坂田マルハン美穂のNY&DCライフ・エッセイ

Vol. 60 11/30/2001

 


ホームページに、定期的に日記やエッセイを書き始めたのが去年の5月、そしてメールマガジンの配信を始めたのが9月。1年以上が経った今、心に残ったことを書き留めて置いてよかったと思い始めてきました。

そもそも日記を書き始めたのは13歳の時。中断した時期があったにせよ、クローゼットの奥にしまわれた古いスーツケースの中には100冊、いや200冊近くの日記帳が入っています。

それらには、絶対に白日の下には晒せない本音ばかりが書き連ねてある一方、具体的な日常の出来事が割愛されているので、日記を通して当時の精神状態を察することが出来ても、季節感や回りの様子は明確には伝わってきません。

一方、ホームページの日記やエッセイは、そもそもわが両親に私のニューヨーク生活を知ってもらいたいと思って書き始めたこと端を発しているので、季節感はもちろん、くどいほどに具体的な状況が描写されているので、後から自分で読み返しても「おお、こんなことがあったか」と感心させられます。

具体的な心理状態を描いていなくても、環境を思い出すことでその時の心持ちが思い出されるので、便利です。

なぜこんなことを書き始めたかと言えば、去年のサンクスギビング・ホリデーは寒かったのに今年は暖かいな、と思いつつ、去年のダイアリー(VOL. 17)を読み返してみたところ、「気温は摂氏0度前後」とありました。さらに読み進めているうちに、去年のことがまるで昨日のことのように明らかに思い返され、しみじみとした気分になり、「書いておいてよかった」と感じたからです。

ちなみに今年のサンクスギビング・ホリデーは連日10度を超えていて、日中はコートなしでも歩けるほどに暖かく「ニューヨーク観光」を大いに楽しむことが出来ました。

●前夜祭は『チキンの丸焼きクッキング』初体験。こんがりと焼き上がった

そもそもDC周辺で連休を過ごす予定だったので、サンクスギビング・デーのためにターキーならぬチキンを一羽、購入していた。A男と二人きりでターキー一羽は食べきれないから、チキンにしたのである。

丸ごとのチキンを調理するのは初めてのこと。インターネットで料理法をかき集め、あちこちの情報を参考にしつつ、最終的には家にある材料の都合上、自己流で作ることにする。

オーガニックのスーパーマーケットで購入したチキンは、脂身が少なく身が引き締まっている。空洞になった体内に、小さなビニール袋に入ったレバーと首の肉がおまけのように入っている。

塩、コショウ、各種スパイスを全体に擦り込みしばらく放置。その間、タマネギやニンジン、ニンニク、残りご飯などでチャーハンを作り、それをお腹に詰め、凧糸で縛る。大振りに切ったセロリやショウガなどの香味野菜を鉄板の上に敷き、400度のオーブンで1時間半ほど焼く。

小さなジャガイモをアルミ箔に包んだものと、皮を付けたままのトウモロコシとを途中でオーブンに入れる。トウモロコシは皮を付けたまま焼くと、表面が乾燥することなく旨味が閉じこめられて、とてもおいしいのだ。

チキンの表面にきれいな焼き色を付けるため、時折オリーブオイルを塗る。裏面もしっかりと焼きたいので、途中でオーブンから取り出し、裏表をひっくり返す。

ちなみにレバーと首の肉は醤油、みりん、酒で日本風に煮込んだ。

こんがりと黄金色に焼き上がったチキンをお皿に盛りながら、昔見た「トムとジェリー」のアニメーションを思い出した。あのアニメーションには、アメリカの香りがたっぷりと満ちあふれていたものだ。

焼き立てのチキンを切り分け、アツアツを食べる。全体にほどよく肉汁が染み渡り、何ともおいしい。パリパリの皮も香ばしい。これからも時々は、手軽でおいしいチキンの丸焼きを作ってみようと思った。

 

●早朝の列車でNYへ。恒例インド人親戚宅でサンクスギビング・ディナー

4日間「ニューヨーク観光」を存分に楽しもうと、22日木曜日、朝8時10分発の列車でマンハッタンに向かう。一旦、家に荷物を置き、外出の準備をしている間に、恒例の「サンクスギビング・パレード」を見逃してしまった。

うちから2ブロック先をパレードするにも関わらず、この5年間、一度も見ることがなかった。身支度をして家を出たとき、パレードを見終えて帰ってきた人たちとすれ違った。

今年も、アッパーイースト・サイドのA男の親戚宅で開かれるサンクスギビング・ディナーに招かれている。ちなみに、去年「サンクスギビング・ランチ」と書いたけれども、たとえそれがランチタイムに食べる食事であれ、「サンクスギビング・ディナー(正餐)」と呼ぶのだという。

去年まではA男の「ガールフレンドとして」訪れていたのだが、5回目の今年は「妻として」なので、いわば彼らは私の親戚でもあるのだが、いまだにピンとこない。彼らも多分、ピンときてないと思う。

私たちは1時頃到着したが、ディナーが始まるのは2時を過ぎてから。それまでは、大人はワインなどを、子供たちはホットサイダー(スパイス入りホットアップルジュース)を飲みながら、リビングでくつろぐ。

ワシントンDCに住んでいる老夫婦(インド人)が、「食事の前にグランド・ゼロに行ってくる!」と張り切って出かけていった。グランド・ゼロもすっかり観光地になっている。

結婚式のアルバムなどを見せたりして、ニューデリーでの出来事を話す。わずか4カ月前のことなのに、なんだか随分、昔のことのような気がする。

9月11日を境に、時間の感覚や距離感が激しく狂った。あの周辺の時間だけが、別の次元でのことのように記憶の中で突出していて、他の記憶とうまく折り合わない。

2時過ぎ、みんなが揃ったところで、A男のおじさんがターキーを切り分ける。いつものように各種カレーが用意されていて、ダイニングルームはスパイシーな香りでいっぱい。

皆、思い思いに料理を皿に盛り、大きな円卓を囲んで座る。A男のおばさんが食前の挨拶をする。

「今年は、本当に、信じられないような悲劇が起こりました。けれど、こうして私たちの誰一人として欠けることなく、今日の日を迎えることが出来たことを感謝します」

あの日以来の数々の出来事が思い返されて、目頭が熱くなった。1年に一度、家族や親戚が集まるこの日。私たちはこうしていつもと同じように顔を合わせることが出来たけれど、そうではない家族もたくさん、あるのだ。

皆が集まる分、欠けた人 <亡くなった人、戦場に赴いている人> の存在感が、きっと際だつに違いない。

ほどよく酔って、おいしい食事を終え、皆が昨年と同様「インド映画の鑑賞会」を始めた頃、私たちは一足先においとますることにした。

それにしても日が暮れるのが早いこと。5時過ぎだというのにあたりはすっかり闇に包まれている。

タクシーに乗り、セントラルパークを横切って、アッパーウエストサイドへ戻る。映画を観ようと66丁目でタクシーを降り、ソニー・シアターへ。ちょうど話題の『ハリー・ポッターと賢者の石』を上映していたので、観ることにする。

世界的にベストセラーとなった英国の児童小説を映画化したもので、日本でも話題になっているかと思う。

全米公開初日(11月16日)だけで約2945万ドル(約35億3000万円)の興行収入を達成し過去の記録を塗り替えたということだが、私もA男も今ひとつ、ピンとこないまま映画館を去ることになった。

魔法使いの学校を始め、英国の古城や街並みを再現した映像は美しく、視覚的には楽しんだが、ストーリーが今ひとつ盛り上がらないまま。子供だったら楽しめたのかもしれないけれど……。

映画館を出て、ふらふらと散歩しながら帰宅して、夜遅くまで「料理の鉄人」を観た。

 

●ミュージカルはリンカーンセンターで。ダンスが主体の「コンタクト」を観た

23日金曜日。昼近くに目を覚ました私たちは、新聞やインターネットに目を通した後、2時に始まるマチネのチケットを取っていたので、早めに家を出る。

近所のイタリアンでパスタを食べ、リンカーンセンター内にあるシアターへ。

「コンタクト」は、3つの舞台からなるダンス中心のミュージカル。一つ目は1768年、Jean-Honore Fragonardによって描かれた「The Swing」という油彩画に着想を得た少しセクシャルなダンス。

森の中でドレスに身を包んだ女性がブランコに揺られている絵だが、多分、目にしたことがある人は多いと思う。

二つ目は1954年、クイーンズにあるイタリアンレストランが舞台。亭主関白の夫に抑圧された妻の「幻想」が、現実の出来事と織り交ぜられながらダンスを通して展開される。

そして三つ目は現代のニューヨーク。ビジネスでの名声を手にしたものの、孤独で満たされない男が「黄色いドレスを着た女性」に引きつけられる「幻想」を見る。

機知に富んだ構成で、言葉よりも踊りが主体だから理解しやすく楽しめた。

舞台が終わった後、ワールドトレードセンターに関する寄付を募るため、出演者たちが出口付近で寄付金用のボックスを持って立っていた。

A男がしきりに「きれいだ、セクシーだ」と言っていた黄色いドレスの女優もいたので、「寄付して、握手してもらっておいでよ」と背中を押した。

ところが、お札を渡しながら「とてもすばらしい舞台でした」と言ったきり、他の人たちに押し戻されるようにして、すごすごと戻ってきた。

「ああ、ものすごく緊張した」

とのこと。小学生並みの純情ぶりを発揮していた。

 

●メトロポリタン・ミュージアムで、ムガール朝の宝石を眺めクラクラする

ミュージカルを終えたら次なる観光ポイント「メトロポリタン・ミュージアム」を目指す。平日は9時まで開館しているので、夜からのミュージアム巡りも可能なのだ。

セントラルパークを散歩を兼ねて西から東へ横切り、ミュージアムを目指す。アスファルトのない土の上を選んで歩く。あたりは一面、黄色やオレンジ、茶色の枯れ葉に覆われている。その上をフワフワと歩く。

時折、木の実が上から降ってくる「ポトン」「ポトン」というかわいらしい音が耳に届く。

数日前から軽度のぎっくり腰状態で(数年に一度やってくる後遺症)、自由に身動きが取れないのだが、このような柔らかな地面を歩いていると、身体全体がリラックスする。

こんな風にセントラルパークを歩いていると、本当にニューヨークを離れることが辛くなる。A男も、自分がDCに住んではいるものの、私がここにいるからこそ頻繁に来れたのが、それもあと少しで終わることを残念に思っている様子。

「あと2、3年経ったら、今の会社を辞めるかも知れないし、そのときはまたニューヨークに戻ってこようね」という。

私もまた、今回は束の間の別れに過ぎず、またきっとここで暮らすんだと思いながら歩く。

ミュージアムは大勢の観光客で賑わっていた。今日は軽く、特別展である「インド・ムガール朝時代の宝石装飾美術」だけを見る予定。「軽く」とはいうものの、特別展の会場にたどり着くまでに、あちこちで立ち止まり、あっというまに1時間近くたってしまう。

特別展の会場は、6時を過ぎてもなお、込み合っていた。ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、金などを、これでもかというほどにふんだんに施した宝飾品の数々。ネックレスやペンダント、指輪、ターバンのブローチ、刀のさやや取っ手、宝石箱、ベルトなど、それはもう豪華絢爛。

A男も私も食い入るように眺め、「すごいねえ」「高そうだねえ」「欲しいねえ」「無理だねえ」と同じようなことを繰り返しつつ熟視してきた。

ちなみにこの特別展は来年の1月13日まで。12月中は、ゴージャスなクリスマスツリーも展示されていて、いつも以上に雰囲気がいい。

 

●ワールドトレードセンター近くの日本食レストランで働いていた寿司シェフの話

じっくりと目の保養をしたあとは、すっかりお腹がすいたので、ミッドタウン・イーストにある日本食レストラン「SEO」へ行く。以前も書いた気がするが、ここはVol. 58で紹介した「EBISU」と同様、私の友人の夫が店内設計をした店で、時々、訪れるお気に入りの店の一つだ。

一品料理も寿司も刺身も品質が高い。それに「EBISU」同様、「秋田特産稲庭うどん(後文謹製)」がまたおいしい。

店内に入ると、新顔の板前さんが「いらっしゃいませ!」と爽やかな声で迎えてくれた。

いつものようカウンター席に座り、まずは日本酒をオーダー。豆腐と海草のサラダにはじまり、地鶏のグリル、大振りのハマチカマ、サバの刺身などを味わう。

ほどよく脂がのったハマチカマは、ほんのりと甘みのある塩で味付けされているばかりだが、これがおいしくてごはんが進む。すっかりお腹が落ち着いたところで、新顔の板前さんに声をかける。

「最近、このお店に入られたんですよね」

「ええ、1カ月くらい前です」

「それ以前もニューヨークにいらっしゃったんですか?」

「ええ、実は、ワールドトレードセンターのすぐそばにある日本食レストランで働いてたんですけど、ご存じの通り店がダメになっちゃったもんですから……」

兵庫県出身の彼は10年間、日本で寿司の修行をしたあと、8年前に渡米し、ニューヨークで寿司を握り始めた。

あの朝、彼は職場であるワールドトレードセンターから十数メートルしか離れていない、勤務先の日本食レストランに向かっていた。地下鉄駅を出たとき、すでに飛行機が激突したあとだったが、まさか崩壊するなどと予想もせず、ひとまず店に入った。

「しばらくしてものすごい音がしたから、3機目がぶつかったかと思ったんです。でも、それは南棟が崩れ落ちた音だったんですよ」

ほどなくして店内が真っ暗になり、これはまずいと思って同僚たちと逃げた。外の様子を見て初めて、ビルが崩れたことを知ったという。

身一つで逃げ、それからアッパーウエストの100丁目あたりにある自宅まで、ひたすら歩いたという。家に着いたときには夕方になっていた。

店はとても営業を再開できるような状況ではなく、同僚たちはマンハッタン内にある支店に分散したほか、彼のように他の店で働き始めた人もいるという。

「店に自分の包丁を残してきたから取りに行きたかったんですけど、現場からとても近かったから完全に封鎖されてたんですよ。身分証明書を見せてもダメで、結局1カ月、包丁を手に入れることができませんでしたね」

ようやく包丁を手に入れ、新しい職場を見つけ、働き始めたばかりだという。

彼はたまたま帰郷しているときに阪神大震災にも遭った。人生のうちで二度も大きな災害に直面するとは、気の毒な限りである。

食事を終え、抹茶アイスクリームを食べ、お茶を3杯もおかわりする間、日本酒や日本料理の話などで盛り上がり、A男も楽しんでいた。

「いいお店で仕事が見つかって、よかったですね。また食べに来ます」

そう言いながら、しみじみとした気持ちで店を出た。

RESTAURANT SEO
249 E. 49th St. (bet. 2nd & 3rd Aves.)
212-355-7722

 

●A男、チャイナタウンのマッサージにて災難を被る

24日土曜日。午前中はチャイナタウンへマッサージへ行くことにした。そのマッサージ店は、整体や針灸もやっていて日本人にも評判がいいという噂を聞いていたので、軽傷ぎっくり腰を治してもらえればと思ったのだ。マッサージ好きのA男ももちろん、予約を入れている。

いつ来ても活気いっぱいのチャイナタウン。魚屋や八百屋がぎっしりと軒を連ねる通りをくぐりぬけ、小さなドアを開ける。店内は漢方薬の独特の匂いに包まれている。マッサージは1時間35ドル。他地域のマッサージに比べると半額以下だ。

私たちは各々、小さな個室に通される。ここはあくまでもチャイナタウン。もちろん、アロマセラピーのキャンドルが揺れているわけでも、緩やかな環境音楽がかかっているわけでもない。それでも、今日のところは腰が治ればいいから、雰囲気は、まあ、どうでもいいのだ。

どうでもいい、とはいうものの、聞こえてくるのが時計の針の音だけならまだしも、いきなりマッサージ師が腰の辺りにつけている携帯電話が耳元で鳴り出したときにはドキッとした。電源を切るのかと思いきや、電話に出て話し始めたからもっと驚いた。

さらには時折、ドアの外から、誰かが痰を切る「グォホ、グォホ、クァーッ!!」というすさまじい音が響くのには閉口した。

それでも私を担当してくれている中年中国人男性のマッサージ師はかなり腕がよく、ずいぶんと腰が楽になった。

店を出て、A男に「どうだった?」と聞くと、

「うーん。いくら安くても、僕は雰囲気が悪いのはいやだ。少しもリラックスできないもん。それに、僕をマッサージしてくれた人、途中で何回も痰を吐くんだよ。気持ち悪かった」

おお。あの痰切り主はA男の担当者だったか。それは気の毒だった。

その後、気を取り直して飲茶を食べに行き、ソーホーを散策してアップタウンに戻った。

ちなみに翌朝、A男は、首が寝違えたかのように動かなくなった。本当は日曜の夜にDCに戻る予定だったが、とても荷物を持てそうにもなく、月曜日、会社を休んで別の針灸のドクターへ行った。

ドクターいわく、チャイナタウンのマッサージで、変な風に首の筋をマッサージされたことが原因とのこと。私の腰は随分よくなったが、A男にとってはとんだ災難だった。マッサージを受けるにも気を付けなければならない。

 

●クリスマスシーズン恒例、ニューヨークシティ・バレエの「くるみ割り人形」へ

うちから歩いて数分のリンカーンセンターで上演されているにもかかわらず、毎年行きそびれていた「くるみ割り人形」。今年はいよいよ見ることになった。

ワンピースやスーツに身に包み、エナメルのぴかぴかと光る靴を履いた子供たちが、嬉々として開演を待つ姿あちこちで見られる。このバレエには大勢の子供たちが参加するとあって、親子連れの観客も多いのだ。

オーケストラがチャイコフスキーの耳慣れたメロディーを奏で始め、幕が開く。

クリスマスパーティーの様子から物語は始まる。舞台に設置された大きなクリスマスツリーが美しい。

ストーリーは「くるみ割り人形」を贈られた女の子の「夢の世界」を追って描かれる。「不思議の国のアリス」のように、女の子が「くるみ割り人形」と同じサイズになるのだが、その経過を、クリスマスツリーがどんどん大きくなっていくことで描いている。舞台の天地いっぱいに大きくなるクリスマスツリーを眺めていると、大人の私でもワクワクしていくる。

雪が降る森で妖精<白いドレスを着たダンサーたち>が舞うシーンもまた美しかった。

そして何より、「お菓子の国」をイメージした舞台の、なんともメルヘンなこと! ひらひらのレースやらキャンディーやらが一杯の、一面ピンクに染まった舞台。30年前の自分に見せてやりたいとしみじみ思った。

舞台には、子供の頃に夢見ていたような世界がそのままに、広がっていた。そこで、チョコレートやキャンディーをイメージさせる衣装に身を包んだダンサーたちが、次々に踊りを披露する。

パンフレットを読んでいると、大人のダンサーたちの大半は、子供の頃、「くるみ割り人形」を家族と一緒に見に来て、「バレリーナになる」と決意した人たちだった。

「すでに10歳でバレエを始めるには遅かったけれど、どうしても始めたくなった」という人や、「それまでは器械体操をやっていたけれど、バレエに転向した」という人もいる。

私も幼少のみぎり、バレリーナに憧れたものだ。あのころ、家の近所にバレエスクールがあったなら……。

場所柄、家の近所にはいくつかのダンススクールがあり、大人のビギナー向けバレエのコースを持つスクールもある。2年前、今更とは思いつつも、何度かレッスンに行ったことがあった。

でもね。いくらビギナーコースとはいえ、周りの生徒たちは、余りにも脚が長いし、プロポーションは美しいしで、その様子を鏡でまざまざと見続けるのは、かなり辛かったのだ。結局、続かずに数カ月で辞めてしまい、ジムで「エアロビ・キック」などをやることになったのだが……。

今度生まれ変わったら「子供の時分から」バレエを習いたいと心底思った。

 

●ホリデーの最終日。日本人観光客だけがいない五番街を歩く

目覚めるなり「首が痛い!」と言ったあと、時間と共に首が動かなくなり、まるでレインマンのように首を傾げて歩くA男。それでも家でじっとしているのはいやだからと午後から外出する。

セントラルパークを東へ向かって歩く。途中でスケートリンクも見える。冬のマンハッタンを歩いていると、時折、ウディ・アレンの映画のシーンが思い返される。「ハンナとその姉妹」は、確かサンクスギビング・ディナーのシーンで始まったし……。

五番街に出ると、一大玩具店「FAOシュワルツ」のクリスマスのイルミネーションが目に飛び込んできた。そこから南へ向かって五番街を見渡せば、大勢の人並みと、美しいネオン。いよいよクリスマスシーズンがやって来たのだとわくわくさせられる。

あの事件以来、五番街を歩いて心が高揚したのは、この日が初めてのことだった。それでも例年のような屈託のない気持ちにはなれないが、これだけ人々が集まって賑わっているのを見ると、なんだかとても安心する。

世界各国からの旅行者はニューヨークに戻りつつあり、ホテルの予約率も9割とほぼ例年並みに近づいているという記事を読んだ。しかし、日本人観光客だけは例年の1割程度しかおらず、日本人観光客相手のビジネスは、いよいよ窮地に立たされているようだ。

情報がまんべんなく行き渡る環境に加え、横並び意識の強い国民性であることが、この現実を生み出しているのだろう。

いつもならば、五番街を歩いてると、相当数の日本人観光客に擦れ違っていたのが、この日は数組だけだった。それも観光客と言うよりは、こちらに住んでいる人らしき風情だった。

ゴールデン・ウィークに並んで、年末のニューヨークは日本人観光客が多かったのだが、今年はきっと少ないままなのだろう。

私とA男は、ビザの関係で、これから数カ月、海外に出ることができない。去年もビザの件でちょうど冬休みに海外に出られず、フロリダに行ったのだが、今年はどうしようかと思案中。

また、ニューヨーク観光にしようかな、とも思っている。


Back