SCENE03: 不可解な衝動
MUMBAI (BOMBAY) AUGUST 31, 2005/ DAY 2

真夏とあれば蒸し暑く、人だらけ、カラスだらけ、ハトだらけ、野良犬だらけ、
ゴミはあふれて臭くて汚く、街を歩けば、不快指数が急上昇。

なのに、無難なバンガロアではなくて、ムンバイに住む方が、いいかもしれない。
などとひらめいてしまう自分に、最早、厭気がさすほどなのだ。


【8月31日(水)】

今日は、わたしの誕生日だ。それも40歳という、大いなる「節目」の誕生日だ。何やら「てっへ〜」ってな気分だ。

それにしても、「姫気分」台無しな、今朝だった。

インドでは大理石が採掘されるから、なにかというとあちこちのフロアが大理石である。高級ホテルのバスルームも例にもれず、上から下までまんべんなく大理石である。すべすべと清潔感があっていいのだが、滑りやすいのが難点だ。

夕べは広々としたバスタブにシャワージェルをふんだんに泡立てて、優雅〜に入浴したのだが、なぜか浴槽の外が水浸しになっていて、危うく滑って転びそうになった。湯を溢れさせたわけでもないのに、おかしいな、と思って調査したところ、大理石の隙間から、水がもれている。

インドだもの。と思いつつ、明日の朝にでも修理に来てもらおうと、寝たのだった。

そして今朝。目覚めてベッドから降り、足先をじゅうたんに着地させた瞬間、「うひゃ!」っとなった。

じゅうたんが濡れているではないか! バスルームから、水がしみ出しているらしい。バスルームの床は夕べ拭き取っておいたから、別の箇所からも水漏れしているのだろう。高級ホテルの、去年、改装されたばかりというこの部屋が、いきなりこれである。

そんなわけで、今朝は広げた荷物を再び詰め込み、部屋から部屋へ移動である。

その合間に、義姉のスジャータ、義父母ロメイシュとウマ、義祖母ダディマから、誕生日を祝す電話が入る。夫と出会って以来、彼らは誕生日には欠かさずカードを送ってくれ、こうして電話をかけてくれるのだ。

部屋の移動がすんだあと、洗濯をした。誕生日の朝に洗濯なんぞしたくない、とも思ったが、ランドリーの料金表を見ると呆れるほど高いので、瞬時に却下。またしても、バスタブに湯を張り、シャワージェルを泡立てて、洗濯物を放り込み、「足踏み洗い」である。全然、優雅じゃないのである。

ちなみに洗濯物は洗ったあと、バスタオルにくるんで上からのしのしと踏み付けると、水分がタオルに吸収されて「脱水機」並みの効果を発揮する。実によく乾くので、旅先で洗濯する際にはお試しあれ。

さて、我が誕生日を祝すため、午後はフェイシャルとマッサージなどをしてもらおうと、先程スパに電話をした。

「マダム。本日のエステティシャンは男性ですが、よろしいですか?」

男性のエステティシャン? マッサージなら男性から受けたことはあるが、フェイシャルは初めてだ。どうしようかと迷うわたしに、彼女は言う。

「彼は、たいへん技術のあるエステティシャンですから、ご安心ください」

そりゃ、安心じゃなかったら、まずかろう。それはさておき、ものは試しだ。2時に予約を入れた。

ランチをすませ、ビューティーサロンへ向かう。ラウンジで待ちながら、持参していた佐藤愛子の『血脈』(下巻)を読んでいたところ、

「お待たせしました〜っ!」

と、登場した彼。心無しか、手指の先が、外を向いている。心無しか、膝から下を弾ませて歩いている。心無しか、発する言葉の語尾がくるんとしている。そして、SEX AND THE CITYのキャリーのゲイ友達、スタンフォードにとってもよく似ている。

その彼にいざなわれ、トリートメントルームへ。彼の大きな手が、しかし慣れた手付きで化粧を落とし、軽くマッサージをし、最初のマスクを塗る。塗り終えたあと、彼は目を閉じていたわたしに、

「目は、開いてもいいわよ」

と言った。そして自分は立ち上がり、わたしの傍らでおしゃべりをはじめた。彼曰く、彼の師匠は日本人女性だったという。数十年前、大阪出身の女性が、この地で「ボンベイ・ビューティーサロン」を立ち上げた。富裕層の人気を集めていたそのサロンで、彼は修行したという。もともと彼はコスメトロジー(美容術)を学んでおり、その延長でエステティシャンを目指すことになったとか。

「彼女は、本当によく働く人でした。人に厳しかったけど、自分にもとても厳しかったの。特にぼくのことは、自分の息子みたいに気をかけてくれて、よく面倒をみてくれました」

マスクを乾かす間、彼は彼女の思い出話を語り続ける。彼女は何年か前に帰国したが、ボンベイ・ビューティーサロンは今も営業しているらしい。

「彼女から教わったことは本当にたくさんあるけれど、忘れられない出来事があるの。あるとき、彼女をお客さまに見立てて、トリートメントの練習をしてたのね。その途中、ぼくはミスをしてしまったの。そしたらその瞬間に、彼女はパ〜ンと腕を振り上げて、僕の手を振り払ったの! もう、僕、本当にびっくりして。あ、怒ったんじゃないのよ。ただ、本当に、気が動転(upset)しちゃったの。

そのとき、彼女がぼくに言ったの。お客さまの前では、絶対にミスは許されないのよ。いつだって、完璧なサーヴィスを提供できるように、努力しなきゃだめなのよ! って。彼女もぼくも、ほとんど、泣きそうだった。それくらい、彼女は真剣に仕事に向き合っていたのよね。本当に、彼女には感謝しているの」

話の割に、結構カジュアルなトリートメントを施す彼ではあったが、それはそれとして、興味深いエピソードを聞かせてもらい、楽しいひとときではあった。

フェイシャルのあとは、別の男性(こちらは肉体労働者風のおじさん)に、ヘッドマッサージをしてもらう。コットンに浸したオイルを、頭皮にたっぷりと塗り付け、それからはもう、渾身の力を込めるかのごとく、頭をぐいぐい押さえ付けつつ、気持ちいいんだかなんだかわからない、かなり激しいマッサージだ。

フェイシャルのあとに、オイルだらけの髪の毛がバシバシと顔にぶちあたって、もう優雅のかけらない。

更には、へんてこなマシーンを取り出してきた。まるで「地雷」のような形のそれは、手の甲に固定できる様、小さなゴムベルトが2本、ついている。それを右手に装着し、彼はスイッチを入れた。するとそのマシーンはぶるぶると震動しはじめた。そのマシーンを付けた手で、彼は背中や肩をマッサージする。

「ハンディ・バイブレーター」とでも名付けようか。震動は、おじさんの手のひらを通して、背中に、肩に、激しく伝わってくる。そんな変なマシーンを使って、おじさんの手、おかしくなるんじゃないの? と他人事ながら心配だ。と、人を心配している間もなく、だんだん気持ち悪くなってきた。そのハンディ・バイブレーターを付けた手が頭に到達し、ヘッドマッサージをはじめた日にはもう、頭ががんがんして、即刻、やめてもらった。

へんだ。そのマシーンはへんだ。そう思ったが口には出さず、「わたしにはちょっと強すぎるみたいです」と無難に断りを入れた。こんな変なマシーンを発明するのは、インド人に違いなかろうと確信して尋ねた。

「その機械、インド製?」

おじさんは、得意気にこたえた。

「イエス。インド製です!」

思いのほか、ユニークな時間を過ごさせてもらった午後だった。


ホテルの近くにシティバンクができていた。米国の口座から直接引き落とせるので便利なのだ。

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