家庭では母が主導権を握っていた。

僕の頑固さは母ゆずりなんだ。

 


今回のニューヨーカー
ペルー・リマ出身 
オウグリオ・オレ・ベンジャミンさん
AUGURIO ORE BENJAMIN

1958年ペルーの首都、リマ生まれ。サンマルコ大学を卒業後、82年渡米。現在、クイーンズで一人暮らし。


 

僕の両親のふるさとは、ペルーの高地にある小村、アヤクチョというところです。仕事を求めて、それぞれに首都、リマに来ていた二人は、偶然出会い、同郷のよしみで親しくなったそうです。

父はサンマルコ大学の薬学部の助手を、母はイギリス人家庭のメイドをしていました。僕は6人兄弟の長男として生まれました。5番目に生まれたロサが唯一の女の子で、あとは男ばかりです。

母はとにかく強く厳しい人で、「怖い女性」というイメージが一番強いです。家庭での主導権は母が握っていました。特に僕が生まれたころは、彼女も若くて元気だったせいか、なおさら厳しかったようです。

確か4歳のころのことでした。いつものように、台所の一画に備え付けられた黒板に向かって、母が設問した足し算をやっていたときです。1問、2問はスイスイと答えられたものの、3問目でつまずいてしまいました。黒板を見つめている僕に、何をしているのかと母が問うので、「今考えているところ」と言ったら、僕の頭をゴツンと黒板に押しつけて、

「考えてないで、答えなさい!」

と、無茶なことを言われたことをよく覚えています。多少の熱を出したくらいでは、学校を休ませてもくれませんでしたし……。

母は、子供たちに対し、男女を問わず、家事のすべてを教えてくれました。料理、裁縫、掃除、手洗いでの洗濯方法などです。特に料理にはこだわりがあったようで、計量カップやスプーンを絶対に使わせてくれず、「目分量でおいしく作る」のが鉄則でした。物に頼るな、自分の目を養え、ということなのでしょうか。だから僕は、アメリカに来て以来、ずっと一人暮らしですが、家事に手こずったことはありません。

母の料理にかける情熱は、並大抵ではありませんでした。ペルーでは一日のうちで、ランチが一番大切な食事なのですが、母は毎日、父や子供たち一人一人に、それぞれが好みの素材を使った異なる料理を作ってくれていたのです。例えば父にはチキン料理を、肉の赤身が好きな僕には肉料理を、魚が好きな妹には魚料理を……といった具合です。ランチタイムは、家族全員が職場や学校から戻って来て、食卓を囲みます。

母は、毎朝6時ぴったりに起きて、市場へ行き、新鮮な食材を買って来ていました。当時は、皆、その日食べるものはその日に買っていたものです。

ペルーには「典型的な料理」というものがありません。なにしろ、海岸、森林、高地と、地方によって気候がまったく異なりますから、収穫される食物も地方によって大きく違うのです。海岸地域では、フンボルト海流の影響で、豊富な魚介類が水揚げされます。

また、5000〜6000メートル級の山々が連なるアンデスは、ジャガイモをはじめ、トウモロコシ、カボチャ、トマトなどの原産地として有名です。ジャガイモだけでも、厳密には1000種類ほどもあるんです。また、アマゾン流域ではトロピカルフルーツも豊富です。

僕は小学生のころから、医学に関する仕事に就きたいと思っていました。「人を救う仕事」をしたかったのです。その気持ちは今も変わりません。ですから、放課後は友達とサッカーをしたりして遊んでも、家に帰ってからは、必ず宿題以外の勉強もやっていました。

当時、学校は男女別々でしたが、僕がペルーを離れた直後、一時男女共学になっていました。ところが、男女が一緒になったことで勉強に身が入らない生徒たちが増え、今ではまた別々になっているということです。

高校を卒業後、サンマルコ大学に進学、そのころ興味を持っていた考古学を専攻しました。ところが、在学中、幼いころの夢だった医学の勉強がしたくなり、卒業後はアメリカの大学に進学しようと決意しました。そして、1982年、23歳のとき、ニューヨークへやって来たのです。

手探りの状態で、まずはスタテン・アイランド大学の医学部に入学したのですが、自分の英語力の足りなさを痛感するばかり。それに、勉強を続けるためにはお金が必要です。レストランやスーパーマーケットなどで働く傍ら、英語の勉強、そして医学を勉強する日々が始まりました。

その後、クイーンズにあるコミュニティーカレッジなど、いくつかの学校で勉強をして来ました。今は、週に40時間、ビルのセキュリティーとして働きつつ、カレッジでリベラルアーツとサイエンスを学んでいます。

渡米以来、18年の歳月が流れましたが、いまだ、医学の学位を取るための、長い長い課程のただ中にいるのです。ようやく来年から、学位を取るためのトレーニング期間に入ります。マウント・サイナイかNYUでトレーニングを受ける予定です。それから学位を取るまでには、さらに12年かかります。本当に長い道のりです。

僕の頑ななこの性格は、きっと母親譲りだと思います。それと、母の口癖だった、

「夢があるのなら、それに向かって進め」  

という言葉が、強く心に残っているのかもしれません。

両親は、今でもリマで元気に暮らしています。時々電話で母と話すのですが、相変わらず厳しくて強い人です。 


十数年前の家族の写真。リマの自宅にて。左から弟、父、母、妹。両親は今でもこの家に住んでいる。


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