坂田マルハン美穂のDC&NYライフ・エッセイ

Vol. 77 8/1/2002

 


★坂田マルハン美穂著 『街の灯』(ポプラ社刊)出版のお知らせ

2002年9月上旬、わたしにとって初めての、単行本が、日本のポプラ社から発行されることになりました。タイトルは『街の灯』(まちのひ)です。

わたしがニューヨークに住んでいた6年間の、ニューヨーカーたちとの出会いを描いた25話の短編集(ノンフィクション)です。

名前を告げ会うこともない束の間の出会いながらも、心に残る忘れ得ぬ人々(ニューヨーカー)を軸に、さまざまな出来事を綴っています。

「ニューヨークの喜怒哀楽」が詰まった、読み応えのある内容だと自負しています。

ぜひ、みなさまにも読んでいただければと思います。

 

 

●出版までの経緯と、読者のみなさまへのお礼。

思い返せば、20年近く前から「いつかは……」と思っていたような気がします。大学に進学したあたりのころからでしょうか。

子供の頃から、一番の得意科目は「国語」でした。文字を綴ること、文章を書くことが好きだったように思います。

高校時代には、将来は国語の教師になろうと思っており、従って進学先も、教職課程のある大学を選びました。ところが20歳の夏に初めて渡米し、広大なアメリカ大陸を目にした途端、激しい衝撃を受け、地元で高校教師をしている自分の未来を想像することができなくなり、方向転換することになりました。

教職につくのはやめる。では、自分はどのような職業を選べばいいのだろう。当時のわたしに、自分の未来像はほとんど見えていませんでした。漠然としたままに月日は流れ、しかし「出版社」というのは「国語力」を生かせるかもしれないと思い、出版社への入社試験のための資料を集めました。

大学4年の夏、就職活動のために上京し、いくつかの大手出版社を受けるも、ことごとく落ちました。日本はバブル経済の絶頂期で「青田買い」などという言葉が流行っている時期でしたが、わたしには無縁の世界でした。

ひとまずは東京に出て、アルバイトをしながら改めて就職先を探そうと決めました。ところが卒業式の日、わたしの就職先が決まっていないことを知った教授が驚き呆れ、東京の友人をあたってくれました。

教授の学生時代の友人だったフリーライターの女性を介して、東京の編集プロダクションを紹介され、そこで晴れて就職することができました。

「晴れて」とはいったものの、そこで待ち受けていたのは、一言では尽くせぬほど、過酷(で薄給)な労働でした。心身共にへとへとでした。しかしながら、その編集プロダクションでの仕事、また次に転職した広告代理店での仕事、合計5年間の会社員生活で、編集や出版、広告関係の「基礎力」をつけたように思います。

27歳になり、フリーランスのライター&エディターとして独立したあとは、さまざまな雑誌に記事を書きはじめ、自分の名前が紙面に載るようになりました。編集者として奥付に名前が掲載されることとは違った手応えがあり、とてもうれしかったことを思い出します。

そんな当時、書店へ行くたび、無数に積み上げられた新刊書を眺めるたびに、不可解な焦燥感に襲われてもいました。自分では、まだまだ書きあげる力も足らず、また、書きあげるための経験もない、ということを自覚してはいたけれど、いつかは自分の本を出版したい、と心のどこかで感じていたが故の焦燥感だと思います。

ちょうど今から10年前に、「モンゴル旅日記」と題した薄い冊子を自費出版しましたが、書店に並ぶような本が出せるようになるのはまだまだ先だと思っていました。

たいてい、自分がやりたいことを公言してきたわたしですが、「自分の本を出版したい」とは、ほとんど口に出さなかった気がします。それだけわたしにとっては、大きな意味を持っていたのかも知れません。

やがて30歳で渡米し、出版社ミューズ・パブリッシングを設立し、自社の冊子『muse new york』を発行するようになってからもなお、自分の本が出せるのは、まだ先のことだろうと感じていました。

書きたいテーマや事柄は、あれこれとあるのですが、それらをうまく整理する力、考察する力が、まだ不足しているような気がしていました。それよりなにより、「書くぞ」という衝動に、突き動かされていなかったのです。

少しずつ自信がついてきたのは、このメールマガジンを発行し始めてからです。2000年2月にホームページを立ち上げ、9月に最初のメールマガジンを発行し始めました。

読者の方々からはたくさんのメールをいただきましたが、そのなかに「本を出版してはどうですか」との提案も、いくつかいただきました。うれしく思いつつも、それでもピンと来ていなかったのが、発行開始から半年ほどたったあたりで、「そろそろ動き出そうか……」という気になってきました。

とはいうものの、具体的に、どうすればいいのか、実はよくわかっていませんでした。出版業界で仕事をしていたとはいうものの、雑誌と書籍では世界が違います。大手出版社の書籍編集部に知り合いがいるわけでもなく、一からあたるしかありません。各種文芸賞などに応募することも考えました。

そんなある日、普段はあまり見ない「Yahoo!」の新着情報をのぞいたところ、ポプラ社の「第三編集部」のホームページが紹介されていました。なにげなくクリックしました。

ポプラ社は児童書で有名な書店ですが、ここ数年、一般書の発行も始めたとかで、「第三編集部」というのは一般書の部署でした。

そのホームページを見ているうちに、「ここだ!」と強く感じました。持ち込み原稿を受け付けていることを知り、早速、手元にある自分の原稿をあれこれとまとめて送りました。去年の4月のことです。もちろん、出版にあたっては改めて「書き下ろす」つもりでしたが、まず、編集者にわたしの文章を知ってもらいたいと思ったのです。

資料を送ったあと、2カ月ほど待ちました。他社にあたらずに待ったのは、なぜかポプラ社が第一候補だ、と感じたからです。ポプラ社からダメだと言われてから、他社にあたろうと思いました。

そして6月、編集者からうれしい知らせが届きました。わたしの本を出版してくれると言うのです。打ち合わせた結果、ニューヨーカーとの出会いに焦点を絞った短編集にしようということになりました。中には、これまでメールマガジンで紹介した文章をもとに書きあげたものもあります。

その時点で、発行は翌年、つまり今年の3月あたりを目標としていました。7月にインドへ結婚式を挙げに行ったあとから、わたしはクライアント業務の傍ら、エッセイを書き始めました。

出版が決まったことを、メールマガジンに書きたいとこれまで何度も思いましたが、確定するまではまだまだ待とうと我慢していました。

そして9月。原稿を半分ほど書き上げたころでした。ニューヨークとDCがテロに襲われました。何もかもが混乱したなかで、わたしは自分の手がけている本の行く末にも、ひどく不安を覚えました。

瞬間的に、日本でニューヨークに関する情報があふれました。書店にも、テロに関する書籍が並びました。ニューヨークはネガティブなイメージの対象となりました。

いやな予感はあたり、わたしの本は、発行のタイミングを見直されることになりました。それでもわたしは、「必ずいつかは発行します」との編集者の言葉を信じて(日本の出版社との仕事は、始めるにあたって「契約書」を交わさないので、本当にその言葉を信じる以外、なかった)、やはり原稿を書き続けました。

ようやく年末になり、発行の時期はテロの一周年あたりにしようと編集者から連絡が入り、改めて話が具体的になりました。胸をなでおろしました。

そして、出版の話が決まってから約1年後の今日。

すでにタイトルが決まり、ゲラ(雑誌や書籍などが、実物の体裁となって印刷されたもの。校正刷りのこと)が上がり、もう、これで必ず発行されるだろうと確信できたので、初めてみなさんにご報告する運びとなりました。

このメールマガジンを発行したことが、出版の大きなきっかけとなりました。読者の方々からの前向きなコメントがなければ、まだ動き出していなかったかもしれません。

間接的ではありますが、心より感謝しています。ありがとうございます。

今のわたしは、社会人となって15年目にしてようやく、スタートラインに立った気分です。身が引き締まる思いでいます。

毎度、長々と書きましたが、以上、お礼のメッセージにかえさせていただきます。

 


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