ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 33 3/19/2001

 


今は金曜日の夜。先ほど、アッパーウエストのブロードウェイ沿い、70数丁目界隈で夕食の買い物をしてきたところです。あのあたりには、品揃えが豊富で新鮮でリーズナブルな商品が揃う「Fairway」というスーパーマーケットや、「Citarella」という高級生鮮食料品店、それに「Zabar's」というグルメ向け高級食料品店などが集中しているのです。

「Citarella」は、マンハッタンで最も鮮度の高い魚が手に入ります。もちろん日本に比べると劣りますが、それでも、一般のスーパーマーケットのパック入り魚介類に比べると、ずっとましです。肉類も非常に豊富で、質のいいものが揃っています。

以前、サバの煮付けを作ろうと、丸ごと一匹のサバの、内臓だけを取り出してくれと頼んだのですが、大きな包丁でバサッと一刀、頭を切り落とし、お腹のあたりをツツーッと切った後、水圧の強いホースの水で内臓をジャーッと流してできあがり、でした。頭はもちろん、捨てられていました。なかなか強烈な魚のさばきっぷりでした。

今夜はブイヤベース。先ほど下ごしらえをし終わって、買ってきたばかりのイタリアのパルメザンチーズとオランダのゴーダチーズをつまみに、赤ワインを飲みつつ、コンピュータに向かっています。

あと2時間ほどでA男がワシントンDCから週末を過ごしに戻ってくるので、それまで空腹を我慢して、メールマガジンを書き始めました。

 

●今夜の夕食のメニューから思うことなど:スパイス

今夜のブイヤベースの具は、タラ、サーモン、イカ、エビ、ムール貝、それにタマネギとニンジン。本当はサーモンは邪道なのだが、アメリカで魚と言えばサーモンがもっともおいしくて新鮮なので、ついつい使ってしまう。

ブイヤベースを簡単に作るときには、ハウスの「ふらんす厨房 ブイヤベース」の素を使っている。ただ、このブイヤベースの素は味がやや淡泊で、しかも甘みが強いのが欠点。だから、具と水を若干多めに入れて、自分であれこれとスパイスを加え味を調える。

スパイスは、オレガノやタイム、クミン、ターメリック、オールスパイスなど、気に入った香りのものを手当たり次第入れる。それにすり下ろしたニンニクも。そうすると、不思議なほどにまろやかな味わいになるのだ。こんな乱暴なことをするようになったのも、昔、ライオン科学研究所でスパイスの研究をしている武村氏を取材して以来のことだ。

スパイスやハーブの効能その他を多岐にわたって取材した後、スパイスの使い方を教わる段になって、彼はこう言った。

「スパイスは、たとえば一種類だけ使うと、きつくて薬っぽい匂いがする場合もありますが、何種類も混ぜるとマイルドになるのです。スパイスを入れて、料理で失敗することは絶対にありません。この匂いがいやだな、と思ったら、他のスパイスをいくつも混ぜてみてください。そうすると、まろやかになりますから」

この言葉はとても貴重だった。日本のカレーがインドのものよりマイルドなのは、よりたくさんの種類のスパイスを混ぜ込んでいるからだとも教えてもらった。

うちには、A男のインドの実家から送ってきた、多彩な種類のスパイスがたくさんある。だから、いつもカレーやシチューにもたくさん入れるのだが、武村さんの言葉通り失敗した試しはない。どのスパイスを選ぶかは、私の場合、ほとんど「勘」に頼っている。軽く匂いを嗅いで「これを混ぜるとおいしくなるかも」という感じで、入れるのだ。よく言えば芸術的な料理の仕方である。そして最後のしめくくりに醤油をたらす。これが味を引き締める。

ブイヤベースと、ゆでたアスパラガス。それにカボチャの煮込み。なんともヘルシーなディナーである。ああ、お腹がすいてきた……。

 

●今夜の夕食のメニューから思うことなど:ブイヤベース

ブイヤベースは、南フランス、地中海沿岸の町マルセイユの郷土料理だ。南フランスには今まで3回、訪れた。1回目は取材で、2回目は3カ月の欧州放浪の旅の途中で、そして3回目はA男と休暇で。中でも1回目の旅行が最も鮮烈に記憶に残っている。

南フランス、プロヴァンス地方の南には、マルセイユをはじめ、カンヌやニースといった、コートダジュール(紺碧海岸)の有名なリゾート地がある。あれは10年ほども前のこと。まだ新米編集者だった25歳の私は、某クレジットカードの会員向け情報誌の制作を手がけていて、隔月で2カ国ずつ取材していた時期があった。

その時は、ベルリンの壁が崩壊した直後のドイツを車で取材した後、フランスに入り、南西のピレネー山脈沿いの町を起点に、ツール・ド・フランスのルートをたどって南東のプロヴァンスあたりまでをドライブする旅だった。同行者はカメラマンとライター。二人とも30歳前後の男性だった。

過密なスケジュールながらも、見知らぬ土地をドライブしながら取材することは、当時の私にとって、本当に新鮮で貴重な経験だった。見るものすべてが自分の心に染み入っていくようで、だから、その後2回訪れたときの記憶よりも、ずっと身近に感じられるのかも知れない。

取材中のある日、私たちはニースのはずれにある、「ボーリュ・スー・メールBeaulieu sur Mer)」という村を目指していた。夜、ヘトヘトに疲れてホテルにチェックインしたあと、ホテルマンのすすめで、近くのレストランで夕食を取ることにした。

そのシーフード専門店で出されたブイヤベースが、今でも忘れられない。魚介類の旨味がたっぷりと出たスープが、なんとも言葉では表現できないが、それはそれはおいしかったのだ。その後の旅で本場マルセイユでも食べたけれど、ちょっと塩分がきつかったりして、あのときの味にはたどりつけない。ちなみに店の名前はFIDJI。もう10年も前の話だから、今はどうなっているかわからないけれど、ニースに行く予定のある方は訪ねてみてほしい。

行き当たりばったりの旅で、時にはろくに食事がとれないこともあったけれど、それでも旅の随所随所に、鮮烈な食の思い出が散らばっている。折に触れ、記憶の断片が蘇る。

思えば、ボーリュ・スー・メールのホテルもよかった。地中海の、寄せては返す波の音を聞きながら、眠りについた。翌朝の朝食は、緑の芝生が敷き詰められたガーデンにセッティングされた白いテーブルセットで。テーブルには焼き立てのクロワッサンと、銀のポットに入った温かいコーヒーとミルク。大きなカップに注いでカフェオレを作り、バターの香りがほどよいクロワッサンを口に運ぶ。爽やかな海風を受けながら、降り注ぐ朝日を浴びつつ、なんてすばらしい朝食なのだろう。

至福のひとときを過ごしたけれど、その日は夕方から天気が崩れ、やがてみぞれになった。翌日は数十年ぶりという大雪になり、取材予定はガタガタと崩れた。モナコにも行ったが雪で写真撮影もままならない。寒かった。

あれこれとトラブルはあったけれど、その経験が濃厚であればあるほど、月日が流れると、何もかもが、かけがえのない思い出に変わってしまう。

 

●今夜の夕食のメニューから思うことなど:パルメザン・チーズ

今、食べているパルメザン・チーズについても、ひとこと。日本でパルメザン・チーズといえば、あの緑色のパッケージに入った粉状のチーズでしられているが、本来はイタリア中部のパルマという町で作られる太鼓型のチーズのことで、イタリアでは「パルミジャーノ」と発音する。

パルミジャーノは、やや塩分が強い乾燥したチーズで、噛むとポロポロと崩れ落ちる感じ。これをすり下ろしてパスタにかけたり、シーザーサラダにかけたりして使われるが、もちろんこのまま囓ってもおいしい。おいしいものは、ほどよくしっとりとしていて、塩味もきつすぎず、こくがある。チーズの王様とも言われているらしい。

パルマへも、かつて取材で立ち寄ったことがあった。その時の取材旅行は同行のカメラマンと二人だったのだが、彼とのコミュニケーションがうまくいかず、2週間もの日々、かなり辛かった。取材は、同行者によって本当に大きく内容が変わってくるものだ。相性の悪い相手と一緒だと、当然ながら、やることなすこと、なにもかも楽しくないのだが、それもまた仕事である。

さて、パルマは生ハムの産地としても有名である。パルミジャーノを作る際、膨大な量の牛乳を使用するのだが、その余った牛乳をブタの餌にすることで、非常に肉質のいいブタに育つのだという。チーズと生ハムは、この町では切っても切れない関係なのだ。こういう資源の有効利用は、とてもいいなと思う。

 

●月曜日はmuse new yorkのマンハッタン配達だった

今回もまた、マンハッタンの取材は前回Vol. 20に登場したジョージさんに配達を手伝ってもらった。今回もまた、バーター(仕事の交換)が条件。配達に付き合ってもらうかわりに、私がクリエイティブのデザインを手伝うのだ。なんだかいい加減なやり方に見えるが、事実、かなりいい加減だ。どう考えても、私の受ける仕事の方が、金額にして数倍かかるので、向こう1年程度、配達に付き合ってもらうことにした。

彼との配達はこれで3回目。最初よりもうんと要領がよくなって、4時間もかからずに配達が終わった。非常に達成感が高い。最終地のイーストビレッジでまたもや日本食で遅いランチをとる。何しろ郊外に住んでいて、アメリカ人の妻を持つジョージは、マンハッタンに出たときはおいしい日本食が食べたいのだ。

数年前にオープンした手打ちそばを出してくれる「蕎麦屋」という店で、定食をオーダー。またもや昼間から私はビールを、ジョージさんは日本酒の冷やを飲む。定食にはかき揚げの天ぷらとカボチャの煮込み、鮭の照り焼き、かやくご飯、そしてざるそばがついてくる。それで11ドル程度。おいしかった。

なんだか、私、今、非常にお腹がすいているせいか、食べることばかり書き続けている気がする。

新しいmuse new yorkは、春らしい色がとても好評で、思い切ってよかったなあと思っている。日本からも定期購読の申し込みが少しずつ入ってきて、とてもうれしい。

 

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ここまで書いて、食事の準備を再開、A男と共に、夕食を楽しみました。

さて、まだ書きたかったことがいくつかあるので、週末の空いた時間を見計らって、少しずつ書いてみることにします。なんだか、どんどん長くなるけれど「長くてもよい」という読者のコメントが多数なので、続けます。毎回平均400字詰め原稿用紙に15〜20枚程度のボリュームで書いているのですが、今日は30枚を軽く超えます。ずいぶんな量ですね。

これを職場でお読みの方、そろそろ仕事にお戻りになって……(アンケートをお願いした際、日本時間の午前中にたくさん返事をいただいたので、職場で読んでいらっしゃる方が多いのだということを知りました)。

後半は改めて、お楽しみください。

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●「××人は○○な傾向にある」などと、
  やっぱり言ってはいけないのか

先週の火曜は、宝石関係の仕事をしている友人Hさんに会った。muse new york Vol. 4の「ニューヨークで働く日本人女性インタビュー」にも登場してくれた女性。日本に住んでいた頃、小さな貿易会社に勤務していて、コロンビアのエメラルドのバイヤーをしていた。

彼女のコロンビアでの体験は、まさに命にかかわることばかり。記事にできない裏話がたくさんあって、書けないことがとても辛かった。数年前、ニューヨークに来て、以前から知り合いだったユダヤ系のアメリカ人と一緒に暮らしている。

現在は宝石の専門学校で勉強をする傍ら、自分でもジュエリーのデザインや制作を手がけている。彼女の家でビールを飲みながら、しばらく話をする。私は、27歳の時、フリーランスになった記念に母がくれた、大振りの素敵な指輪を、いつも左手の中指につけている(そもそもは、父が母にプレゼントしていたもの)。川を思わせる、幅広く流れるような金色のリングに、いくつかの小さなダイヤモンドが配されている。

ある日、カフェでコーヒーを飲んでいたとき、隣に座っていた美しい老婦人が、私のその指輪を見て言った。

「まあ、すてき! その指輪は、まるでマンハッタンみたいね」

その時初めて気づいたのだが、流れるようなリング部分はハドソン川、そして細長く並んだダイヤモンドは、まさにマンハッタン島のような形をしているのだ。それ以来、この指輪がいっそう好きになった。

Hさんがその指輪をクリーンナップしてくれた。随分汚れていたのか、見違えるようにピカピカときれいになった。さらに、ダイヤのクオリティを調べようとルーペでのぞいてみる。肉眼では見えないけれど、よくよく見ると表面に無数の傷が……。

ダイヤモンドは強い石だから、多少ぶつけても平気だろうと思っていたのだが、それは大きな間違いだった。カットされたダイヤはとても繊細で傷つきやすいのだとか。もちろん、わざわざぶつけたりはしないが、毎日身につけていると、思わず何かにぶつけたりするものだ。それで少しずつ、表面が傷ついていたらしい。今度から、もっと気を配ろうと反省する。

宝石は、世界中どこででも、普遍的に価値がある。彼女と話をするにつけ、なんだか宝石に興味が沸いてくる。高品質の宝石を自分で買い集めるほどの財力は、今のところないけれど、いつも身につけていられる宝石が欲しいなと思えてくる。

その夜、彼女とは、私が以前ブラジル人の知人から勧められていたブラジル料理のレストラン「Bosa Nova」に行くことにした。そう、あのサンクスギビングデーパーティーで出会った、A男のおばの部下夫妻である。ところが、夜9時頃の書き入れ時だというのに、店には誰一人お客がいない。店頭で、私と彼女は顔を見合わせる。どうしよう、まずいかもしれないね……。その前の週、人に勧められて出かけた日本料理店が失敗だったから、私もかなり警戒している。

二人して、その近所(アッパーイーストサイド)をうろうろするが、なかなかいい店は見つからない。仕方ない、だまされたと思って入ってみることにした。

まずはVol.17でも紹介した、あのブラジルでポピュラーなカクテルをオーダー。ややこしい名前なので覚えきれないのだが、「ライム入りの有名なカクテルがほしい」と言ったら、ウエイトレスは即、理解してくれた。

おいしいカクテルを楽しんだ後は、ウエイトレスのおすすめに従って、甘みのあるヤムイモのフライとチョリソー(サラミ)のアペタイザー(前菜)をオーダーし、アントレ(主菜)は肉のグリルを頼む。チキン、ビーフ、ポーク、そしてソーセージの大きな固まりが、大きな金串に1本に刺されて出される。付け合わせはトマトやタマネギのサルサ(ソース)に豆の煮込み。白いご飯も出てくる。

どれもおいしくて、重たいはずの料理をぺろりと食べてしまった。「だまされたと思って」なんて言ってしまってごめん、って感じだった。それにしても、平日とはいえ、私たち以外、誰も入店しない。オープンして1年ほどだが、これでは採算が合わずつぶれてしまうのではなかろうかと心配になる。つぶれるまえに、muse new yorkで紹介しようかしらとも思う。

話がまた食べ物のことになったが、ここで言いたかったのは、Hさんのコメント。インド人であるA男や前回登場したL男が、ビジネスでどうしてもアグレッシブになれないということを彼女と何気なく話していたら、彼女は突然否定したのだ。

「えーっ!? 私、インド人って、なんて押しが強くてアグレッシブなんだって、いっつも思ってるんだよ。インド人の宝石商なんて、世界で一番、押しが強くて、アメリカ人なんてタジタジだよ。特に彼らは先祖代々から引き継いでこの仕事をやってるから、商売のやり方も極まってるし」

だそうだ。

確かに、東南アジアなどに行くと、観光地などあちこちにインド人の両替商がいて、巧みな商売をしているものだ。そうだそうだ。確かに彼女が言うこともわかる。やっぱり、一概に「インド人は###」「日本人は****」なんて、自分が見知っている範囲内で言い切ってはいけないのだと、ちょっと反省。あくまでも、「一部の」という認識でいないと、思いこみによる誤解やトラブルを発生させかねない。気を付けよう。

 

●父から届いたEメールのことなど

何度か、メールマガジンにも書いたが、去年の今頃、私の家族の周辺はひどく落ち込んでいた。3月14日に、父が末期の肺ガンを医師に告げられ、残された命はそう長くないかもしれないと言われたからだ。

日本に一時帰国したときはちょうど桜の季節で、父が入院していた病院の庭にも、確かに桜の花が咲き誇っていた。しかしながら、爽やかな青空も、満開の桜も、心地よい風も、すべてがもの悲しく感じられ、それは、毎日病院通っていた母にしても妹にしても、同じ気持ちだったと思う。春特有の、心の躍動など、少しも感じられなかった。

心に大きな重石がのしかかっていると、たとえ美しい物を見ても、おいしいものを食べても、心が動かない。一年経った今、そのことをふと思い出す。

夏の終わりには退院できた父は、毎月の検査結果で、再発していないかどうかの確認をする。時には数値が上がっていたりして、そのたびに父をはじめ周囲の人々の心は乱れるが、それでも今のところは特別の治療を施される必要なく、元気に生活を送っている。

一度、死を身近に感じた人にとっては、その後、自分を取り巻くすべてが違って見えるに違いない。父から、今日、こんなEメールが届いたので、身内のことながら、ちょっと紹介したい。先日、母と二人でハウステンボスにドライブ旅行してきたのだ。

 

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ハウステンボスの旅は最高でした。まず快晴、気温心地よし、風穏やか、心晴れ晴れです。チュウリップが相変わらず可愛く僕たちを迎えてくれました。テディーベア館でスカーレット(注:実家にある4歳児ほどの大きさのテディーベア)の仲間達に会い、嬉しい始まりでした。

運河を行きかうオシャレな船でお茶とケーキを頂き(運よく貸し切りでした)、運河を出て湾内を一周しましたが、風に吹かれて何と気持ちの良い事か、言葉では表現出来ないのが残念です。日頃食べた事があまりないチーズフォンデュを食べたり、食事は全部洋食にしたり、外国に行った時のお稽古のマネ事をしたり楽しい事ばかりでした。

退院してからの生活ががらりと変わりました。人生観が変わると自分の目線と言うか、見る目と言うか、見方が変わります。よくわからないけれど、物がはっきり捉えられたり、見る物が美しく見えたり、心が穏やかになり自分で言うのもオカシナ話ですが、すなおになったように思います。とにかく楽しい旅でした。

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私が知る限りでも、波乱に満ちた父と母の半生。すでにリタイヤする年齢の今でも、父は仕事に対する意欲を失わず、これからの人生を母と楽しく過ごすことを考えている。どうかこれからもずっと、病が再発することなく、元気で過ごして欲しいと思わずにはいられない。

 

●3月17日は街中に「緑」が溢れるセントパトリックス・デー

3月17日土曜日。今日は、アイルランドの守護聖人である聖パトリックをしのぶ祝日だった。この日、アイルランド系の住民が多いニューヨークやボストンでは盛大なパレードが繰り広げられる。

聖パトリックがキリストの三位一体(父と子と聖霊)を説く際に、クローバーに似たシャムロックという三つ葉を使ったことから、シャムロックのグリーンをシンボルカラーに、グリーンの衣類や小物、アクセサリーを身につけた人々は街へ繰り出す。

普段はギネスビールがメインのアイリッシュ・バーも、この日はグリーンのビールを出したりする。飲んだことがないので味はわからないが……。

昨日はずっと雨だったので今日はどうなることかと思ったが、パレードが始まる11時頃は曇ってはいたものの、雨はやんでいた。私たちは夕べ遅くまでビデオを観ていたので、目覚めたのは昼頃。ブランチのあと、3時頃まで新聞を読んだり、メールマガジンを書いたりして過ごした後、外出することにした。

散歩しながら五番街まで行くと、4時頃だったにもかかわらず、まだパレードが続いていた。バグパイプの演奏はもちろん、さまざまな学校や組織、宗教団体などのグループがパレードに参加していて、チアガールやブラスバンドの姿も見られる。沿道は見物客でいっぱいだ。

私たちは五番街を南下、セントパトリック教会を過ぎて、ロックフェラーセンターへ行き、紀伊国屋で休憩。たまたま、在ニュー・ヨーク総領事館の出張サービスで、在外選挙に参加するために登録手続きが行われていたので、遅ればせながら登録手続きをする。その間、A男は、紀伊国屋の一画にある小さなカウンターの喫茶コーナーで、紅茶など飲んでいる。

店を出ると、雨が降り出していた。ちょうどパレードの間だけは雨がやんでいた格好だ。やはり聖人のパレードだけあり、「神通力」が働いているのか。

近所のギフトショップで安い傘を買い、エクササイズも兼ねてダウンタウンまで歩こうと、さらに五番街を南下する。エンパイアステートビルを過ぎ、フラットアイアンビルを過ぎ、進路をブロードウェイへ移す。さらにユニオンスクエアに向かおうとしたところで、途中にある「ABCカーペット」という各種インテリアを扱うビルでトイレ休憩。

ここは、カーペットだけでなく、アンティークの家具やインテリア雑貨など、品揃えが多彩でたいへん個性的なショップ。以前はヨーロピアンスタイルのものが多かったが、最近は流行に沿ってか、アジア・オリエンタル、アフリカなどエスニックな家具が増え始めている。

しばらく訪れないうちに、館内に新しいレストランができていた。「Chicama」というペルー料理の店だ。店頭でメニューを見ると、なんだか魅力的。ダウンタウンに行くのは取りやめて、ここで早めのディナーをとることにした。

さすがにインテリアショップ内の店だけあり、内装も非常に凝っている。バーコーナーには、多彩な色ガラスのカバーを被せたランプが無数にぶら下がり、独特の雰囲気を漂わせている。オープンキッチンには魚介類もディスプレーされている。

まずは、ラムとライムジュースのカクテル「モヒト」で乾杯。年末のキーウエストの号で紹介した、あのカクテルである。たっぷりのミントの葉が入っていて、とても香りがいい。しかも、割り箸状の「サトウキビのスティック」が添えられている。

祖父が砂糖工場を経営していたA男は、サトウキビを見るや、「あ〜、懐かしい!」といって、スルメでも食べるように、ムシャムシャと咀嚼し始める。ちょっと、ちょっと、そんなもの、食べてる人、誰もいないわよ、と制するが、お構いなしに食べ続けて、ついにカスだけを吐き出している。食べるだけ食べといて、

「インドのサトウキビの方が、ずっとおいしい」

 

ここでは、アペタイザーに、「ユカ・ルート」とという、芋のような根菜類のフライに、スパイシーなソースがかかったものを食べる。このユカという野菜は、サツマイモのような甘みがあって、ホクホクしていてとてもおいしい。

それと、サーモンのセビーチェもオーダー。セビーチェといえば、以前、「スシ・サンバ」という店の話を書いたときにも紹介した、あの刺身のマリネのような料理だ。ここのセビーチェは、スシ・サンバよりもおいしかった。しかしアントレで頼んだヒラメのグリルが今ひとつ。後味が悪いので、最後はシナモンのケーキで締めくくったのだが、これはまたおいしかった。

マドレーヌをやや堅くしたようなスポンジに、シナモンシュガーがあんこのように入っている。程良い甘みがとてもいい。添えられていたバニラアイスも上品な味だった。

思いがけずペルー料理も堪能。次号のmuse new yorkでは、マイアミとキーウエストを紹介するので、彼の地で楽しめるラテン料理をニューヨークで、という切り口で、少なくとも前述の「Bosa Nova」とこの「Chicama」、そしてあと数軒リサーチして紹介することにしよう。あー、また取材を兼ねて、食べに行かなくちゃ!

 

●昔、モンゴル旅行で出会ったS君がNY出張に来たので一緒にランチ

1992年にモンゴルを一人旅したとき、ウランバートルで、やはり一人旅をしていた日本人のS君と出会った。私と同じ年齢の彼は、それまでもシベリア鉄道でロシアを旅したり、東ヨーロッパを巡るなど、個性的な旅をしていた人だ。

彼の勤務地が東京だったこともあり、旅行から帰った後も何度か食事をするなど、会う機会があった。3年前、仕事の関係でNYに来たときも、A男を交えて一緒にランチを食べたし、2年前に私たちが日本へ旅行へ出かけた際、何人かの友達と一斉に会って夕食を取ったときにも来てくれた。

現在、外資系の金融会社でアナリストの仕事をしている彼は、今回、全米の主要都市のいくつかを訪れる予定で、ニューヨークには3日の滞在だという。せっかくだから一緒にランチでも、ということで、今日、日曜日、またもやA男を交えて、インド料理を食べに行った。

「日本で「アナリスト」は、なんて呼ばれているの? 分析者っていうの?」

という私の質問に、「アナリストはアナリスト、中国では『分析家』と呼ばれているみたいだけど」とのこと。日本語って本当に応用力があるけれど、これってみんなが知っている単語なのだろうか、と疑問に思う。

SくんとA男は、なにやらテクノロジーやらテレコム関連の、私にはあまり面白くない話に花を咲かせている。S君は海外に暮らしていたわけではないけれど、英語は問題なく話せる。やはり賢い人は違うな、と感心することしきり。なにしろ、アメリカに数年住んでいれば、みな自動的に英語がぺらぺらになるものだと、日本に住んでいる人はそう思うだろうけれど、実態はそうではない。

英語がろくにしゃべれなくても、ニューヨークではなんとかやっていけるのだ。だから、たとえ10年住んでいても、驚くほど英語を話せない人は少なくない。子供は別だけれど、大人は自然に吸収することはできないので、きちんと努力して勉強しなければ語学力はつかないのだ。

さて、S君の妹さんは、日本で働いていたパキスタン人と結婚したそうで、パキスタンでの結婚式にはS君とその妻が参加したという。町はずれの村での結婚式は、かなり印象的だったよう。なんでも、家の近くの路上でウシを殺(あや)め、それを料理するのだという。

モンゴルに行ったとき、ヒツジの解体を目の前で見た後、ヒツジ料理を食べたことがあったけれど、ウシは大きいから、より強烈だと思う。なにしろ、モンゴルの場合、「血を一滴も流さず」さばくのだが、イスラムの、彼が経験した限りでは、喉を切り、血を流しきってからさばくのだという。だらだらと血が路上にしたたるさまを見た後に、それを食すとなると、かなり辛かろう。

「喉を切って殺す」という方法以外をとってはならないため、ウシが暴れないよう、足などをあらかじめ縛っておく必要があるという。いろいろな戒律があるものだ。

Sくんは今週末、ワシントンDCにも行くという。私も水曜あたりからDCの予定なので、今度はDCで会えれば、また食事でもしようと言って別れた。

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今回は、ボリューム満点のメールマガジンでした。ちょっと仕事が一段落したら、気分的にリラックスして、ついついあれこれと書いてしまいます。

今は日曜の夜。私は普段、ほとんどテレビを見ないのですが、A男が「フードチャンネル」というプログラムで日本の「料理の鉄人」を見ていたので、私も少し見ました。アメリカ人の吹き替えなのですが、日本の若い女優のコメントをアメリカ人女性が吹き替えると、すごく変な感じです。だって、日本の若い女優の大半は、「わーっ」とか、「うふふ」とか、「ふーん」とか、「はあ……」といった、曖昧な相づちやら意味のない発言が非常に多いので、しかもそれが妙に子供みたいな高い声なので、アメリカ人女性がそれを真似ると、本当に変なのです。おもちゃの人形みたいです。

もっとはっきりしゃべらんかい! と思います。でもはっきり自己主張すると、だめなんでしょうね、日本では。

それでは、この辺で終わります。


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