臨時コメント(2)

9/13/2001 米国東海岸時間 深夜

 


●今もまだ、DC(アーリントン)にいる。

●来週には、マンハッタンに戻りたいけれど、今日も鉄道は混乱している様子。医療用救援物資がワシントンDCのユニオンステーションからニューヨークに運ばれているニュースを見た。

●夫は当然ながら「しばらくはニューヨークに戻るな」という。

●この三日間、急ぎの仕事をすませた以外、ボーっとしていた。

●正確には、何をやっても、集中が持続しない。10分ずつくらいで、電池が切れる。

●こんなとき、わたしの仕事の「急ぎ」って、少し軽い。

●だけど、もちろん、日々の、自分にできることは、きっちりとやります。それがわたしのやるべきことなので。

●でも、それはやはりきれいごとだな。ちっともきっちりなんて、やる気にならない。

●ニュースを見てはため息をつき、仕事をしてはため息をつき、電話をしてはため息をつく。

●こんなことじゃいけないと思うけれど、だめなときはだめなのだ。

●この三晩、悪夢ばかりを見ている。なので、午後4時頃になると無性に眠たくなり、1時間ほど寝る。するとまた、悪夢を見る。

●窓から見下ろせば、向かいのカフェテラスで食事をする人々。行き交う車。いつもとなんら変わらない光景。

●消防車やパトカーのサイレンが聞こえるたびに鼓動が高まる。飛行機の音も怖い。大の大人がこれだから、子供たちはどれほどの衝撃を受け、恐怖に包まれていることだろう。

●かつてパレスチナ人と付き合っていた友人と電話で話した。その彼女の親友の夫は、パキスタン人だ。「わたしたちは、彼らの底知れぬ強さを知っているから、怖い」と泣きそうな声で言う。相当に悲壮感に包まれている。

●出版物のニューヨークの風景写真は、ことごとく差し替えられるのだろうか、などと思う。

●13日の午後、飛行機の運航が再開され始めたのに、ニューヨーク近辺の空港は今夜また、閉鎖された。計3便に、あやしい人物が発見されたのだ。勘弁してほしい。

●「けんかするなら店の外でやってくれ!」という気持ちに似ている。「けんかするなら、地球の外でやってくれ!!」

●来週中旬くらいまでは、じっとしておいたほうがいいかもしれない。

●ニューヨークで事故にあった関係者を取材して欲しいという依頼があるが、とてもその心境にはなれない。

●DCからNYへ戻る列車の車窓から、ワールドトレードセンターとエンパイアステートビルディングを眺めるのが好きだった。

●その光景を見ると、「やれやれ、ニューヨークに戻ってきた」と思い、ほっとするのだ。

●わが両親と妹は、来月、ニューヨークに来る予定だった。父にとっては初めてのアメリカ、初めてのニューヨークになるはずだった。

●オペラやディナークルーズのチケットもすでに購入し、1泊でベースボールの聖地である「クーパースタウン」にドライブ旅行する予定も立てていた。

●すごく楽しみにしていたのに。

●スケジュール表にも、行く場所や予定を、いっぱい書き込んでいたのに。

●みんなを連れていきたいレストランとか。お店とか。

●その時期、夫の親戚主催で、ウエディングレセプション(披露宴)のニューヨーク版もやる予定だった。

●大きな悲しみに比べれば、ひどくささやかなものだけれど。

●大きな悲しみと、小さな悲しみと、さまざまな種類の悲しみが、あたりを覆っている。

●幸せとか不幸せの度合いが

●夫を亡くしてなお、気丈にテレビカメラに向かって心境を吐露する女性たちの、毅然とした姿に、敬服する。

●なにかに、祈らずには、いられない。

●うちには、このあいだ、インドで買ってきた、神様「ガネーシャ」の像が大小3つもある。頭の部分が「象」の神様だ。白檀のいい香りがする。

●パソコンのよこに、中ぐらいのを一つ置いて、時々、じっと見つめたり、握り締めたりする。わたしとしては、祈っているつもり。

●でも、「ガネーシャ」は商売の神様なのよね。

●9月11日。911。911といえば、アメリカの警察と消防署の電話番号。この間、書いたばかりだけど。

●2年前、財布を盗まれたちょうど1週間後に、うちのビルが火事になり、4人が亡くなった。自分の部屋に燃え移りそうな炎を見ながら、「財布が盗まれたくらい、たいしたことなかった」と思っていた。

●ハンドバッグを盗まれたちょうど1週間後のことだった。「ハンドバッグが盗まれたくらい、たいしたことなかった」と思っている。

●砂山の、砂の一粒一粒を、つまむかのように、クレーンが、残骸を、そっと拾っては、トラックの背中に乗せる。

●ブッシュが声高に「米国民のために」と叫ぶときの、違和感。わたしは米国民ではない。ニューヨークには、「米国人」以外の人間が、ごまんといるのに。

●ニューヨークに住んでいて、仕事もしていて、税金も納めているけれど、わたしは日本人だ。

●星条旗が大量に売れている。

●当日の午後、ジュリアーニ市長は呼びかけた。みんな、平穏にしていよう。ショッピングに行って、レストランで食事をし、「普通通り」にしていようと。そして家族と一緒に過ごそう、とも言った。

●献血の長い列ができた。でも、血液はすでに十分だという。献血に行った友人が何名もいるが、結局、献血できた人の話は聞かない。

●RHプラスは余っているらしい。マイナスがたりないという。

●マンハッタンに住んでいながら、「なくなっちゃったねえ〜、ワールドトレードセンター」と笑いながら言う日本人がいる。そういうときに、笑うことって、クールなの? 意味がよくわからない。

●事件の起こった数時間後、知人のもとへ、日本の某大手企業の社長から打ち合わせがしたいと連絡が入った。地下鉄も動かず、身動きがとれない状況だったので、それも、たいして急ぎの打ち合わせではなかったため、断ったところ、「それなら仕方がないな」と続けた後、上記の人物と同様に「なくなっちゃったねえ〜、ワールドトレードセンター」と笑いながら彼は言ったらしい。さらには「いやー、写真でも撮ってくればよかったよ」とも。 

●救いようがない。

●みなそれぞれに受け止め方が違うから、対応に戸惑う。ときに驚く。

●おなじ日本人でも、将来もこの街に暮らすことを考えている人と、数年間の滞在だとわかっている人とでは、事態の受け止め方が、かなり違う。当たり前のことだが。

●たまらない思いで記した「臨時コメント」を読んで、茶化す知人もいる。平常心ならば、「意に介さず」を決め込むが、こんなときには、その余裕がない。

●今回の一連の出来事について記した、ここ数号のメールマガジンに限って言えば、揚げ足をとったり、茶化したり、批判めいたメールを送ってこないでほしい。気に入らない場合は、これ以上読まないでほしい。

●フランス人の夫との間に二人の子供をもつ友人。今朝、子供が「お母さん、わたし、大きくなったらカナダとか、平和なところに住みたい」と神妙な顔つきで言ったという。

●日本で編集者として仕事をしていたころ。湾岸戦争の最中にドイツとフランスへ取材に行ったことを思い出した。ベルリンの壁が崩壊した翌年のことだ。

●海外渡航は自粛体制に入っているときだったけれど、月刊誌の仕事だったので、延期にはならなかった。

●フランスも、ドイツも、空港は厳戒態勢で、ものものしかった。

●南仏のプロヴァンス地方で、村道に車を停め、撮影をしたのち、カメラマンとライターと3人で車中でランチを取っていたら、私服の、銃を構えた警官にドンドンドンと窓を叩かれ、びっくりした。

●怪しい者がいると通報されたようだ。

●ドイツで日独通訳をしてくれた才媛ハイケさんのボーイフレンドはイラク人だった。

●ハイケさんは、ベルリンの壁崩壊の直前、たいへんな思いをして、東ドイツから西ドイツへ、亡命していたのだった。

●数日間、行動を共にしたけれど、彼女は時折新聞に目を通すなど、当然、戦争の行方に敏感だった。

●彼らと夕食をともにしたとき、レストランに訪れた花売りから、彼は1輪ずつのバラを買い、ハイケさんだけでなく、わたしにも、くれた。紳士だった。

●ダウンタウンの友人(R子)宅は14丁目以南に位置するため進入禁止区域になっている。夫のオフィスはミッドタウンだが、彼は今週いっぱい仕事を休んで家にいるという。

●窓を閉めていても、冷房の排気口などからきな臭いようなほこりっぽいような匂いが入ってきて、辛いという。

●マスクはもう、売り切れているという。

●R子に、次号のmuse new yorkの一部記事執筆を依頼している。ニューヨークにある幼児向け学習施設の体験取材だ。

●いくつかの情報が必要だったらしく、事件から3日目の今日、仕事を始めようとオフィスに電話したらしい。

●「あなた、どこから電話してるの? えっ、ニューヨーク?(信じられない、といった深いため息) テレビを見なさい。今、それどころじゃないでしょ」と怒られたらしい。彼女には、原稿の締切は来週末に延ばすから、無理をしないでね、と伝えた。

●次のmuse new york、どうしよう。発行はやや延期だ。

●日本からの依頼で、数日中に電話取材が必要な仕事が、わたしにもいくつかある。いくらわたしが仕事をしようとしても、相手がどんな状況で、どんな気持ちでいるかがわからないから、とても困る。

●「杞憂」という故事成語。昔、杞の国の人たちは、始終、何かを憂いていた。「あした天が落ちてくるかもしれない」「あした、山が崩れるかもしれない」

●しかし、自然は泰然としていて、彼らの憂いは過剰だと言われる。だから杞憂。

●「飛行機が落ちてくるかもしれない」が、杞憂ではないなんて。

●先週、結婚を知らせるカードを、日本の友人たちに送っていたのが、この事件をはさんで数日のうちに、みなのもとに届いたらしい。

●あまりにも、絶妙の、タイミングだった。

●大半の知人は、カードを受け取るまで、わたしが結婚したことを知らなかった。メールマガジンやホームページを見ている第三者の人たちの方が、友人たちよりも、実は内部事情に遙かに詳しいわけだ。それもまた、妙なものだと思う。

●「おめでとう」と「大丈夫?」が入り交じったメールばかりだった。

●いい加減、テレビを見るのも、辛くなる。

●けれど、一応、ニュースを追っておかなければとも思う。

●考えても仕方ないけれど、考えてしまうのを止められない。わたしは強くありたいと常々願っているけれど、そう、いつも、うまい具合にはいかない。

現在、わたしは自分の作品を書きためている。ニューヨークにまつわるエッセイのようなものだ。かつてメールマガジンで書いた内容と、一部重複しているが、昨日、一編、新たに書き下ろした。ここで公表するつもりはなかったが、この文章が、一番、わたしの気持ちを表現している気がするので、掲載する。

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●ダイヤモンド

 

 わたしが会社員を辞め、フリーランスの編集者兼ライターとして独立した27歳の春、母が記念に指輪をくれた。それは、かつて父が母に贈った指輪だった。両親の知人のジュエリーデザイナーが手がけたという、世界で一つしかないその大振りの指輪は、以来、毎日、私の左手の中指に収められている。

 まるで流れる川のように、滑らかな筋が幾重にも入った金色の輪。その中心には、中小、数粒のダイヤモンドが、流れに沿って細長く横たわっている。個性的でいて、上品なその指輪を、わたしは母が身につけていたころから気に入っていて、ことあるごとに、「これはいつかわたしにちょうだいね」と言っていた。

 母がわたしにくれるのは、もっと先のことだろうと思っていたから、プレゼントされたときは、喜びよりもむしろ驚きの方が強かった。

 それから3年後の春、わたしはマンハッタンにいた。この街で1年間、語学の勉強をするつもりで渡米したのだ。しかし、暮らしはじめてまもないころから(もしかすると、わたしは本当に、ここから離れられなくなるかもしれない)と直感していた。マンハッタンには、わたしが今まで、どの街に暮らしたときにも感じ得なかった心地よさがあった。言葉も通じず、不自由なこともごまんとあったが、不思議にしっくりときた。まるで街そのものに磁力があって、わたしは吸い寄せられたかのようだった。

 人と人の間に相性があるように、人と街の間にも、多分相性がある。わたしは大学を卒業して上京し、30歳になるまで東京で仕事をしていた。少なくとも、東京とわたしの相性はよかったとはいえない。それは単に、「人生における時期のよしあし」といった問題もあるのだろうが、それだけとも言い切れない。

 あのころを思うと、当時の自分が痛々しくて、胸が苦しくなる。自分がどこへ向かっているのか、何を目指して走っているのか、ちっともわからなかった。季節が変わったことすら気づかずに、追い立てられるように、急き立てられるように仕事をし、それでも行く先が見えず、不安や焦りに包まれていた。がんばっても、がんばっても、満たされない歳月を重ねた。

 今でも時々思い出す。日曜日の夕暮れどき、スーパーマーケットから古びたアパートへの帰り道。両手にビニール袋をぶら下げ、息も詰まりそうなほどに美しく、西の空を染め抜く晩秋の夕陽を眺めながら、滑り落ちていくような寂しさに襲われたことを。

 わたしはどこへ行けばいいのだろう。東京が嫌いだとか好きだとか、仕事がいやだとかいいとかいうことではない。ただ、世界のどこかに、自分にしっくりくる場所があるに違いないと感じていた。でも、それがどこなのか、わからなかったから、休暇を取っては旅を重ねた。ヨーロッパを数カ月さまよったこともある。アジア各地を巡ったこともある。でも、その場所はなかなか見つからなかった。

 そして29歳の春、(ここかもしれない)という期待を持って、イギリスで3カ月間、留学した。しかし、イギリスにも、自分の居場所を見い出ずにいた。そんなある日、突如、ひらめいたのだ。(ニューヨークかもしれない)と。それまで、特に興味もなく、訪れたこともなかったニューヨークなのに、そのひらめきは日増しに現実味を帯び始めた。多分、自分でも気が付かない、さまざまな因果関係がそこにはあったのかもしれない。いずれにせよ、わたしはイギリスから帰国する時点で、「来年はニューヨークへ、しかもできるだけ長期間行こう」と決めていた。

 

 マンハッタンに来てまもない、ある日のこと。わたしはカフェでコーヒーを飲みながら、窓越しにぼんやりと、行き交う人々の姿を眺めていた。すると突然、隣の席に座っていた、白髪を美しくまとめた老婦人が、カップを握るわたしの手を見つめて声をあげた。

 「まあ、なんてすてきな指輪なのかしら。まるでマンハッタンみたい!」

 彼女に言われて、ハッとした。本当だ。流れるような指輪はハドソン川。細長くあしらわれたダイヤモンドは、まさにマンハッタン島のような形をしている。今までちっとも気が付かなかったけれど、本当に、彼女の言うとおりだ。一度そう思うと、それはもう、マンハッタンをイメージして作ったとしか思えないデザインだった。

 

 わたしはマンハッタンの夕暮れ時が大好きだ。交差点から西を望めば、沈み行く朱色の大きな太陽が見える。摩天楼にキラキラと黄金色の光を反射させ、まさに街全体がダイヤモンドのようにきらめく。そんな、まばゆい光に包まれるとき、わたしは「あしたも、がんばろう」思う。この街で見る夕陽は、わたしに力を与えてくれるのだ。

 世界中から集まった人たちの夢や、情熱や、喜びや、悲しみや、辛さや、もう本当にたくさんの思いを、この小さな島は諸手で包み込み、裕福な人も、貧乏な人も、そこそこの人も、笑顔で一生懸命に生きている人たちに満ちたこの小さな島は、まさにダイヤモンドのような輝きを放っている。

 マンハッタンは、わたしにとって、世界で一番、愛すべき場所なのだ。


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