ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 34 3/24/2001

 


3月23日金曜日。今、朝の11時です。ゆうべ、ワシントンDCに到着しました。マンハッタンは数日前から雨が降り続いていたのですが、こちらは本日快晴です。週末をDCで過ごして月曜朝には、またニューヨークに戻ります。

夕べ、DCの鉄道駅、ユニオン・ステーションからタクシーで家に向かう途中、桜並木が続くタイダル・ベイスン(池)のほとりを通り抜けました。第三代大統領を記念して建立された「ジェファソン記念館」が、薄暮にライトアップされて浮かび上がり、とても美しい景観を呈していました。

開花予想によると、DCの桜は来週末、4月1日から5日にかけてのいずれかの日が満開だそうです。今年はmuse new york にも紹介したのだし、ぜひとも見に行こうと思っています。

さて、今日は平日ですが、「どうしても今日中に」という仕事がないので、臨時休業にしました。自営業はこんなことができるので、いいものです。

7時半に起きて、A男が会社に行くのを見送ったあと、先ほどまで「家事」をしていました。なにしろ、数週間来ないうちに、驚くほど部屋が荒廃してしまうのです。今、ようやくきれいに整頓された部屋で、窓を開け放ち、少しひんやりとした春風を部屋に流し込みながら、コンピュータに向かっています。

 

 

●家事をしながら思うこと

普段から、部屋が散らかっていると精神的にやすまらないし、仕事に集中できないので、こまめに掃除をする方だ。一方、A男は散らかっていてもさほど苦にならない様子で、仕事の資料などが机やその周辺にバラバラと散乱していても、気にする様子はない。

編集の仕事は、膨大な資料が必要だから、それをうまく整理していないと、「探す」だけでも時間をとられる。中でも使用する写真、特にポジティブフィルムなどは「一点物」だから、なくすとたいへんなことになる。写真に気を遣うのは編集者に限らず、デザイナーや印刷所のスタッフにしても同じことだ。

かけだしの編集者だったころ、同僚の編集者と二人で台湾のガイドブックを作っていたときのこと。彼女が台湾のカメラマンに借りてきたポジティブフィルムを一式、20点ほど紛失したことがあった。1週間以上、仕事が終わったあとや休日にも、オフィスをひっくり返すようにして探したが、結局見つからなかった。最終的に、上司が台湾まで手みやげをもって、謝罪に行った。

どんなに注意をしていても、たまに、大切にしまいこみすぎて、どこに入れたかわからなくなり、あたふたと探し回ることもある。だから、A男をはじめ、整理整頓に拘らない人たちが、さほど仕事に悪影響が出ていない様子を見るにつけ、これは皮肉ではなく、一種の驚きを禁じ得ない。

さて、家事の話題。ワシントンDCの私たちの家(兼、一部ミューズ・パブリッシングのオフィス)は、マンハッタンよりも家事がしやすい。というのも、アパートメントの部屋の中に洗濯機と乾燥機が備えられているからだ。

マンハッタンの場合、たいていのアパートメントは、ランドリーは共同の施設を利用することになっている。排水の問題なのか、騒音の問題なのか、理由はよくわからないが、とにかく、一旦、家を出て、ランドリールームまで行かねばならないのだ。これがいちいち面倒くさい。

各階ごとに2,3基の洗濯機と乾燥機を備えているビルもあれば、うちのように1フロアがまるごとランドリールームになっていることもある。クオーターと呼ばれる25セント硬貨を何枚かマシンに入れて利用する。

アメリカの洗濯機は、多分日本人には想像も付かないほど、大きくて、うるさくて、原始的なものだ。なにしろボディが頑丈な鉄板だから騒音が半端ではない。例えば脱水の際、衣類が偏ってきちんと回転しないときなど、「ガーン! ガーン! ガーン!」と、鉄のボディを打つものすごい音が響きわたる。オプションも「冷水・温水・熱水」の選択と、「通常・繊細」の選択がある程度。

仕上がった洗濯物は、たいてい著しく絡まって出てくる。無理に引っ張ると破れてしまいそうなくらいだ。日本のように外に洗濯物を干すことができないから、乾燥機を利用するのだが、これもまた猛烈なパワー。Tシャツなどは小さく縮んでしまうし、ソックスやベッドカバーなどのゴム部分はみるみるうちに痛んでしまう。だから、下着などは手洗いをするか、もしくは洗濯したあとバスルームなどに干さなければ、瞬く間に古びてしまう。

さて、昼間のランドリールームを占拠しているのは、ハウスキーパーの女性たち。その多くが中南米のラテン系で、あちこちでスペイン語が飛び交っている。マンハッタンには夫婦そろって働いている家族が多いから、洗濯や家事は手頃な予算で請け負ってくれるハウスキーパーに任せる人たちが多いのだ。

また、ランドリーサービスを行うクリーニング店も多い。洗濯物を引き取りに来て、洗濯を済ませ、きれいに畳んだものを翌日届けてくれる。その場合、1ポンド95セントという具合に、重さで料金が決まる。私も、とても忙しかったときなどに何度か頼んだことがあるが、とても便利だった。

うちのアパートメントのランドリールームの一画には、大きなコルクボードがあり、落とし物のソックスやパンティーなどが画鋲で止められている。ランドリーでは、なぜだか頻繁にソックスがなくなる。乾燥機や洗濯機の隅に置き忘れたりするせいだろう。気を付けていてもなくなるから、うちには片方だけのソックスがたくさんある。

ところで、掃除機かけについては、ニューヨークの方が断然、楽だ。というのも、昨年、マンハッタンのホームセンターで、新製品として入荷されていた日本製の掃除機を購入したからだ。音は小さいし、軽いし、小回りは利くし、非常に使い勝手がいい。感動的なまでの高品質だ。

しかし、DCでは日本製が手に入らなかったため、巨大かつ騒音の激しい掃除機を購入した。これがまた重いこと重いこと。いいエクササイズになるというものだ。頭がガンガンするほどの大音響で、小回りが利かないし、すみずみの埃が取れないから、本当に不便。

以前も書いたけれど、日本の家電は本当に優れているとつくづく思う。

 

●バスルームについて思うこと

先日、久しぶりにバスタブにお湯を張り、「温泉の素」を入れてゆっくりと入浴した。日本での生活とアメリカでの生活、どちらにも善し悪しはあるけれど、私にとって、トイレとバスが一緒になったアメリカのスタイルは、どうしても好きになれない。視界に便器を感じながら入浴するのは、いいものではない。日本のように、深めの浴槽のお風呂が本当に恋しい。さもなければ、ジャクジーのような広々とした浴槽があるところに住みたい。

だいたい、トイレとバス、洗面所が一カ所にあるのは非常に効率が悪い。2ベッドルーム以上の部屋ならバスルームは2カ所あるが、それ以下の場合はたいてい1カ所だから、朝の忙しい時間などはバスルームの取り合いになるのだ。誰かがトイレを使っていれば、歯磨きや洗顔もできないし、化粧なども別のところでしなければならない。

ところが、この間、トム・クルーズとニコール・キッドマン元夫妻が共演したことで話題になった「アイズ・ワイズ・シャット」という映画を見て驚いた。夫役のトムがバスルームの洗面台に向かっているその背後で、妻のニコールが便座に腰掛け、用を足していたのである。ひょっとして、アメリカ人は、パートナーに用を足しているところを見られても平気なのか??

多分、多くの日本人は、それはできないと考えるに違いない。もちろん私もA男もそうだ。でも、時々、レストランやカフェなど公共のバスルームで順番を待っているときなど、不可解な行動をとる人に出くわす。1室しかないバスルームに、親子や姉妹、もしくは親しげな友人同士で、一緒に入っていくのである。しかも、以前もトイレの話を書いたときに紹介したが、みんな大声で会話をしながら用を足すのだ。「羞恥の基準」というのは、それぞれの国によって本当に異なるものだと実感する。

それでもまだ、中国に行ったときの方が強烈だった。北京、上海、無錫、蘇州などを旅した10年ほど前の話だが、当時も中国では、個室のないトイレがたくさんあった。たとえドアがあったとしても、開け放して用を足す人が多い。噂には聞いていたけれど、実際に目の当たりにするとかなり強烈だった。旅の最初のうちは使用するのに激しい抵抗感を覚えたが、それでも旅の後半にはかなり順応できた。

中でも蘇州の観光地にあったトイレが、排水用の溝が一本あるだけの、最も原始的なものだった。余りにも印象的だったので、誰もいなくなった隙を見計らって、記念に写真撮影をした。その写真を母に見せたところ、さほど驚く様子もなく、「あら、日本も昔はこうだったのよ」とのこと。えっ、そうなの?そうだったの? となると、「羞恥の基準」云々の問題ではないのか。なんだかよくわからなくなってきた。

 

●「舐める」アメリカ人たち。

「抗菌」だ「滅菌」だと、衛生面に過剰なくらい気を配るのは、世界でも日本くらいだろう。以前、アメリカ人の衛生面に関する意識の低さを書いたことがあったが、その延長で、「舐める」アメリカ人についても紹介しておきたい。

アメリカでは「封筒を舐めて封印する」機会が非常に多い。日本では、舐めて封印できる封筒は少なかった気がするが、こちらのものは90パーセントが「舐めて封印用」にできていると思われる。

アメリカには、銀行の「自動引き落とし」というシステムが、基本的にはない。電話代も電気代も、クレジットカードの支払いも、たいていは小切手(チェック)で支払うようになっている。毎月届く請求書を確認し、たいてい1カ月以内に指定されている支払期限の日までに、然るべき金額と本人のサインを記入した小切手を、封筒に入れて切手を貼り、郵送する。

これは面倒に思えるが、私にとっては、自分が使った金額をきちんと確認した上で小切手を切ることができるので、勝手に引き落とされるよりは安心感がある。なにしろ、アメリカの「事務的作業」は、あらゆる場面においていい加減だしミスが多いから、間違えた金額を勝手に引き落とされたりしたら、たいへんな事態に陥ることも考えられるのだ。

電話会社やクレジットカード会社などの請求書は、たいてい返信用の封筒が付いてくるが、その封筒も「舐めて封印」できるようにできている。わざわざ水で濡らして封印するような面倒なことをするアメリカ人はいないはずだから、ほとんどのアメリカ人は月に少なくとも5枚以上の封筒を舐めていることになるだろう。

銀行の振り込みにしてもそうだ。受け取った小切手を自分の口座に入金する際も、所定の封筒に入れて、ATMマシンから入金する。その封筒もやはり、封印用の糊が付いている。銀行では、老若男女問わず、舌を出してべろべろと封筒を舐める人たちをよく見かける。

郵便局でもそうだ。最近でこそ、シール状の切手が普及し始めたものの、それでも裏面を濡らして貼る切手が多い。日本のように水を含んだスポンジが用意されていることはごく稀で、スポンジがあってもカラカラに乾燥していることが多いから、やっぱり人々は舐める。1枚、2枚ならまだしも、10枚、20枚と舐め続けて大量の郵便物を出している人を見かけることも少なくない。

私も最近「舐め慣れて」きて、「あ、この封筒の糊は苦い」とか、「あら、なんだか甘い」などと、糊のテイストを評価するまでになってしまったが、果たしてこれは、身体に悪くはないのだろうか。ある日、銀行で封筒を舐めながら、ふとそんな疑問が頭をもたげた。ひょっとすると、何らかの化学薬品が入っているかもしれない。封筒に使用される糊について知っている人がいれば、ぜひ教えて欲しいものだ。

それにしても、アメリカ人は、ごく一部の人たちをのぞき、体内に多くの人工的なものを摂取しているとつくづく感じる。スーパーマーケットを歩くと、人工甘味料、人工着色料などがじゃんじゃん使用された菓子や飲料などが無数にある。

「オーガニックフード」とか「ヘルシーフード」を信奉する少数派と、本人はもちろん子供にも、着色料や添加物たっぷりの食品を食べさせて平気な多数派によって、アメリカという国はアンバランスに成り立っているのだと言うことを、さまざまな側面において感じずにはいられない。

 

●「国際化」したほうが、得することも多分、多々ある。

「国際化」という言葉をして、日本では「アメリカナイズ」と混同されてしまうことが多いように思われる。「コスモポリタン」「グローバル」など、なんだか手垢が付きすぎたように思われる言葉も、主にはアメリカを意識したもので、例えば「中国的に」「ケニア的に」国際化するとイメージする人はいないだろう。

世界の中心を気取っているアメリカに、そして自国が一番だと悠然とした態度でいるアメリカ人に、「図に乗りすぎじゃない?」「何様なの、あなたは?」と思うことがしばしばだが、それでもこの国の経済や政策が、全世界に大きな影響を及ぼしていることは、善し悪しは別として事実である。

たとえば、どんなに技術や素養や資質があっても、それを世界的に通用させようとするならば、やはりアメリカ、もしくはヨーロッパの壁をうち破ることが、「グローバル」の第一歩であることは、事実であろう。本国内にとどまらず、海外においても何らかの業績を上げるとなると、たいていの場合、同じ土俵に立つ必要がある。

なぜ、こんなことを書いているのかといえば、夕べ、カリフォルニアのカンファレンスから帰ってきたばかりのA男の話を聞いたからだ。

今週の月曜から水曜にかけて、ロサンゼルスのアナハイムというところで、OFC(Optical Fiber Communication Conference and Exihibit)というテレコム関係のトレードショーのようなものが開催されていた。A男は、最近テレコム関係の投資についても担当し始めたため、リサーチを兼ねて出かけたのだ。

出張の数日前、彼からニューヨークに電話があった。

「ねえ、ミホ、一緒にロサンゼルスに行こうよ。ディズニーランドの中のホテルが取れたんだよ。航空券はマイレージが使えるから、遊びに来れば? ぼくがカンファレンスに行ってる間、ミホはディズニーランドで遊べばいいでしょ。楽しいよ、きっと」

無料で2泊3日のディズニーランド。かなり心が動いたが、一人でディズニーランドで遊んでもねえ。それに、ロスまでは飛行機で7時間もかかるしなあ。フロリダのディズニーランドなら近くてよかったんだけど……。しかも、ディズニーランドは写真の著作権などが非常に厳しいから、何気なく写真を撮って記事にする訳にもいかないし、仕事にもならないからなあ……、と、結局行かないことにした。

さて、話を元に戻すと、このカンファレンスには世界各国から1000社以上が参加し、4万人近くの人々が参加したという。広大な会場に、各社がブースを設け、それぞれに趣向を凝らしたプレゼンテーションをする。

正確な数字ではないが、A男によると日本の企業も50社ほどが参加していたという。そのいくつかのブースを訪れた彼いわく、

「日本の会社、名前は覚えてないけど、プレゼンテーションがひどかったよ。研究者が自分でプレゼンテーションしなければいけないから、しかたないのかもしれないけど、髪はぼさぼさだし、よれっとしたスーツ着てるし、頼りない感じでね。すごく小さな声で説明するから、なんて言ってるか全然わからなくってさ。日頃、ミホのひどい英語で鍛えられてる僕でさえ、何一つわからないんだもん」

アメリカ企業の多くは、ブースの演出にも趣向を凝らし、参加者の注意を引くための工夫をしているのに対し、日本や中国の企業は比較的地味なところが多く、印象に残らなかったという。

「あと、OHP(オーバーヘッドプロジェクト)で説明をしてる日本のブースがあったんだけどね、スライドが、ずーっと斜めに傾いて映し出されてるの。みんな首を曲げて見てるんだけど、どうしてまっすぐに直さないのか不思議だった。あと、質問されると、いちいち驚いた仕草で『あっ、えーと』『あっ、えーと』って繰り返す人もいて、すごく変だったよ」

日本人を悪く言うと、私が気分を害すると知っていて、彼は嫌みなコメントを続ける。しかしながら、彼の話には腹が立つけれど考えさせられるものがあった。

どんなに優秀な企業でも人物でも、持っている実力を表現できなければ、相手に何も伝えられない。ましてや、数多くのブースから際だち、自らの研究成果や企業レベルを忠実に伝えるには、それなりのプレゼンテーションの方法を模索するべきだろう。

「世界基準」はこの場合、くやしいけれどアメリカ合衆国だから、この国の研究者の「俳優じみた」話しぶりにも、学ぶべき所はあるだろう。

30歳を過ぎてこちらに来た私にとって、日本では自己主張の強い方だと思っていたが、アメリカ人に比べると押しが弱いし、まったく敵わない。こちらの子供たちは小学校3,4年生からディベート(討論)のクラスが始まり、自分の思っていることをはっきりと効果的に表現する「訓練」をしている。

私は、日本のマスコミなどの風潮が、何かといえば「アメリカでは」「欧米では」と、外国の事情を引き合いに出し、日本に対して自虐的な評価をすることに抵抗を覚える。それぞれにバックグラウンドが異なるのだから、一つの結果だけを取り上げて、海外(欧米)の基準を礼賛するのは好ましくない。いたずらに自国の在り方を否定するばかりだ。

しかしながら、このプレゼンテーションなどについては、「アメリカ並み」に「厚かましく」やるべきだと思う。実力がないから理解されないならまだしも、実力があるのに表現のまずさから評価されないのは残念だ。しかも、日本人がいつもおどおどしてはっきりものを言わないことを理由に「舐められる」「見下される」のも、非常に腹立たしい。

決して「媚びる」のではなく、堂々と「意思表示する」ことが、必要なのだ。それは、自国、もしくは自分のやっていることに誇りを持っていなければ、あるいはできないことなのかもしれない。

アメリカのカンファレンスに参加する日本企業は、作戦をしっかりと練って挑むべきではないかと、余計なお世話ながら思わずにはいられない。


Back