SCENE 47: ドクター参上。悪夢の夜
DELHI, NOVEMBER 7, 2004

今朝、ハトにフンを落とされたとき、みんな言ったよね。
今日はいいことがあるって。

ありゃ、大嘘だった。

今夜は最悪。


■眠れない夜 (※注:以下、爽やかではない話題ですので、あらかじめご了承ください)

すでに夕方の段階から、夫の胃腸はかなり悪かった。下痢気味だった。夫が打ち合わせに行っている間に薬を買おうと思ったが、ホテルのドラッグストアはすでに閉店していたので、ホテルのコンシェルジュに頼み、ドクターに電話をしてもらう。

ドクターに電話で夫の症状を話し、必要な薬の名前を教えてもらった。そのメモをホテルに渡すと、担当の人が薬局に買いに行ってくれた。こういうとき、きちんとしたホテルは対応が早いので安心だ。

わたしが夕食を終えるころには、薬も手元に届き、夫が部屋に戻ってきた10時半ごろ、薬を飲ませ、11時には早々にベッドに入った。ところが、ベッドに入って数分もたたないうちに、夫は下痢だけでなく吐き気にも見舞われはじめた。

以降、ほぼ10分おきに、夫はトイレとベッドを往復し、それはもう、たいへんな状況となる。薬はあまり効いていないらしい。というか、ものすごく、悪化している。幸い、熱は微熱程度だが、上がる可能性もある。

バスルームで夫の背中をさすりながら、わたしは自分の身の上に起きた、さまざまな「嘔吐・下痢」体験を回想する。

嘔吐の極みは、モンゴルのあの飛行機に乗ったとき。あれは辛かった。あれは未だに史上最悪の飛行機酔いだった。

食あたりでいえば、上海だな。一人旅の最終日、屋台の料理を食べた後。ビールを飲んでいたら途中で雨が降ってきて、ビールが注がれていた湯飲み茶碗に雨が降り注いだんだよなあ。あの雨も、一緒に飲み干したからなあ。あの夜は、寝られなかった。

そうそう。フリーランスのころ、取り引きしていた会社の社員旅行に連れていってもらったタイでもひどい目にあった。あれは確実に食中毒だった。ちょうど大晦日で新年を迎える12時前に、苦しみがピークに達して、ホテルの診療所に駆け込んだのよね〜。

お尻に注射されている瞬間、「ハッピーニューイヤー!」という歓声と花火の打ち上がる音が外から聞こえてきたっけなあ。あの夜は、惨めだったなあ。1995年だったか。

夫と二人旅では、主に夫が具合が悪くなることが多かった。忘れもしない、南フランスのエクサン・プロヴァンス。あのとき、夫はおいしいからと、甘い物を食べ過ぎた上に、夜、フォアグラを食べて胃がもたれ、夜中、嘔吐をくり返したのだった。あの夜も、こんな感じだったなあ。

以降、二人の間では、吐き気がすることを「エクサン」などと表現したりして、エクサン・プロヴァンスには甚だ申し訳ないことだ。

などと記憶をたどりながら、現状の苦しみを紛らわそうと思うのだが、どうにも夫の様子は悪化する一方だ。12時を回ったころ、ホテルのフロントに電話をし、ドクターに来てもらうよう依頼する。

夫とわたしはほとんど同じ物を口にしてきたから、具体的に何かにあたったというわけではないだろう。ただ、食べ合わせが悪かったか、体調が弱っていたかのいずれかだろう。

約30分後にドクターが到着。部屋のベルがピンポーンとなった瞬間、それまでドロドロになっていた夫は急に居住まいを正し、平常の表情に戻ったから驚く。

ドクターは、わたしが電話で話した人とは違うらしい、長身で、ちょっとふっくらした感じの、優しげな中年男性だった。

"Hi! Good evening! How are you?"

立ち上がり、にこやかな笑顔で迎える夫。さっきまで「ああ、もうだめだ!」とか叫んでたくせに。パジャマのズボンは脱ぎ捨てた、中途半端な服装なのに。なんなんでしょう、このウェルカムな姿勢。

「君こそ、調子はどうなんだ?」とドクターは笑いながら夫に問いかける。

夫はまるでリサーチの結果を報告するような生真面目な口調で、自分の病状を報告し始める。その外面のよさというか見栄っ張りというか、著しい態度の豹変に、わたしは笑いを禁じ得ない。

ドクターは夫に注射を打ち、処方箋を書き、「薬はホテルのフロントに買ってきてここに持ってくるよう手配するから、心配ありません」と、とても優しげだ。

「明日からハードスケジュールで仕事が詰まっているんですが大丈夫でしょうか」と問うわたしに、「問題ありませんよ」と一言。

「食べ物は、何をとったらいいですか?」と問えば、「バナナやヨーグルトがいいですね」とのこと。あるいは、薄味のダル(豆の煮込み)などもいいらしい。脂っこい物、脂肪分の多いものを避ければ、特に神経質になる必要はないとのことだった。

バナナやヨーグルトは余計にお腹が下りそうな気がするが、そうでもないらしい。

ドクターが立ち去るときも夫は立ち上がり、握手をしてお礼を言い、更には「名刺をいただけますか?」と言って名刺交換までしていた。更には、もらった名刺を見て、

「わお! 彼はやっぱり、スマートだよ。見てご覧!」

といいながら、彼の名刺をわたしに見せる。米国の大学を出て、数々の賞を貰った経歴がそこに記されていた。確かにスマートなドクターに診てもらってよかったけど、そんなことはさておき、どうなのよ体調は。

結局、それから1時間後に薬が届き、それを飲み、その後もやはり数回バスルームへ行き、数時間寝て、翌朝8時のミーティングに備えて6時半には起床という、非常に辛い一夜を過ごしたのだった。

4本の打ち合わせを、ともかくは終えて、バンガロールへ飛ぶ。それが目下の目標である。

それにしても、世話のやける男ではある。


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