ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 50 9/3/2001

 


仕事でもなく、定期的に発行する義務もないメールマガジンとはいえ、2週間以上、発行せずにいると、なんだか「やるべきことをやっていない」という気持ちになってしまいます。

今回で50号のメールマガジン。発行を開始したのが去年の9月末ですから、1年間52週として、ちょうど週に一度は発行していた計算となります。多いような、少ないような、何とも言えない数字です。

ところで8月31日は、わたしの誕生日でした。36年前のこの日、予定日よりも半月早く、4020グラムで生まれました。巨大です。産院の新記録だったそうです。その産院の先生はアメリカ帰りだったらしく、夫も出産に立ち会ったほうがいいと促し、わが父は私が誕生する一部始終を母と同時に体験したそうです。当時にしては珍しいことだと思います。

父は当時のことを振り返るたび、感動を込めた口調で「美穂は薄い膜に包まれて産まれてきた」と言います。一般にはどうなのか知りませんが、その先生いわく、薄い膜に包まれて産まれてくるのは珍しくて、いい兆候だとのこと。しかし、なにがどういう風にいいのかは、いまだに誰も知りません。ただ、それを目撃したこと自体が、父も出産の経験を母と共有したという証であり、それだけでも、何か意味があることなのかもしれないとも思えます。

ついでに言えば、わが妹は、5000グラム以上ありました。当然ながら、彼女も産院の新記録だったそうです。ちなみに二人とも自然分娩でした。母は特に体格がよかったわけでなく、中肉中背だったのですが、どういうわけか、巨大児二連発です。世間からは「双子が入っている」といわれていたそうです。

わたしは幼い頃の記憶が非常に鮮明に残っているので、3歳のころ、母が妊娠していたときの様子も、断片的ながら、克明に覚えています。当時、3歳児とは思えないしっかりとした体格と性格だったので、あまりのお腹の大きさに腰を痛めて、トドのように寝っ転がった母の腰や背中を叩いてあげたことなど、よく覚えています。

近所の山に、おばあちゃんと出かけて、お風呂を沸かすための薪(たきぎ)を拾ってきたりもしました。(いったいどういう時代なんだ!!)

わたしたちは福岡市内に住んでいたんですが、昭和45年くらいまではお風呂はガスでなく、薪をくべていました。幼児の頃からひとりで近所の銭湯にも行っていました。我ながら、なんてできた子供だったんだろうと思います。そのかわり猛烈に生意気で、手伝いに来てくれていた母の妹が、部屋で掃除機をかける様子を見て、「四角い部屋を丸く掃除機かけちゃだめ!」などと、母の口調そのままに叔母に言い、彼女を泣かせたりしました。我ながら、たまらんガキです。

でも、妹が生まれた日、そんな私も泣きました。忘れもしない3月だけれど雪が降り、寒くてストーブの前で着替えたあの日。おばあちゃんに連れられて産婦人科に行きました。赤ちゃんが2人、ガラスの向こうに寝ているのですが、明らかに、「こっちが美穂の妹よ」といわれた赤ちゃんは、隣の赤ちゃんの2倍ほどのサイズがありました。その大きさの違いは子供のわたしにも一目瞭然。とにかく大きすぎて、「私には、抱けない!」と、とっさに思ったのです。「小さい赤ちゃんのほうがいい!」と本音をいって泣いてしまいました。妹には産まれて早々、失敬なことを言ったもんだと思います。

さて、今は3日月曜日の朝。アメリカは「労働者の日(レイバーデー)」で、三連休です。この連休が、いわばアメリカの「夏の終わり」。明日からは、大人も子供もバケーション気分を捨てて、学校や仕事に戻ります。アメリカでは日本の4月の進学、進級シーズンが、この9月にあたります。

わたしとA男は、おととい、昨日の1泊2日でニュージャージー州のケープメイというビーチリゾートに行って来ました。ヴィクトリア調のすてきな家並みが続く、英国情緒漂う小さなリゾートです。

ところで、結婚をしたのだし、本名を出してもいいだろうと、前回は

A男を実名で書きましたが、不思議なもので、実名で書いた途端、文章が著しく私的に思われ(私的であるには変わりないのですが)、なんだか我ながら居心地が悪かったので、A男に戻します。同じことを書いていても、実名か記号かによって、印象は大きく変わるものです。

さて、今日はまず、皆様へのお願いから。

 

★教育特集を制作するにあたって、皆様へお願い

muse new yorkの秋号は、教育関連のインタビューや体験談を主に特集しようと考えています。今、ニューヨーク界隈に住んでいる色々な方に、子供との関わりの中で得た体験談などを取材しているところです。

非常にテーマが広くて漠然としているのですが、教育といっても堅苦しい学問の話ではなく、親子の関わりや文化などについてを中心に、紹介したいと考えています。そこで、以下に該当する皆様の投稿をお願いしたく思っております。

1) 小学生以上のお子さんをお持ちの、日本以外の国で育児をなさった経験のある方:滞在していた国での育児や教育を通して受けたカルチャーショックやトラブル、またその対処法など。

2) 日本にお住まいで、国際結婚をなさった方:日本で子供を育てる上で苦心なさっている点、あるいは問題提起など。

3) 帰国子女だった方:ご自分の海外生活を振り返り、よかった点、悪かった点を含め、ご両親との関わりなども織り交ぜた体験談。

いずれも、特にこれといったテーマを掲げているわけではありませんので、記憶に鮮烈に残っているエピソードなどがあれば、ぜひ投稿をお願いしたく思います。

文章は800字以上、1600字以内、といったところでしょうか。でも、余り気にせずに書いていただいて構いません。

muse new yorkは紙面に限りがありますので、何名の方の投稿を掲載させていただくかは検討いたしますが、ホームページの方には、すべて掲載させていただきます。

匿名か本名掲載可能かをご記入のうえ、ご送付願います。締め切りは9月15日あたり、です。この特集は、できるだけたくさんの方々の声を掲載したいと考えていますので、ぜひぜひ、ご協力をお願いします。質問事項などがあれば、メールでお問い合わせください。edu@museny.com

 

●人生の、何番目かの、岐路。

かなり私的なことではあるけれど、今の心境について少し。

いくつもの分かれ道があって、そのどれかを選びながら、進んできた。誰もがそうであるように。ただ、これまでは、どの道を選ぶのかは、大半が自分の意志によるものだった。自分の内なる声に耳を傾け、時には勘を頼りに、あまり深く考えすぎぬまま、選んできた気がする。

しかし、ここ数年、A男と生活を共有するようになり、さらに結婚してからは、その決定権は、わたしだけに委ねられるものではなくなってしまった。

結婚することを決めるまで、そして結婚するまで、結婚してから、何度となく会話を重ね、いや、会話と言うよりはむしろ激しい口論を重ね、お互いの主張を伝え合った。どうしたって、分かり合えない部分、互いの言い分を受け入れられない部分はあるわけで、しかしその「負の要素」に目をつぶらず、その存在を確認することで、少しずつ、お互いが歩み寄る方角に向かって来た気もしている。

前回も、結婚してから変わった心境について少しばかり書いた。あのときは「種火発生」程度だったのが、最近は自分自身でも、ハッとするほどに、心境が変わっていることに気づく。

この5年間のうち、一緒にニューヨークで暮らしていた時期は2年足らずで、それ以降、彼はフィラデルフィアに2年間、DCに1年と、離れて暮らしてきた。週末にはどちらかが会いに行っていたものの、不自由には変わりなかった。

ここしばらくは、わたしが月の3分の1をDCで仕事をするように移行してきたから、実質は離れている時間はさほど多いわけではない。だから、結婚前は、「一緒に暮らしたい」という彼を説得し、「これからもこのペースで、しばらくはニューヨークを拠点に生活したい」とわたしは言い張ってきた。

ニューヨークが好きで、この街での仕事が楽しくて、これからもここに暮らし続けたいという気持ちは少しも変わっていない。しかし、それと同時に、彼と一緒に暮らしたいという気持ちが、とても強くなってきたのである。

自分が一人で夕食を食べる分には、いっこうに差し支えないのだが、彼が、私が作り置きしているカレーなどをレンジで温め、一人で食べている姿を想像すると、心が痛むようになってしまったのだ。

それまでは、「手料理を食べられるだけ幸せ者!」なんて思っていたのが、「おかえりなさい」と出迎えてあげたいと切に思うようになったのだから、自分でも驚く。

これって、のろけ……?

だとしたら、読んでいる方にはさぞかし居心地の悪い「ごちそうさま!」と言いたくなる文章かもしれない。

しかし、わたしは「結婚って幸せ!!」と、特に舞い上がっているわけではないと、多分、思う。

なにか、心の中のスイッチが切り替わったのだ。

とはいえ、わたしは、仕事をしていない自分は考えられず、独立して生活している自分が好きだ。これからも、一生仕事は続けていくつもりではある。ただ、その仕事の在り方について、軌道修正しようと思いはじめた。

職業柄、彼よりもわたしのほうが、仕事に対して柔軟な変更が利く。なにしろ自分の会社だから、自分で仕事のボリュームも質も、少なからず調整できる。だから、ここは一つ、わたしが変わろうと思うのだ。

その第一歩として、季刊誌muse new yorkを、次号を以て休刊し、ウェブマガジンに移行することにした。2年余り続けてきて、それなりに読者からの支持も得、自分としても気に入っている冊子だが、仕事の傍ら趣味の延長で続けるには時間とエネルギーを要しすぎる。

(定期購読をしていただいている方には、改めてご連絡いたします。せっかくお申し込みいただいたのに、本当に申し訳ないと思っています。もちろん、差額はご返金します。何卒、ご了承ください)

発行の直前、A男をはじめ、周囲の人たちから「印刷物はたいへんだし、これからの時代、ウェブマガジンにしたほうがいいのではないか」と散々言われたけれど、取りあえず、印刷物を作ってみたかったのだ。やってみなけりゃわからないし。

muse new yorkを通して出会った人々、見知った出来事は数知れず、わたしにとっては貴重な経験ができたから、やったことに後悔はない。しかし、正直なところ、何から何まで一人でやり続けるには限界があったし、かといって、他のスタッフを動員してまで規模を大きくする目的も見えなかった。なにより本音を言えば、少しばかり「飽きてきた」のも事実だ。

それに加え、このメールマガジンをスタートしたことも、ウェブマガジンへ移行しようと決めた理由のひとつだ。このメールマガジンの読者からのコメントを読むにつけ、その反応の早さを痛感するし、頭ではわかってはいたものの、世界各地に自分の言葉が飛び散っていくことのすさまじさを身を以て経験し、もっとインターネットというものを自分なりに楽しく活用できないものかと考えはじめたのも事実だ。

さらに軌道修正の一環として、最近、自分自身の「作品」も書き始めた。このところ、メールマガジンの頻度が落ちてしまっている理由の一つは、仕事の合間に自分の作品に時間を割くようになったからだ。

いつまでも「突っ走って」ばかりいないで、時には速度を落とし、周囲の風景を眺め、自分の歩く方向に問題はないのかを、確認しながら進んでいく時期に来ているような気がする。

いずれにしても、この、私的なメールマガジンを発露することにより、そして、それに対しての反応を他者(読者)から得ることにより、自分では思いも寄らなかったところに、生活における、あるいは仕事における何らかのテーマを「かきたてられる」ことが少なくない。

というわけで、これからも、頻度は落ちても、メールマガジンは続けていきたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いします。

 

●ビーチリゾート、ケープメイに行って来た。

三連休の前半、土日を利用して、ケープメイに行って来た。マンハッタンから車で南下すること3時間半、ニュージャージー州の最南端にある小さなビーチリゾートだ。

ここに来るのは、二年ぶりのこと。ちょうど、muse new york創刊準備号の巻頭に、このリゾートを紹介した。

始まりの気持ちと、終わりの気持ちを、奇しくもこの小さな町で味わうこととなった。砂浜に横たわり、ビーチパラソルの向こうに青空を眺めながら、うつらうつらと、ニューヨークに来てからのことを考えていた。

波の音が心地よくて、海鳥の鳴き声や子供たちの歓声が遠く近くに聞こえて、考えると言うよりは、「ぽこ、ぽこ」と浮かんでは消える雲のように、とりとめのない思いが、脳裏に「ぽこ、ぽこ」と浮かんでは消えた。

こんな風に、ただ、砂浜や、あるいはセントラルパークなどの草地に寝ころぶだけのことが、こんなにも、気分のいいことだということを、身を以て感じるようになったのは、ここ数年のことだと思う。

とても原始的で当たり前で、めずらしくもない行動なのに、とても大切なものを発見したかのような心境になるのは、多分、日本で、いつもいつも「追い立てられるように」生活してきたせいだろう。遡れば、子供の頃から。多くの日本人がそうであるように、わたしもまたそうだった。

このケープメイには、野鳥保護区があって、その近くのビーチはひと気も少なく、わたしたちはそこへも足を運んだ。カモメだけではなく、名も知らぬ小さな海鳥が、海辺を、餌を求めて走り回っている。長いくちばしで砂をつつき、何かを取っている様子だが、貝だろうか。

2年前、ここに来たときは主に取材が目的で、わたしも彼も翌日には仕事があり、早朝に戻らねばならなかったから、泳ぐ時間はないだろうと、水着を持っていかなかった。ところが、思いがけず町の取材が早く終わり、海辺を散策しているうちに、ひと気の少ないこの野鳥保護区近くにたどりついた。

砂浜に横たわっているうちに、二人とも、どうしても泳ぎたくなった。夕暮れ時で、周囲に人がいないのをいいことに、彼はトランクス、わたしはTシャツとパンツ(!)で海に入った。

それがもう、大失敗。白いTシャツだったものだから、身体に密着してすけすけ。むしろ裸よりもおぞましい姿となり、A男は「やめて〜!」と大笑いしながら叫び続ける。我ながら、恐ろしく、とんでもない姿だった。

それでも、海の水は心地よい冷たさで、気分がよかった。

「こんな姿は絶対に、他人には見せられない」と思っていた矢先、遠くからホエールウォッチング(鯨見学)のクルーズ船が近づいてきた! A男が「ミホ! 隠れて!」と叫ぶ。甲板で、大勢の人々が、双眼鏡でこちらを見ているのだ。わたしはお風呂に浸かるように、首まで海に浸かり、しばらくじっとしていた。荒波が押し寄せて、じっとしているのは辛かったけど。

今回は、ちゃんと水着を持っていったから大丈夫。心おきなくビーチを闊歩できた。

土曜の夜は、シーフード三昧。クルーザーが停泊する入り江に、「ロブスターハウス」というレストランがあり、海風を受けるテラスのテーブルで、オイスターや大きな大きなロブスターを食べた。冷たいビールと、涼しい海風と、おいしいロブスター。

夏の終わりを気分よく締めくくった。


Back