ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 38 4/15/2001

 


今日は4月15日の日曜日。イースターサンデーです。イースターとは「復活祭」のことで、イエスキリストが死後3日目に復活したことを祝う日です。毎年、「春分後の最初の満月のあとの日曜日」がイースターサンデーに定められます。

イースターが近づくと、街のデリやスーパーマーケットなどでは、イースターのシンボルである卵やウサギを象(かたど)ったチョコレートなどの菓子類やぬいぐるみが賑やかに並びます。キリスト生誕の前から、欧州では「卵」が生命の源であり春のはじまりの象徴とされていたこと、また、ウサギは「月」の象徴とされていたことから、これらがイースターのシンボルになったともいわれています。

家庭では、たくさんの卵をゆで卵にし、カラフルなペイントをほどこします。これらは飾りに使われるほか、エッグハント(卵狩り)やエッグロール(卵転がし)というゲームにも使われます。教会や町が主催して子供たちを対象に行うイベントで、エッグハントは、公園や庭のあちこちに隠された卵を探し、特定の絵柄を見つけた子供には賞品が与えられたりするそうです。エッグロールは、卵に傷を付けないよう転がすことを競い合うゲームです。

1998年、アメリカにおけるイースターのデータによると、イースターの週に売れた卵は、1週間平均4億個に対して14億個だったとか。つまり3倍もの卵が売れたわけです。また、ペットショップの記録によると、ウサギが通常の3倍売れたともあります。ウサギのチョコレートは6000万個売れたそうです。

 

●春の息吹でエネルギーに満ちあふれたセントラルパークを歩く

イースターホリデーの土曜日。昨日もすばらしい好天だった。休日にしては少し早めに目覚めた私たちは、軽く朝食をとったあと、セントラルパークへ行くことにした。あり合わせの材料で、ランチ用におにぎりと卵焼き、それにフリーズドライのお手軽きんぴらゴボウ、生ハム、枝豆などでお弁当を作る。

半袖のシャツに軽いジャケットを羽織り、外へ出る。まずは、アッパーウエストサイドにある、土曜日でも営業しているポストオフィスへ。「いつもギリギリになって慌てるタイプ」のA男の、「タックス・リターン」の郵便物を出しに行くためだ。明日、月曜日が締め切り(当日消印有効)だが、忙しくて行く時間がないという。

早めにやっていればいいのに……とぷりぷり怒るも仕方ない。ポストオフィスの窓口前は、案の定、ギリギリタイプの人たちで長蛇の列。私が順番待ちしている間、A男は書留の資料に記入する。資料の最終確認をする人、書留の用紙を何度も書き損じて "Oh! Shit!" (クソッ!)と言いながらイライラしている人、不明点について見知らぬ人に尋ねまわっている人など、気ぜわしい空気に包まれている。

40分以上も並んで、ようやく送付が完了したあと、晴れ晴れとした気持ちでセントラルパークを目指す。今の季節、公園は生命の息吹で満ちあふれている。大勢のニューヨーカーたちが、自然のエネルギーに引きつけられるように、公園に集まってくる。みな、太陽の光を受け止めようと、半袖やタンクトップ姿で、まるで真夏のような出で立ち。芝生の上では、早くも水着姿で日光浴する人たちが横たわっている。

イースターのイベントが行われているため、子供を連れた家族連れもいつもに増して多い。ウサギの耳のような飾りをつけて歩いている子供、顔にペイントを施している子供、あちこちで歓声やら泣き声やらが上がり、もう大騒ぎである。

公園では、随所でスイセンの群生が見られ、今を盛りと咲き誇っている。白いもの、黄色いもの、いずれも緑に映えて美しい。さまざまな種類の桜も花を付け、公園を白やピンクに染めている。

花水木(Dogwood)や、木蓮(Magnolia)も、可憐な花を咲かせている。かぐわしい香りを放つ白い花は、カラタチだろうか。

少しばかり柄の悪い風情の白人男性と蓮っ葉な印象のラテン系女性の若いカップルが、カラタチらしき木の傍らを通り過ぎようとした。すると男性の方が、ハッとした表情で

「おう! なんていい匂いなんだ!」と叫ぶ。

「この木、なんて名前なんだよ?!」と言いながら木の方に近寄って行き、鼻先を花にくっつけて、くんくん匂いを嗅いでいる。

「ちょっと、おまえも来いよ、このいい匂いを嗅いでみろよ!」

と、ガールフレンドを呼ぶも、彼女は「アホな男……」といった顔をして苦笑している。かわいいカップルだった。

湖を見れば、ボートを漕ぐ人々、湖畔でカモや白鳥に餌をやり戯れる人、湖に駆けて行き、うれしそうに水浴びをしてはしゃぐ犬……。

湖の北部には、森のような遊歩道があって、ここは私たちのお気に入りの散策ルートでもある。彼方に摩天楼が見えなければ、どこかの国立公園でトレッキングをしているのとかわらない環境が広がっている。

見知らぬ鳥が、美しくさえずりながら、傍らを掠(かす)めていく。まだ残る枯れ葉の上を、リスがカサカサと音を立てて走り抜ける。一見、裸に見える木々も、近寄れば小さな新芽を付けていて、あと1カ月もすれば、あたりはまばゆい緑に覆われることを予感させる。

私は、柔らかくてつやつやと光る新芽を触るのが好きで、枝の随所から生まれたばかりの、まだ開ききっていない小さな葉っぱをいくつも触ってみた。A男に「新芽を触ると、エネルギーをもらえるから元気になるんだよ」と、またもや訳の分からない講釈をすると、「変なの〜、また嘘ついてるんでしょ」といいながらも、何気なく触っている。

すれ違う大人も子供も犬も、みんなニコニコしていて、とても幸せそうに散歩している。

芝生の丘の、大きな岩の上でランチを広げる。岩は太陽の熱を吸収していて、暖かくて気持ちいいのだ。海苔をたっぷりと巻いたおにぎりが、本当においしい。お手軽きんぴらゴボウも、トウガラシの輪切りまで入っていて、予想を上回るおいしさ。至福のひとときだった。

 

●祝・勝利! 長い戦いの果てに。

「こちらの手違いでした。坂田様への請求記録は、すべて取り消させていただきます」

受話器の向こうで、その声を聞いたとき、私は思わず力強い握り拳でガッツポーズを作った。そして心の中で叫んだ。「勝った!!」と……。

約2カ月にわたり、ダラダラと続いていた戦いが、今ようやく、私の勝利を以て、幕を閉じたのだ。そう、国際・長距離電話会社との戦いだ。

日本でも、このところ、電話会社のサービス合戦が激しくなり、低料金や多彩なサービスなどで顧客獲得に躍起になっている会社が多いように見受けられる。

ここアメリカでは、それがいっそう激しい。日本でいうところの市内通話はローカルの電話局と契約するのが一般的だが、「中距離電話」さらに「長距離・国際電話」というカテゴリーがあって、こと長距離・国際電話サービスを行う各社のセールスが、半端ではなく激しいのだ。

毎日のようにどこかの会社から電話がかかってくる。一旦、話し始めると切らせてくれないから、いつも「担当者がいない」の一言で切る。それでもしつこい人は、担当者の名前を教えろ、何時に帰ってくるのか、とうるさいい。適当に「プー子」とか、「ポン太」とか言って、出張だから来月まで帰らないとか言う。

たまに、翌月になって

"I'd like to talk to Puko, please." 
(プー子と話したいんですが……)

とかいう電話がかかってくるときには、笑ってしまう。もちろん、「外出中です」と言って切るのだが……。

今、私は、長距離・国際電話に関しては、日本のK社のサービスを使っている。なにしろ、カスタマーサービス全般にわたって、日本人が対応してくれる上に、通話料金も安いのだ。いろいろプランはあるが、私が申し込んでいるのは1分間11.5セントのプラン。日本円に換算すると1分間12円程度、である。

アメリカに来た当初は、どの会社も40セント以上だったから、ここ数年で驚くほど安くなっている。日本の実家にも、しょっちゅう長電話ができるから、精神的な距離は、東京にいた頃となんら変わりはない。時々、日本の出版社などに、Eメールが面倒だから電話をするのだが、先方は「わざわざそちらからかけていただいて、恐縮です」と、電話代が高いものと思っている様子。通信の世界が発達し、安くなるにつれ、世界はどんどん、狭くなる。

さて、K社のサービスを利用する前は、I社のサービスを使っていた。ここはアメリカの企業だが日本人担当のセクションがある。K社に申し込んで以来、なんら関わりをもっていなかったのが、つい数カ月前になって、I社からの請求書が届いた。いつの間にか、長距離・国際電話のキャリアをI社に勝手に変えられていたらしいのだ。

I社に抗議の電話をする。「私はK社と契約しているのだから、勝手に変えられた御社には支払わない。もし支払えと言うのなら、K社経由で払うから、その手続きはそっちでやってくれ」と、実現しないことはわかっていながらも頼む。先方は、確認して折り返し電話しますと言い、電話を切った。

面倒ながらも、再びK社に申し込みの電話をする。長距離・国際電話の申し込みは、その本人が申し込んだということを証明するため、音声を録音するなどして「第三者確認」の手続きがとられる。本人の意志で変更しなければ、本来は成立しない契約なのである。

ところがI社からはそれ以降、連絡がなく、翌月、またしても同じ請求書が届いた。話が進まないまま請求書を送りつける態度が気に入らない。以前も、全く別の会社と同じ様なトラブルがあって、その時は他社と二重請求状態になったため、一方を払わないでいたら、なんとコレクションカンパニー(取り立てや)経由で請求書が来た。ここで支払わないとクレジットヒストリーに傷が付くから、交渉するのも面倒で、くやしくも数十ドル払った経験がある。

今回は、過去の苦渋を晴らすべく、たとえ、それが数十ドルの請求であっても、徹底的に戦い抜こうと決意した。不正なやり方で利益を被っている奴らをのさばらせてはいけない。大げさのようであるが、これはもう、意地である。鼻息荒くI社に電話すると、日本人担当者いわく、ニューヨークオフィスではわからないからカリフォルニアオフィスから連絡をさせるとのこと。

日系3、4世とおぼしき年輩の女性から数時間後連絡が入る。日本語・英語が入り交じった言葉で、コンピュータのシステムが変更した際、以前の顧客リストが復活したため変更されたと説明される。もしも私がK社に変える際、I社に「解約手続き」をしていたら、こうはならなかったのだから、請求額を支払うべきだと譲らない。

確かに、請求書などを見ると、解約を通知するよう、小さな説明が施されている。しかし、一旦、他社のサービスを使い始めたら、誰にも勝手に変えられないはずなのだ。でも、彼女らは、そんなクレームに慣れているから、なんとしても払わせようと言葉巧みだ。というよりも、訳の分からない日本語で延々と説明を続け、こちらをげんなりさせて「わかりました、払います」と言わせる作戦に出ているように思える。

長々とした説明を遮るように「だから、結論を言わせていただくと、払う気はないんです!」と、言えば、また一から同じ説明を始められるといった具合。堂々巡りで脳が溶ける。先方は、K社がきちんと登録していなかったからこうなったと言い張るが、私は、勝手に変える方に問題があるだろうと応戦する。しかし結論が出ない。

一旦は電話を切り、一息ついて、K社に電話をし、どこまでが違法行為になるのかを細かく教えてもらって、次なる戦闘に挑む。K社がきちんと登録していなかった、というのは単なる言いがかりだということもわかった。

そんな戦いの最中、一旦、K社に戻していたのが、またI社に戻されていたことが判明。またまたK社に申し込みの電話をしなおし、怒りながらまたI社に抗議の電話をするも、担当女性は不在で留守番電話になっている。「違法行為をしているのはそちらの方だということが判明しましたので、しかるべき処置を取らせていただくことにしました」と、やや意味不明の、根性の悪いメッセージを丁寧な言葉で残す。

それから数日後、I社の担当者から電話が入り、冒頭の言葉を得るに至ったわけである。

ここでは面倒だから、ずいぷんプロセスを端折って書いたが、本当に、何度も電話して、何度も同じことを繰り返して大変だったのだ。この間も宅配サービスのUPSが、私の荷物を紛失した際、保険金の100ドルを受け取るのに、途方もなくエネルギーを費やしたことがあった。気力と意地。これもアメリカ生活に大切な要素なのである。それにしても、疲れた。

 

●リスト、ショパン、そしてアッシジのサン・フランチェスコ

13日の金曜日のこと。朝、目覚めたときに、ふと何の脈絡もなく、「アッシジ」がひらめいた。アッシジとは、北部イタリア、トスカーナ地方に隣接するウンブリア地方にある小さな村で、サン・フランチェスコがフランチェスコ教団を創始した場所だ。7年前、ヨーロッパを放浪中、アッシジに立ち寄り、まさに「心が洗われる」ような数日間を過ごした、私の大好きな場所である。

ランチ・ミーティングから戻ってきて郵便受けを開けると、小包が入っていた。封をとくと、『奇蹟のカンパネラ フジ子・ヘミング』と題されたCDと、プレスキットが入っている。カバーレターには、彼女が6月にカーネギーホールでリサイタルを開くにあたり、muse new yorkで取材・紹介をしてもらえないか、とある。

日本人の母とロシア系スウェーデン人の父を持つ彼女は、若かりしころ、そのピアノの才能を認められたものの、病により聴覚を徐々に失い、脚光を浴びることはなかった。ところが、数年前、日本のNHKのドキュメンタリーで大反響を呼び、現在では日本でもファンが多数いるという。私は知らなかったのだが、読者の方にはご存じの方もいるかと思う。

CDの曲目を見て、とてもうれしくなった。全10曲中、私の好きな曲が5曲も入っているのだ。

リストの『ため息』『愛の夢』『ラ・カンパネラ』、そしてショパンの『 ノクターン(第1番編ホ長調作品9-2)』『エチュード(第1番 変イ長調 作品25-1』。エチュードは、確か「牧童」というタイトルが付けられる場合もあって、心に躍動と希望を与えてくれるような、美しいメロディーだ。

さて、その曲目リストを目で追っていてハッとした。そんな曲があるとは知らなかったから、出合えたことをうれしく思った。

『小鳥に説教するアッシジの聖フランシス』というリストの曲がそれだ。聖フランシスというのは、サン・フランチェスコのことである。

今朝のひらめきは、このCDと符号していたのだなと思い、心はウンブリア地方の緑に満ちあふれた美しい丘に飛んだ。

先ほど、7年前の旅のノートを開いていて、偶然にも、私がアッシジに到着したのは、4月のイースターホリデーの最中だったこともわかった。ノートの一部を抜粋してみる。

「……8時過ぎ、ラヴェンナのホテルを出てアッシジを目指す。列車は海岸線を南下する。初夏の海は青くきらめき、風が心地よい。温もりある肌色をした家々に太陽の光が照りつけ、光と影がくっきりと織りなされている。

アンコーナを過ぎたあたりから、列車は内陸へ進路を移す。緑豊かな丘陵地に、オリーブの木々が規則正しく並んでいる。時折、一面の黄色に覆われた大地(菜の花だろうか)が車窓をかすめ、ハッとさせられる。岩肌を見せる荒々しい山岳地帯を抜け、いくつかのトンネルをくぐり、列車は更に内陸へ。

時に、ふと目に飛び込んでくる、小高い山上の、城塞の町。乾いた色の古い建物が、積み木のようにかたまっているのが見える。やがて、アッシジらしき城塞の町が現れ、列車は静かに止まった。駅を出て、田畑の中を縫って走るバスに揺られながら、私は次なる町への期待に心がときめいている……」

「アッシジは、サン・フランチェスコを抜きにしては語れない。彼は1182年、この町の毛織物商の息子として生まれた。遊び好きで、自由奔放な彼は『お祭り王』と呼ばれていたが、19歳のときハンセン氏病を患ったのを機に、聖書を耽読し始めた。やがて俗世を捨て、フランチェスコ教団を創始。布教活動に心を尽くし、やがてキリストの聖痕を授かるに至る。44歳で没するころには、多くの弟子と信者が彼を支持していた。

彼のよきパートナーであった美しき女性、サンタ・キアラもこの町を語る上で欠かせない存在。彼女はフランチェスコとともに、神の道を歩いた。彼らは華美を避け、清貧の思想のもとに布教を続けたという……。」

アッシジには、壮麗なバジリカ(聖修道院)があり、そこには彼をしのぶ、ジョットーのフレスコ画(祭壇画)が飾られていた。特に、サン・フランチェスコは、鳥や犬など動物たちに説教するのが好きだったらしく、サン・フランチェスコの周囲に鳥が集まっている絵もある。

「サン・フランチェスコが近づくと、小鳥たちは喜びさえずり集まってくるのを見た、と弟子が発言した」という記録もあるとか。

(餌をやってたんじゃないの?)……そんなふうに思って最初は笑っていたが、数日の滞在後にはしんみりと、「鳥にもわかるのかもしれない」という気持ちにさせられるくらい、この町には、敬虔な空気が満ちあふれていた。

私は教会が経営するホステルに5日間ほど宿泊していて、毎日、シスターたちと顔を合わせ、時には礼拝に出た。街を歩けば教会の鐘の音に包まれ、鳩の飛び交う中に身を置く。ホステルの図書室の窓からは、サンタ・キアラのバジリカとその鐘楼が見えた。

丘の頂上に上れば、美しいウンブリアの大地が一望のもと。膝を抱えて草の上に座れば、草原を波打つように滑ってきた清々(すがすが)しい風に包まれる。夕暮れ時には、天使が舞い降りてきそうな、陰影の美しい柔らかな雲間から、沈み行く太陽を見送る。辺り一面、茜色に染まっていく様を見ながら、ここは本当に特別な場所なんだと思う。

数年前、大地震に襲われ、バジリカの祭壇画の多くが破壊されてしまったというニュースを見たときは、本当に心が痛んだ。復旧が進んでいるのかどうか、知る術はないが、必ずまた、訪れたい場所である。

できれば、ウンブリアの大地が一面のひまわりで包まれている時期がいい。

イタリアの宗教画などには、サン・フランチェスコがモチーフとして登場しているものも少なくなく、美術館などで見る機会もあるかと思う。頭のてっぺんをつるりと剃った「河童風」のヘアスタイルと、シンプルな一枚布の衣服。服の胸のあたりが不自然に破れていて、これみよがしに、胸の聖痕を見せている。てのひらを掲げて、同じく聖痕を見せている絵も多い。また、丘の上のようなところで、天上の「キリスト」から、聖痕のビームを受けている様子が描かれているものもある。その様子はちょっと漫画的で、不謹慎ながらも、結構笑える。

アッシジは前述の通り、トスカーナに近い。フィレンツェとローマの中間地点くらいだ。北部イタリアを旅する機会があったら、ぜひ立ち寄ってほしい。その際、シエナも忘れずに。ここがまた、ロマンティックで素敵な中世の街なのだ。キャンティ・ワインのふるさともこのあたり。ワイナリー巡りをしながら旅するのもいいだろう。


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