●人種の違いを感じるとき:眉、まつげ、まぶた編

目にゴミが入ったようだ。上の瞼の奥あたりに異物感があり、気持ちが悪い。鏡で映して見るも、自分ではよくわからない。

夫を呼び、目の中を見てもらう。しかし、異物の存在は認められない模様。わたしの目をまじまじと眺めながら、彼は言う。

「美穂はさあ、本当にまつげが短いよねえ。眉毛もないし。まつげが短いから目にゴミが入るんだよ。まつげは目を守るためにあるんだからさあ」

そう言ったあと、「ブルルルン! ブルルルン!」と、巻き舌による擬音をたてながら、自らのその長いまつげを指先でなぞり、自慢げに示す。大きな大きな目の縁に、わたしのまつげの5倍、いや10倍と言っても過言ではないほどにびっしりと、濃いまつげ群がある。

「ええい。うるさい。単に毛深いだけじゃない。だいたいあなたは、目が痛くて困っている妻に対する思いやりの気持ちはないのか」と、わたしはなじる。

それに眉毛だって、ないわけじゃない。ある。ただ薄いだけで、ちゃんとある。しかし彼にとっては、ないも同然かもしれぬ。わたしの眉もまつげも。

筆に濃い墨汁をしたたらせ、スパン、スパンと一気に書きあげたが如き濃い眉。瞬くたびに、バサン、バサンと音とたてんばかりに密生したまつげ。朝、目覚めたとき、傍らで眠る彼のそのまつげに、ブランケットの綿毛が吸着しているのを見て、思わず笑ってしまたこともある。

なにしろ顔の要素がいちいち濃厚なインド人である。日本人の中においても一段とあっさりした造作のわたしの顔は、確かに物足りなくもあるだろう。しかし、これがわたくしなのだ。典型的東アジア人なのだ。

ところで、先日、友人と話していたとき、一重瞼、二重瞼の話になった。あるとき友人がアメリカ人の夫に、英語で一重瞼をなんというのか、尋ねたという。ところが、それを表す適切な言葉がないという。

よくよく考えてみれば、アメリカ人には一重瞼の人は存在しないのよね。存在しないから、言葉もない。そう考えると、一重瞼のインド人もいないな。

一重のインド人、アメリカ人、想像してみるに、すごく妙な顔つきだものね。二重瞼の人間しかいない人種にとっては、やっぱり一重瞼のわたしの目は、はれぼったくて細くみえるのだろう。

なーんかやな感じだけど、仕方ないわね。でも、マスカラくらいは付けてたほうが、チャーミングかしらん。

ところで目の中のゴミはいつまでたっても取れず、2日後に、自然に治っていた。

(5/12/02)

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