ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー

Vol. 8 10/13/2000

 


久しぶりにマンハッタンに戻ってきました。街は急に、秋を通り越して冬の様相を呈していています。ショーウインドーにはハロウィーンのディスプレイも見え始めました。この季節になると、ニューヨーカーたちは心なしか浮き足立ってきます。

10月末のハローウィーンにはじまり、11月のサンクスギビングデー、そして12月のクリスマス。これからは、ホリデーシーズンへ向けての行事が目白押しです。12月1日、ロックフェラーセンターに巨大なクリスマスツリーが登場するのを機に、マンハッタン中のビルや街路はいっせいにクリスマスのディスプレイを始めます。マンハッタンの冬は寒いけれど、同時に最も美しい姿を見せてくれる季節でもあるのです。

さて、今は夕方6時30分。薄暮の時刻です。先ほど、外出の帰りにスーパーマーケットに立ち寄りました。牛乳やシリアル、オレンジジュースに野菜や果物、1週間近くの食料をまとめて購入します。郊外に暮らしていれば、車で買い物に出かけられますが、マンハッタンではそうもいかないので、たいていのスーパーマーケットが数ドルの手数料で配達してくれます。何しろ、牛乳やジュース類の標準サイズがハーフ・ガロン(1.89リットル)なので、ちょっとした買い物でもかなり重くなってしまうのです。ですからまとめて缶詰なども買い込み、配達してもらいます。

スーパーマーケットの帰り道、近所のワイン&リカーショップに立ち寄りました。いつもは10ドルから15ドル程度のワインを買うのですが、今日はなぜか奮発して、お店で勧められた21ドルのワインを買いました。カリフォルニア州ソノマ郡(SONOMA COUNTY)の赤ワインで、ブドウの種類は、カベルネ・ソーヴニョン(CABERNET SAUVIGNON)。KENWOODというワイナリーのものです。さっそく先ほどから飲んでいるのですが、フルボディ(濃厚)ながらも、たいへんフルーティーで柔らかい喉ごしで、また、ほんのりと甘みがあり、とてもおいしいワインです。きっと日本にも輸出されていると思うので、ワインのお好きな方はお試しください。

私は、20代後半まで、ほとんどアルコール類を飲めませんでした。せいぜいビールをコップ1杯程度。ワインも日本酒も、ほんの数口飲めば、顔が赤くなっていたものです。ところが、ある取材をきっかけに、飲めるようになりました。というか、自分が意外に飲めるのだと言うことに気が付きました。

いまから9年前、メキシコの郊外へ行ったときのことです。田舎町を旅していたとき、偶然、結婚式が行われている家を見つけ、おじゃましました。かつては結婚式となると、1カ月近くも「式」を行っていたそうですが、最近では2、3日から1週間程度に短縮されたとのこと。その家の広い庭では、近所の人たちが一堂に会して、飲んで、食べて、歌って、踊って、を繰り返していました。

女たちは、一画の小屋でパンを焼いたり、トルティーヤを作ったり、チョコレートドリンクを作ったりしています。楽しそうにおしゃべりしながらの作業です。一方、男たちはテキーラやラム酒を片手に椅子に座って語り合っています。人々は、入れ替わり立ち替わり、自宅から差し入れの酒を持ってきては、飲んで騒いで楽しそうです。

私たちは、結婚式の情景を撮影させてもらおうと立ち寄ったのですが、予期せぬ来客を、みな温かく迎えてくれ、次々にグラスを差し出してくれます。とても断れるような雰囲気ではなく、勧められるがまま、テキーラやラムを何杯飲んだでしょうか。それでも、意外に自分の意識がはっきりしていることに気づきました。仕事中なので、酔っぱらってはいられないのですが……。

さらに数カ月後、休暇でモンゴルを旅した折、またもや村のパーティーに招かれて、ゲル(移動式住居)で馬乳酒や蒸留酒などをたっぷりと振る舞われましたが、その時も、意外なほど平気でした。その2回の旅行を機に、お酒の味が少しずつわかるようになってきました。そのうち、飲んでもさほど、顔が赤くなることもなくなりました。

世界各国それぞれに、独自の料理があり、独自のお酒があります。それをあれこれと試しながら飲むのは、とても楽しいものです。

さて、今日は、お酒とはまったく関係のない話題。「トイレに見るニューヨーカー」について、書いてみたいと思います。

 

★トイレに見るニューヨーカー

マンハッタンの飲食店でトイレにはいると、たいていの場合、このようなサインが張られている。

「従業員は手を洗いましょう」

「従業員は手を洗ってから仕事に戻りましょう」

ちょっとおしゃれな店だと、鏡に、口紅で書いたがごとく、赤い絵筆で上記のメッセージがつづられていることもある。

子供じゃあるまいし、トイレから出たら手を洗うのは当然だと、たいていの日本人は思うかも知れない。しかしながら、アメリカ、いや欧米では、あながちそうではないのだ。先日、アメリカに住んでいる日本人向けの新聞に、こんな記事があった。

「トイレで手を洗う人、67%」

これは、米微生物学協会が調査した結果で、ニューヨーク、アトランタ、ニューオリンズ、シカゴ、サンフランシスコの5都市での平均値だという。覆面調査員が公衆トイレで観察した結果、5都市中ニューヨークが最下位で49%だったとか。しかも男性の方が洗う率が低かったという。

日本に比べると、アメリカでは公共施設などのトイレにもトイレットペーパーはもちろん、ソープやペーパータオルも備え付けられているなど、設備は行き届いているのだが、いかんせん、個々人の「清潔願望」が低いとみえる。本来ならば、他人が手を洗おうが洗うまいが我関せずと言いたいところだが、飲食店の従業員となると話は別だ。丹念に洗浄してほしいものである。

トイレで手を洗わないのは、何もアメリカ人だけではない。ヨーロッパを旅していても、手を洗わずにトイレから出ていく人たちをよく見かけた。日本と違って空気が乾燥しているから、雑菌が繁殖しにくいのだろうか、と思ったりもした。

以前、パリに滞在していたときのことだ。パリジェンヌたちは、日本人にとっての米飯にあたるバケットやフィセル(細長いフランスパン)を購入する際、いちいち袋に入れたりはしない。裸のパンの、せいぜい手で握るあたりに紙を一枚巻き付ける程度である。そのようなパンを、直接、籠やバッグに入れて持ち帰る。ある日、スーパーマーケットのトイレに入ったときのこと。若い女性が、裸のバケットを片手に持ってトイレに入ってきた。そのままそれは個室に持ち込まれ、出てきた彼女は、そのバケットを洗面台にじかに置いて手を洗った。

「手を洗った」という点で、彼女は清潔といえるかもしれない。でも、ひょっとすると水滴がついているかも知れないその洗面台に、なんの躊躇もなくパンを置くという行為には、非常に驚いた。でも、驚いているのは私ばかりで、周囲のパリジェンヌにとっては日常のひとこまといった様子である。

ここまで書いて、ぜひ紹介しておきたいトイレ関連の記事があるので、ホームページのエッセイを以下に転載する。

 

★アジアの心

アメリカ暮らしが長くなると、自然にお行儀が悪くなってくる。日本人に比べると、アメリカ人は男女を問わず、総じて行動ががさつである。体格が大きい分、いっそう際だって見える。年頃の女性でさえ、テーブルに足を投げ出す、人前で大口を開けてギャハハと笑う、ところかまわず大声で叫ぶ、足で蹴ってドアを開ける……と枚挙に暇がない。

一時期、ニューヨークにある日系の企業に勤めたことがあった。そのオフィスビルにあるフロアごとの共同トイレを通しても、それを痛感した。たとえ個室に入っていても、自分のあとに入ってきた人が日本人かアメリカ人か、音を聞くだけで簡単に識別できるのだ。

アメリカ人の場合、ダンッとドアをあけ、ドスンと便器に座り、飛沫が上がらんばかりの音響を伴って放尿し、ガラガラガラガラガラーッと大量のトイレットペーパーを巻き上げ、ギッとレバーを押し、ジャーッと流し、再び、ダンッとドアを開け、ザーッと水道の水を出し、更にギーコギーコギーコとレバーを押してペーパータオルを出し、ベリベリッと破いて、ザザザッと手を拭き、再びドアをダンッとしめて去っていくのである。

自分の放尿する音を他人に聞かれないために、水を同時に流したり、あるいは人工的なせせらぎ音を出す機械までも備え付ける日本人とは、根本的な感覚が、断然違うのである。個室に入った者同士が、用を足しながら大声で会話を交わすというのも日常茶飯事。まあ、よく言えば皆ダイナミックなのだ。

その行動から見受けられるように、精神もまた、たくましい。アメリカ人の体格と強烈な自己主張を前にすると、アジア人女性はなんともか弱き野辺の花である。しかしながら、郷にいれば郷に従ってしまうというか、ともすれば、日本人として誇るべき上品な立ち居振る舞いを、すっかり忘れてしまっている自分に気づく。いや、もちろん、忘れてしまったところで特に支障があるわけでもないのだが、ろくに英語も話せない癖に、よくないところばかりアメリカ人化するのも、いかがなものかと思うのだ。

日本人には日本人のよさがある。挨拶するときに頭を下げて、何が悪かろう。それが日本の挨拶なのだ。

しかし、元来、比較的がさつなわたしにとって、アメリカの環境は実のところ、うってつけだった。渡米後ほどなくして、なんの苦労もなく、アメリカ人化しつつあった。しかし、そんなわたしに、「アジアの心」を呼び起こしてくれる出来事があった。

マンハッタンのクリーニング店の多くはコリアン・アメリカンによって営業されている。今まで、アパートのビル内にあるクリーニング店を利用していたのだが、近所に安い店ができたので、そこを利用するようになった。「悲劇的なサービス(1)(2)」にも記しているが、アメリカのサービス業のサービスは非常に悪い。スーパーのレジなどでも、ダラダラと時間がかかるし、お金を渡しても人の顔を見ずに受け取る。同僚とぺちゃくちゃおしゃべりしたり、スナック食べながらレジを打ったり……。気ままに楽しく仕事をするのはいいが、まったくお客をかまっちゃいない。おつりを投げるようにして渡されることもしばしばだ。

日本のように、購入したものは自分で袋に詰め込むようセルフサービスにすればいいのに、なまじレジ打ちの人が袋に詰めるもんだから悲劇である。バナナやリンゴなど傷みやすいものもお構いなしにドンドン放り込むからかなわない。

さて、話がそれたが、クリーニング店である。多分、30代後半であろうか、笑顔のやさしい女性がレジの前に立っている。軽く挨拶を交わし、「今日は寒いわねえ」とか何とか言いながら洗濯物を袋から取り出して渡す。彼女はテキパキと受け取り、ピッピッとレジに打ち込む。全部で14ドル。

20ドル札を財布から出し、何気なく彼女に渡そうとしてハッとした。彼女はにっこりと微笑みながら「両手で」そのお札を受け取ったのだ。そして、おつりのお札もまた、「両手で」渡してくれた。

ああ、なんてすてきな人!! 

ただそれだけのことなのだが、感情の振幅が激しいわたしは、非常に心が和んで幸せな気分になった。この数年間、お札を両手で受け渡しされたことなど、一度たりともなかった。アメリカでのがさつな毎日の中で思いっきり忘れていたお行儀。

「お客様は神様です」という、古典的フレーズが頭に浮かんだ。そうだった。お客様は神様だったんだ。

アジアのよさはアジア人にしかわかるまい。そう思うと同時に、自分のお行儀を省みて、日本人のよきところは失わずにいたいものだ、とも思った出来事だった。

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人間の性格というのは、生まれ育った場所の地理的環境を始め、文化や習慣に、当然のことながら大きく左右されるのだと言うことを、海外に出かけるたびに痛感させられる。

だいたい、欧米人は土足で家の中に入る。土足で入ったフロアに寝っ転がっても、一向に平気である。そんな彼らと、家に入るときには靴を脱ぎ、屋内を清潔に保ち、「人の心に土足で踏み込む」のは御法度と認識している日本人とは、精神的土壌に著しい差異があって当然だろう。

たとえばアメリカで、マクドナルドに入ったとする。母親が、子供にフライドポテトを与えるのに、テーブルの上に、じかに、ズササーッと、広げたりする。それを、子供はおいしそうにぱくぱく食べる。日本じゃ、ネコですら「モンプチ」などといって、クリスタル風の器に餌を入れて与えられているというのに。

地下鉄で赤ちゃんの手から哺乳瓶が転げ落ちる。拾ったお父さんはおしゃぶりのあたりを、薄汚れた自分のジーンズで軽くこすり、再び赤ちゃんにくわえさせる。赤ちゃんの雑菌に対する抵抗力も、半端なものじゃない。

アメリカ人といえば、環境ホルモンや農薬汚染などに敏感で、いかにもエコロジーを意識した国家だと思われている側面がある。しかしそういうことを意識している人とそうでない人たちの差異が著しい。都市部にはオーガニック専用のショップなどがあり、それなりに賑わってはいるけれど、郊外に出れば小錦級に肥満した人々がごろごろしている。彼らが好んで食べている物は、カロリーが高いばかりでなく、人工甘味料、着色料などもたっぷり備えた食品なのだ。

例えば、スーパーマーケットの生鮮食料品コーナー。山積みされている、ブドウやチェリーなどを、通過する人たちは「味見」をするかのごとく、ちぎっては口に入れる。もちろん洗って陳列されているわけではないから、農薬も残っているに違いない。でも、そんなことを気にしている人はいなさそうだ。現に私も、そうやって味見をしてから選ぶようになった。

何につけ、世界各国の「模範児」のような振る舞いをしたがるアメリカという国があるのも事実だが、その理想からまったくかけ離れた意識で生活している人もたくさんいるのが、アメリカなのである。

今日もまた、長くなってしまった。それでは、また。


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