつの夜

明日は羽田へ行き、福岡へと向かう。従って、今晩の夕食が、友人との最後の会合である。待ち合わせ場所は、鶯谷にある小料理屋。そもそも、東京時代にも鶯谷で下車したことはない。何とはなしに懐かしい風情の駅前通に出て、目の前の薬局に入り、気合いを入れるためにアンプル剤を一本購入。懐かしい味をごくりと飲み干す。

そして、待ち合わせの場所へ。友人のYさんとMさんはすでに到着して、生ビールのジョッキを傾けていた。Yさんはわたしが広告代理店で働いていたころ、ともに海外取材に出かけたライターである。MさんはYさんを通して知り合った、やはりライターの女性。彼女は在日コリアンである。

わたしの先輩格である二人は、ともに独身で、フラメンコやバレエ、旅など多彩な趣味を持つ女性たちだ。かつて二人はインドを旅したこともあり、砂漠地帯をラクダに揺られながらゆき、星を仰ぎながら夜を過ごしたこともある。

彼女たちの詳細を語ると尽きないので最早触れないが、東京時代はしばしば顔を会わせていた。そこへ、Eさんがやってきた。彼女もまた在日コリアンだが、初日のSさん、Mさん、そしてEさんとは、別の経路で出会った。

東京時代終盤のわたしは、在日コリアン主催の「ワンコリア・フェスティヴァル」をヴォランティアで手伝っていた。Eさんの夫もまた、そのイヴェントのスタッフであり、わたしはその関係でEさんと出会った次第。

「久しぶり!」の挨拶もそこそこに、ビールを飲みつつEさんの口から出てくるのは、義母の話、不登校児となってしまった次女の話など、日常の頭痛の種。普段は滅多に遭遇しない話題だけに、わたしにとってはむしろ珍しい。

話は「前世療法」にまで及び、「わたしは前世で、デンマークの農家の嫁だった」というところから、現在の家族との関わりを語り始め、こちらはもう、ほうほうと聞くばかりである。やがて、友人Bさん、そしてEさんの夫、K氏も登場し、食べて飲んで語っての、夜が更けていく。

こうして、東京での4泊5日は瞬くうちに、過ぎていった。

 

●そして1年ぶりの福岡へ、母を迎えに

父が亡くなって以来、実家へ帰るのは初めてのことだ。夏休みの日曜日の羽田空港は、家族連れでごったがえしており、大変な騒ぎである。

搭乗するまでにランチを食べよう、せっかく日本にいるのだから、日本らしいおいしいものを食べよう、とまたしても思うのだが、日本の空港の、飲食店、土産物店の充実ぶりに、改めて驚嘆するばかり。目移りして選べず、もう、何が食べたかったんだか、何がおいしそうなのだか、わからない。

結局、何だかわけがわからなくなり、そのうち、レストランに入場する列に並ぶのすら億劫になり、中華料理の弁当屋で豚まんを買い、デリでサバ寿司弁当を買うという、妙な取り合わせ。全日空のラウンジに入り、ああ、ここは静かでいいと、ビールとともに食する。豚まんがおいしかった!

ちなみに翌朝、A男から電話がかかってきて。

「夕べはサンフランシスコへ行って来たよ。チャイナタウンでおいしいポーク・バン(豚まん)食べたんだ!」

との報告があったときは、我々の絆の強さを感じずにはいられなかった。豚まんを食べるなんて、滅多にないことだから。

さて、無事に福岡へ到着し、実家に戻る。母は昨年末、米国へ遊びに来たときよりも顔つきが明るくなっており、減っていた体重が再び盛り返しており、元気そうだった。

福岡では2泊3日を過ごした。初日の夜は、妹夫婦と4人でおいしい刺身を食べに行った。やっぱり福岡へ帰ったら、寿司刺身ははずせないのである。

翌日は、近所のショッピングモールに出かけたり、母の荷造りの手伝いをしたり、訪れてきた親戚と会ったり、うなぎを食べに行ったりして瞬く間に過ぎていった。そして8月9日の便で福岡から成田経由でサンフランシスコへ戻ってきた次第である。

すでに母の滞在も1週間が過ぎ、残すところ2週間となったが、できるかぎり楽しい時間を過ごしてもらえればと思っている。

それにしても、と、思う。海外に何年暮らそうとも、わたしは、つくづく、日本人であると、特に根拠はないが、今回の滞在を通して、そう感じた。日本の随所に、愛憎入り乱れる思いを抱きながら、そう感じた。

今後はもっと頻繁に日本へ帰り、友人らとも会って話をしたいものだと思っている。

(8/16/2005) Copyright: Miho Sakata Malhan

 


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