ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 31 3/3/2001

 


3月。ニューヨークにも春の足音が聞こえ始めました。花屋のスイセンが爽やかな香りを漂わせていますし、街路樹のたもとの花壇に、チューリップの芽がいくつも出ています。

数日前、少し暖かい日に、わざわざ遠回りしてセントラルパークを横切って打ち合わせに出かけたのですが、鳥たちがうれしそうにさえずり、リスもあちこちを駆け回っていました。春が近いことを喜んでいるように見えます。

それでも、昨日は雪が降ったりと、まだまだ変わりやすい天気。桜の季節が待ち遠しいものです。

さて、本日は、いつもにまして、長編になりました。分割してお読みください。

 

●「お食事ご招待」の危険な罠

ニューヨークに星の数ほどあるレストラン。今日もどこかでオープンする店があれば、消えていく店もある。栄枯盛衰の激しい世界だ。

レストランの多くは、レストラン業界専門の小規模な広告代理店などに営業を委託する場合が多く、そのような代理店の人たちから、新しいレストランの案内やメニューの情報などが、弊社にもしばしば送られてくる。

先日、muse new yorkにパブリシティで紹介して欲しい、ついては私の手がけているレストランで食事をして欲しいと、とある女性から連絡があった。彼女もまた、いくつかのレストランの営業をしている人物なのだ。彼女の友人が日本人で、muse new yorkを紹介されたらしく、日本人客を望む彼女が私に連絡してきた次第。パブリシティとは広告費を払うのではなく、記事でとりあげることをいう。

私自身が、本当にいいなと思った店だけを、このmuse new yorkでは紹介している。だから、このような話を、もちろん軽く受けるわけにはいかない。

muse new yorkは季刊誌だから次の掲載まで時間があるし、食事させてくれたとしても、紹介するとは限らないという旨を伝える。それでもいいと彼女は言うので、取りあえず1軒目のレストランに行くことにした。誰かもう一人お誘い下さい、というので、その前日、お誕生日を迎えていたふじやま太郎さんを誘うことにした。

ただでごちそうになるものを「誕生日祝い」だといって招くのも、なんだかなあ、と思ったが、誘った。

その店はアッパーイーストサイドのイタリアンだった。このような場合、基本的に招かれた人間だけで食事をするものなのだが、その彼女(仮にナンシーとしておこう)は、自らディナーの輪に加わった。白人の小柄なおばあさん、である。

本当はふじやま太郎さんと二人でお食事を、のつもりが、こうなるとナンシーが主役である。彼女の話はそれなりに楽しく、それはそれで楽しいムードであった。

しかし、問題は料理である。これがかなり「いまいち」の味なのだ。いまいちな味のものを細かく描写するのはいやなので省略するが、とにかく、「絶対にmuse new yorkには紹介できない」味だった。まずいのではなく、特筆すべき何もないのだ。

それでも、「お味はいかが?」と聞かれると

「好きじゃない」とか「まあまあ」とは言えない。いや、言えばよかったのか。しかし、せっかく会話も盛り上がってるのに、ここで「まあまあ」といえば座が白けるから、"Good!" などと言う。そういうとこ、弱気な私。

「このお店、いつの号に紹介していただけるかしら」

食事中、ナンシーは2回、同じ質問をした。わたしはやんわりと、しかしはっきりと、「まだここを紹介するつもりはない。特徴があり、ぜひとも紹介したいなにか大きなポイントがないと、わざわざ少ないページ数をさくことができないから」ということを告げる。

すると、もう一つ、別のレストランがあるから、そこで次回、待ち合わせようと言う。ひとまずそれで、その場を切り抜けた。

どうしよう。次の店がまた「いまいち」だったら。どうか、おいしい料理を出してくれる店でありますように……。

 

●またしても、やってくれたジェームズ

先日、muse new yorkほか、2、3のクライアント仕事の印刷物をまとめて印刷所に入稿した。今回はいずれの仕事もスケジュールが厳しいから、とにかく印刷は短期間で仕上げてくれと頼んでおいた。その翌日、例の印刷所のジェームズから電話がかかる。早くも印刷日の立ち会いについての連絡かと思ったのだが、様子が違う。

"Hi Miho. We have a problem.(ハイ、ミホ。ちょっと問題が起きたんだけど)"

私の心臓、激しく鼓動が高まる。

「何? 何が起こったの?」

「ミホが今回のmuse new yorkで流用してくれって言ってた前号の広告のフィルム、見つからないんだ」

「見つからないって、どういうことよ! ちゃんと探したの?」

「探したけど、ない」

「あなたねえ、簡単にないっていうけど、そのフィルムは広告主から支給されたもので、しかも日本から送られてきたものなのよ! どうするのよ! 捨てたの? とっといてって言ったじゃない!!」

「普段はちゃんと保管しているんだけど、どうしても前号のだけ、みつからないんだよ。誰か間違って捨てたみたい」

「あのねえ、スケジュールは迫ってるし、そんな1日2日で用意できるものじゃないのよ! どうするのよ」

「どうするっていわれても、ないものはない。俺にどうしろというんだよ」

ああああぁぁぁ、もう! あなたの言うとおり。ないものはない。あなたにはどうすることもできない。でもね、まず一言、謝まれ! 

ああ、でも、謝られたところで、なくなったフィルムは戻っては来ない。

昨今の印刷物は、コンピュータ上で作ったものを、出力センターでフィルム出力し、そのフィルムを印刷所に納品する。印刷所はフィルムから印刷用のプレートのようなものを作るのだ。今回は、その広告の部分だけ、クライアントの支給だったので、前回の号のフィルムをはめ込んでもらうはずだったのだ。

激怒しつつ「折り返し電話する!」とひとまず電話を切る。ああ。なんでこうなんだろう。ちょっと順調に進んだかと思えば、定期的にトラブルを起こしてくれる。年頭は、「今年もよろしくね」と気持ちをこめて、百歩譲ってフロリダ・キーウエスト土産の「キーライムチョコレートクッキー」の大箱をジェームズはじめ工場の皆さんにプレゼントしたのに。そんな心配りも水の泡だ。

だいたい、次はワシントンDCの「桜祭り」特集なんだ。だらだら印刷しているうちに、桜が咲いて散ったら、いったいどうしてくれるのよ。

今年も、やっぱり、この調子でいくのかしら。

 

●出る杭は打たれる前に、届かないほど突出してしまえ

1カ月ほど前のこと。一通の手紙を受け取った。差出人の名前は知っているが会社名が違う。封を開けると、以前お世話になったクライアントの男性が、15年ほども勤めた会社を辞め、独立したことを知らせる手紙が入っていた。

彼、仮に山川三郎さんとしておこう。山川さんは日本の大手企業のアメリカ法人の役員として働いていた。以前、私はそこの会社のカタログなど印刷物を制作させてもらい、直接お話しする機会は少なかったものの、間接的にお世話になっていた。

多分、40代中頃だろう、妻子もいるはずだ。その立場で新しい会社を、しかもそれまでとはまったく違ったジャンルらしいビジネスを一から始められる山川さん。私は純粋に「がんばってください」と思った。それで、その気持ちを伝えようと、「会社設立おめでとうございます」としたためたカードを贈った。

駐在員の中には、予定の3年ほど駐在した末に、帰国せず、こちらにとどまり起業することを考える人も少なくない。また、任期満了後、現地採用に転換する人もいるようだ。しかし、そういう人たちの多くは、駐在時代の給料があまりによかったため、現地採用の給与ではとてもやっていけず、音を上げている人も少なくない。

山川さんクラスになれば、もちろん資金も潤沢にあっただろうから、同じ起業でも私の場合とはケースが違うだろうけれど、いずれにしても、新しいことを始めるのは勇気のいることだし、たいへんなことに違いない。

「本当に仕事が入ってくるだろうか」「いったい何カ月たてば売り上げが立つのか」……自分の会社設立当初の恐怖感を思い出した。

まだ仕事がなく、営業が中心だった頃、銀行の明細を見るたびに、胸が締めつけられた。一日の終わり、シャワーを浴びているときなど、心が空白になった瞬間に、不安や焦りが襲いかかってきた。

会社の給与や税金関係の処理を頼んでいる私の会計士(日本人男性)は、年齢的にはすでに引退していてもおかしくないのだが、少しずつ仕事を続けており、私の会社の経理も3年半前の設立当初から割安で引き受けてくれている。

最初のころ、請求書への税金のかけ方がよくわからず、彼に尋ねたときのこと。

「きちんと書類を作っておかないと、もしも調査が入ったら困りますよね」

と言う私に、

「いやー調査が入るのは、ある程度業績のある、大きめの会社だからね、坂田さん。それまで会社が持ってるといいねえ、はっはっは!」

と屈託なく笑われ、(なんじゃあ、このおっさんは!)と、私は顔が引きつったものだ。

それから、半年、1年、2年後と、会計処理で彼に顔をあわせるたび、私は笑いながら言う。「まだ、会社、続いてますよ!」。つい先日、創業当初の恐怖の日々を彼と話していたときのこと。

「うちの会社、最初のころ口座に3桁しかなかった時もあったんですよ(3桁とは100ドル単位)。もう、あのときは先行き不安で、夜のバイトでもしようかと思いましたよ」と言えば、

「3桁って、坂田さん、小数点以下も入れて3桁ってことじゃないよね」といいつつ、会計士さん、自分でうけて大笑いしている。当たり前だ。小数点を入れると言うことは数ドル数セント、つまり100円単位なんだから、そんなわけ、ないじゃない! と思いつつ、私も大笑いする。

まあ、そんなこんなで、Muse Publishing, Inc.も、なんとか4年目を迎えている次第なのだ。

で、話しを戻すと、実はつい先日、またこんな手紙を受け取ったのだ。差出人は、山川三郎さんが以前勤めていた会社で、新しい役員人事を知らせるフォーマルなカード式の手紙だった。

数行、新たな人事の発表と決意表明のような堅苦しい文章が連なったあと、一行開けてこんな一文があった。

「尚、既に退社しております前****役員山川三郎は弊社とは一切関係のないことを申し添えます。」

私は本当に、本当にいやな気分になった。なんでまた、こんなことをするんだろう。

これじゃ、まるで「山川は円満退社じゃない。うちとは金輪際、関係ない」ということを、わざわざ言っているようなものだ。ようなものではなく、それが言いたいがための手紙にすら見える。山川さんはこの会社といざこざの末、辞めたのかもしれない。それにしたって、10年以上も勤務した人間に対し、最後には、はなむけの言葉を贈るとか、せめてその人の前途に障害になるようなことをしないことが、「大人の会社」のやることではなかろうか。

だいたい、どう転んだって、はじめのうちは「一人で独立した人間」の方が弱い立場なのだ。弱い人間を突き放して、なにがおもしろいのだ。第一、「弊社とは一切関係のない」人物ならば、山川三郎と呼び捨てにせず、せめて「氏」を付けるのが常識だろうに。

百歩譲って山川さんに問題があったとしても、彼はもうずっとその会社のニューヨーク支店の「顔」として、その会社を支えてきたわけで、悪評があったわけでもなく、日系社会のなかでも認知されていたのだ。その彼を否定することは、その支店そのものの10数年を否定すると公言していることにはなるまいか。

ニューヨークにある会社でさえ、日本社会はこれである。出る杭は打たれる。だから、頭の固い人間が権力を握り、新しい可能性を持った人たちが実力を発揮する場が限られる。不景気不景気と騒ぐばかりで、いったい何なんだ! と思う。

すっかり熱くなってしまったが、山川さん本人は実は何とも思っていないかもしれず、余計なお世話かもしれない。しかし、ますます、「山川さん、がんばってください」と思った一件だった。

 

●桜の季節を目前にして、思うことなど

もうすぐ、春だ。この時期になると、部屋から見下ろすセントラルパークの木々が、葉を一枚も付けていない裸の木々であるにもかかわらず、どこかしら「ざわめいている」のが見て取れる。枯れ木立が束になって、ふんわりとした靄(もや)に包まれているように見えるのだ。それは、今にも芽を吹こうしている若葉が、枝の隅々までにも待機していて、強い力を放出しているせいではなかろうかと思われる。

私にとって、もっとも鮮烈な桜の記憶は、大学4年の春、下関時代に遡る。同じアパートに住んでいた女友達と、その当時付き合っていたボーイフレンドと4人で、真夜中に車を飛ばし、「火の山」というところまで、夜桜を見に行った。山の麓のモスバーガーで、わいわい騒ぎながら夜食を食べたあと、車で山道を走る。ほどなくすると、山道の両側に、満開の桜並木が現れた。

車を停め、外に出る。あたりは、私たち以外、誰もいない。

どこまでも続く、満開の桜並木。薄桃色、いやほとんど白に近いその花びらが、まさに吹雪の如くはらはら、はらはらと絶え間なく私たちに降り注ぐ。濃紺の空には、まばゆいほどに白い光を放つ満月。桜は散り続け、私たちは、みな無口になり、それぞれに天を仰ぐ。

そういえば、あんなにきれいな桜を、息も詰まりそうな思いで一緒に見つめた、かつてのボーイフレンドは、今ごろどこで何をしているのだろう。もう、子供の2、3人もいるのだろうな。ま、それはともかく、桜とは本当に、心をゆさぶる木であることには違いない。

そして桜の季節。muse new yorkの春号の編集後記に書いた文章を、メールマガジンの読者の方にも読んでいただきたく、ここに転載してみる。

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桜の花を思うにつけ、脳裏に浮かぶ文章があります。昔、大学受験のため、現代国語の参考書を開いていたときのことです。「論理的散文」の項にあった、大岡信氏の『言葉の力』という例文が目に留まりました。

大岡氏は、言葉の本質は、口先だけのもの、語彙だけのものではなく、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにある、と述べた上で、自然界にもそのような現象があると前置きし、このような話を述懐していました。

あるとき、大岡さんは、京都の嵯峨に住む染織家を訪ねます。そこで、えも言われぬほど美しいピンク色に染め上げられた着物を見せられます。その色を何から出したのかと尋ねると、染織家は「桜からです」と答えます。桜で染めたピンク色の糸で織り上げたのだと。当然、大岡さんは、桜の花びらを煮詰めて取り出した色だろうと解釈するのですが、実は違いました。

それは、桜のゴツゴツとした樹皮から取り出したのだというのです。しかも、その桜色は1年中取れるわけではなく、桜の花が咲く直前の皮を使ってこそ、その引き寄せられるような「桜色」が取り出せるといいます。

大岡さんは、染織家の言葉に、身体が揺らぐような不思議な感じに襲われます。年に一度、ほんの束の間、激しいほどに咲き誇る桜の花は、その木、全体で、春のピンクに色づいていたんだと言うことを知り、はっとしたのです。大岡さんは、この桜の話をたとえて、桜の花びら一枚一枚が、まさに言葉の一言一言であって、そのように言葉というものは考えられるべきではなかろうかと結んでいます。

私は、この文章を読み、言葉との関連づけについてはさておき、桜の樹皮の話が鮮明に心に残りました。それ以来、「桜」は、私にとって、少し特別な意味合いを持つ木となりました。

90年ほども前に、遙か遠い日本から届けられた桜の木々が、今年も花を咲かせます。発するメッセージも何もなく、ただそこに咲いているだけで、世界中の人々の心を引きつける自然の産物とは、なんとすばらしいものだろうかと思わずにはいられません。


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