5人の子供を一人で育てた母。

今でも故郷を思うとホームシックになります。

 

 


今回のニューヨーカー
ブラジル・サルバドール出身 
ウォルター・カルヴァホさん
Walter Carvalho 

1965年ブラジルのサルバドール生まれ。1986年に首都ブラジリアに移り、以来フォトジャーナリストとして活躍。2000年、さらなる活動の場を求めてニューヨークへ。


ブラジル中東部、バイーア州の州都、大西洋に面した古都サルバドールが僕の故郷です。1549年にポルトガルの総督府が置かれて以来、200年以上にわたり植民地時代の首都として栄えていました。白砂の美しいビーチが広がり、街には300を超えるカソリック教会や、植民地時代を彷彿とさせる古びた建築物が立ち並んでいます。

 僕は5人兄弟の次男として生まれました。父はセールスマンで母は専業主婦でした。僕が7歳のころ、両親は離婚し、僕ら兄弟は全員、母のもとに引き取られました。経済面では父がサポートしてくれてはいたものの、母は一人で僕たちの面倒を見なければならず、ずいぶん苦労したようです。精神的には父母両方の役割を果たしてくれていたと思います。母は教育熱心な女性でもあったので、子供たちの勉強をみてくれることもありました。

 子供のころ、食卓には、母が作るバイーアの伝統的な料理が並びました。エビと魚を一緒に細かく刻み、ココナッツミルクやデンデ油(ヤシから作った油)、パンと一緒に煮込んだものを白いご飯の上にかけて食べるヴァタパ(Vatapa)や、レッドペッパーとオクラで作ったスパイシーなソースを炒めたエビの上にかけて食べるカルル(Caruru)などが定番の料理です。それから、アカラジェ(Acarase)もよく食べました。トウモロコシの粉を練り、デンデ油で揚げたものをパンに挟んだサンドイッチで、小エビやカニを挟んだものもあります。付け合わせは豆やポテトが多いですね。ちなみにブラジルの代表的な料理にはシュラスコ(Churrasco)など、ダイナミックな肉料理もあります。おいしいビールも味わえますよ。

 ところでブラジルの国民的スポーツといえばサッカーですが、僕は子供のころから苦手で、観戦するのも好きではありませんでした。サッカー嫌いのブラジル人は珍しいですよね。もっぱらテニスをやっていて、高校のときには大会でメダルをもらったこともあります。

 両親は離婚してはいたものの、父は週末になると、子供たちに会いに来てくれました。父に連れられてビーチや公園、動物園などに行ったことをよく覚えています。10歳のときでしたか、父がカメラを買ってくれたんです。そのときから僕は写真撮影に熱中しました。家族や友達にはじまり、街の風景、スポーツシーンなど、あらゆるものを被写体にシャッターを切りました。数年後には、動きのあるものを撮りたくなり、今度はビデオカメラを買ってもらい撮影に熱中しました。そのころ、将来は映画監督になりたいと思っていました。

 サルバドールでは、2月から3月にかけての夏期、約1週間にわたって盛大なカーニバルが開かれます。ステージが設営されたトラックの上で、数々のバンドが音楽を奏で、ダンサーたちが熱狂的な踊りを披露します。世界的に有名なミュージシャンたちも参加するカーニバルで、世界各地から観光客も訪れ、それはもう、街中がたいへんな賑わいとなります。そんなカーニバルの様子を撮影するのも、とても楽しいものでした。

 1986年、21歳のとき、フォトグラファーになることを決意した僕は、故郷を離れ首都のブラジリアにビジネスチャンスを求めて移り住みました。しばらくは母の住むサルバドールがとても恋しかったです。ブラジリアでは大手出版社に勤務し、雑誌向けに数々の報道写真を撮影しました。4年後には通信社に転職し、雑誌だけでなく新聞用の写真も撮影するようになり、フォトジャーナリストとしての基盤を築いていきました。十数年の間に、いくつもの報道関係の賞を受賞しました。

 91年には、サルバドールを拠点とする新聞社に招かれ、再び故郷で暮らし始めることになりました。その新聞社では、政治・経済関係の写真をはじめ、スポーツやエンターテインメント、カルチャーなど、幅広いジャンルの写真を撮り続けました。けれど何年もそのような仕事を続けているうちに、僕は、次の大きな人生のステップを踏み出したくなりました。ニューヨークに行って英語を身につけ、写真や映画について、もっと勉強したいと考え始めたのです。

 そして2000年の夏、ブラジルでの仕事を中断して、ニューヨークに来ました。現在は、語学学校に通いつつ、ビジネスチャンスを探しているところです。6年前、仕事を通して出会ったフィアンセのサンドラも一緒にニューヨークに来ました。ジャーナリストである彼女もまた、僕と同様に、ニューヨークでキャリアを積もうと努力しているところです。

 実は、僕は22歳のとき、ブラジリアで一度結婚しているんです。2年後に離婚したんですが、僕たちの間にはアマンダという娘がいます。アマンダは今、元妻と一緒にブラジリアに住んでいるのですが、彼女を思い出すたびブラジルに帰りたくなってしまいます。アマンダのためにも、一刻も早く英語をマスターして、キャリアに磨きをかけ、新境地を開きたいと思っているところです。

母のノエメ。現在も故郷サルバドールで、
長男と二人で暮らしている。

学校の制服を着た愛娘のアマンダ。
彼女をモデルにした写真は無数にある。

 


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