ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 15 11/8/2000

 


昨日(月曜日)、マンハッタンに戻ってきました。日曜は、ニューヨークシティマラソンが行われたのですが、今年は見逃しました。去年は、郷ひろみを見つけようと、大群衆に紛れ、セントラルパークの入り口あたりの塀によじ登ったのですが、次々に流れ込んでくるランナーを凝視しているうちに頭かクラクラしてきて、途中で断念してしまいました。

あと2週間は、たまっている仕事が片づきそうにありませんが、頭の中が、だんだん煮詰まってきたので、またもやメールマガジンのファイルを開いています。

さて、このメールマガジンの読者の中には、海外に出られた経験がある方も、少なくないかと思います。

初めて日本を離れたときのことを、どのように覚えていらっしゃいますか?

私が初めて海外へ出たのは、20歳の夏でした。今から15年前、下関の片田舎にある女子大の、日本文学科に在籍していたときのことです。

それまでは、特に遠方に旅行をしたこともなく、高校時代に修学旅行で福岡から長野に行ったのが一番長距離の旅でした。将来は、地元福岡で、高校の国語教師になりたいと考えていました。当時の私には、世の中にどんな職業があるのかすら、実はよくわかっておらず、たまたま自分が得意としていた科目に結びつく仕事を考えたとき、それが国語教師だったとも言えます。もちろん、人に何かを伝えることは当時から好きだったので、それも理由の一つですが。

大学は、1時間に1本だけ列車がとまる、山陰本線の無人駅のそばにありました。豊かな自然に恵まれ、コンビニさえもない、極上の田舎です。当時もてはやされていた「ブランドものに身を包んだ華やかな女子大生」とは、遠くかけ離れた生活 <4畳一間のおんぼろ学生寮で、夏は冷房もなく、冬はどてら(はんてん)に身をくるみ……蛇も出ればムカデも出る、おまけに源平合戦の落武者の霊まで出る> を送っていました。勉強や読書以外、することがない毎日です。たくさん本を読みました。

私は今でも、日本の純文学が好きです。夏目漱石や太宰治、芥川龍之介、梶井基次郎、三島由紀夫、初期の大江健三郎……。日本にいたころ持っていた本の一部をニューヨークにも持ってきていて、時々読み返します。読み返すときの自分の年齢、またその時々の心境によって、同じ本が違う印象を与えてくれるのは、おもしろいものです。

ついこの間などは、久しぶりに芥川の本を開いて年譜を見た時、彼が自害した年齢が今の私の一つ上(36歳)と知って驚きました。あの寝起きのような髪型でポーズを作っている写真は、どうみても40歳を過ぎてるとしか思えません。容姿はともかく、時代が違ったとはいえ、あんなにも渋い文章を若い頃から手がけていた彼に、改めて畏敬の念を覚えずにはいられませんでした。ちなみに私の卒業論文は、純文学からは少し逸れた、安部公房でした。

ところで、漱石の「坊ちゃん」などは、「うけ」を狙った文章ではないのにもかかわらず、いたるところに独特の「おかしみ」が散らばっています。

100年の歳月を隔てて尚、そのおかしみを共有できるのは、すばらしいものだと思います。もっとも、読んでいて笑える作品は限られていますが、さすがお札になるだけの人です。

当時の大学の学長が漱石研究における第一人者でした。学長の講義はいつも情熱にあふれ、興味をそそられたものです。今でも忘れられない講義があります。その日は漱石の「三四郎」がテーマでした。三四郎が、熊本から上京する列車の中で、髭を生やした年輩の男性に出会います。列車の中で、西洋人の夫婦を見た後、髭の男性は、三四郎に語り始めます。そのあたりの文章は、日本の現代にまで至る、西洋に対する姿勢を予言しているようで、漱石の洞察力の鋭さをも垣間見せるので、少し長いけれど抜粋してみます。

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「どうも西洋人は美しいですね」と云った。

三四郎は別段の答えも出ないので只はあと受けて笑っていた。すると髭の男は、「御互は憐れだなあ」と云い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応の所だが、-----あなたは東京が初めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵えたものじゃない」と云って又にやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃない様な気がする。

「然しこれから日本は段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。-------熊本でこんなことを口に出せばすぐなぐられる。わるくすると国賊取扱にされる。三四郎は頭の中のどこの隅にもこう云う思想を入れる余裕はない様な空気の裡(うち)で成長した。だからことによると、自分の年齢の若いのに乗じて、他(ひと)を愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例の如くにやにや笑っている。その癖言葉つきはどこまでも落付いている。どうも見当が付かないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう云った。

「熊本より、東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸切ったが、三四郎の顔を見ると、耳を傾けている。

「日本より頭の中の方が広いでしょう」と云った。「囚(とら)われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思ったって、贔屓(ひいき)の引倒しになるばかりだ」

この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした。

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学長が読み上げたこの一節の、「囚われちゃ駄目だ」という言葉を、私は折に触れ、思い出します。

囚われる、という漢字は「人」を囲いの中に入れて成っています。何事かに悪い意味で執着しすぎたり、あるいは何らかの支障によって、先へ進むことをためらっているときなどに、この言葉は非常にさっぱりと、私を勇気づけてくれます。

さて、話が横道にそれましたが、はじめての海外はアメリカでした。行き先は、英語圏であればどこでもよかったのですが、当時最も安いホームステイのプログラムがロサンゼルスだったので、そこに決めました。

飛行機を降り、ロサンゼルス国際空港のターミナルに入った瞬間から、私の目と脳は、ものすごいスピードで回転し始めました。目に入ってくるものすべてが、初めて見るものばかり。人々の髪の色が、それぞれに違う。肌の色も違う。空気の匂いも違う。誰かが歩きながら飲んでいるコークのカップの大きいことと言ったら!

いつもよりも、体温が数度上がったような気持ちで、空港の外に出ると、カリフォルニアの澄み渡る青空、そして、暑く乾いた風。カートを運ぶ黒人労働者の、相撲取りよりも遙かに大きいどっしりとした身体と、今まで見たこともないような大きな靴に、私の目は釘付けになりました。

それから1カ月の滞在期間に、私の価値観は著しく変わりました。具体的に言うならば、物事を見る際の「尺度」が大きく変わりました。

「日本は狭い。小さな国だ」といわれても、日本しか見たことのない私にとって、玄界灘は広く、阿蘇山は大きく映っていました。しかし、アメリカで見た広大な大地、遙か彼方まで見渡せる大海原、延々と連なる山脈……、大きな人たちに、大きなピザ、大きなジュース……、目に飛び込んでくる一つ一つが、それまで私の持っていた尺度、つまり「ものさし」を、きれいさっぱりと打ち砕きました。

テレビや本では知り得ない、実物大の衝撃です。私はこのとき「尺度」という言葉の曖昧さを知りました。大きい、小さいという、一見単純そうに見える物事の尺度でさえ、普遍のものではない。ましてや、それぞれの国が持つ精神的土壌や文化は、決して一つのものさしで計ることはできないということを、身をもって感じたのです。

この夏を境に、第二の私が生まれたように感じました。

蛇足ですが、アメリカに暮らしはじめて4年もたった今では、私の視覚的なものさしは、すっかりアメリカナイズされていて、大きなステーキも山盛りのフライドポテトも「たいしたことないわね」という気分で平らげてしまいます。日本にいるころは、体格のいい自分にあった服を探すのに苦労しましたけれど、こちらでは難なく見つけられますから、体型の尺度が変わっても、支障がないのです。これは由々しき事態です。

さて、ロサンゼルスで夏を過ごして以来、福岡で高校の先生になりたいという気持ちは霧散しました。とはいえ、何をすればいいのか、具体的なイメージは沸いてきません。ただ、もっともっと、広い世界を見たい、という思いだけがありました。あれから15年の歳月が流れましたが、こうしてニューヨークに暮らし、ひとまずは出版の仕事をしている今もなお、自分の将来の目標が明確に決められず、模索し続ける日々が続いています。

なぜ、今日はこのようなことを書き綴ったかと言えば、Vol. 13を発行した後に、読者の方から以下のようなメールをもらったからです。

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いや〜、ほんとに面白かったです。貴方のメルマガ。はじめてです。こんなに夢中になって読んだメルマガは。僕は日本に住んでて、今、高2ですが、高校卒業後はアメリカの大学に進学しようと思って、今必死で英語と格闘している毎日です。僕は、紀行文が大好きです。貴方のメルマガは紀行文とはちょっと違うけど、マンハッタンに住む普通の人々の生活が知れてとても、面白かったです。

「ユーゴットメール」とかウッディ・アレンの映画なんかで、マンハッタンのぴかぴか光る摩天楼とか、ニューヨークの街並みはよく出てきますよね。僕にとってマンハッタンは本当に憧れなのです。

僕の夢はマンハッタンのど真ん中にオフィスを構えて世界を相手に仕事をすること。「ウォール街」に出てくるような、オフィスです。最後に、このメルマガに写真がついてたらどんなにいいだろう、という僕の願いにも似た感想を書き添えさせてもらいます。

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私が高校2年のときといえば、自分でいうのもなんですが、本当におバカでした。学問云々はさておき、志の問題として。バスケットボールの部活に明け暮れ、「○×君、かっこよか〜!」などと、1年ごとに違う男子に熱を上げ、バンド活動と称して夜遅くまで遊び……。いったい、何を考えていたんだろうと思います。まあ、それはそれで、いいのでしょうけれど。

ですから、高校2年にして、こんなにも明確に自分の目標を持ち、努力を始めている人に対しては、敬意と同時にうらやましさすら感じます。まっすぐな大望を持って、それに向かって行動を起こしている人を見ると、私は無条件に、がんばってください、と言いたいです。がんばってね。そしていつの日か、マンハッタンの真ん中にある、あなたのオフィスの近くで、ランチミーティングでもしましょう。

私は、ニューヨークでいろんな人たちに出会い、インタビューなどもさせてもらっていますが、国籍を問わず、何かを志してがんばろうとする人には、共通点があります。

自分が決めたことは、どんな障害をも障害とせず、客観的に見れば驚くほどのマイナス要素をプラスに転化し、実行できないことを決して周囲のせいにすることなく、「自分がこうありたい」と望む状況に向かって、壁にぶち当たりながらも進んでいきます。

また、彼らに共通するのは、決して「自分はたいへんなことをやった」と、もったいつけないところ。自分の努力を極めてあっさりと表現してくれます。それは多分、彼らにはさらなる理想があるから、過ぎ去った苦しみなどは、あえて悲劇的に語るまでもないのかもしれません。本当にタフで強い人は、とてもしなやかだな、と思います。私も「しなやかに生きたい」と、常々思います。

世の中はいろんな人たちがいてなりたっているわけですから、みんながみんな、気合いの入った人たちだと、それこそ地球の気温が数度上がってしまいそうで危険なので、淡々と野心なく生きている人もいて、バランスがとれているのだとも思います。

また今日も、長くなりました。いただいたメールをもっとご紹介したかったのですが、この次にしておきます。


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